後漢の騒乱 外戚・宦官の悪政
■ 後漢の騒乱 外戚・宦官の悪政
後漢の騒乱 外戚・宦官の悪政
袁紹は若い頃、快活で謙虚という若者に好かれるスタイルで曹操を初め、大勢のものに慕われていました。名声も高かったようです。一方で袁術は袁紹の人気が高いことを妬み、袁紹の家柄のことをバカにしていました(母親の家柄が低かったようです)。相手の人気を妬み、家柄のみを誇るとは、袁術の小物感が若い頃から現れていると言えます。一方で袁紹は都で名士と交わり、後々役に立つ人脈を築いていきました。
後漢の皇帝である霊帝が崩御すると後継者を巡って、外戚たちが権力争いを始めます。劉弁の外戚である何進は劉弁を後継者にするために、宦官一掃を袁術らに図ります。ところが、何進の妹である何太后が宦官たちから賄賂を受け取り、実行できませんでした。そして、何進は宦官たちに暗殺されてしまいます。この時の何進の配下に袁紹・袁術が共にいました。彼らは何進の仇討ち(というのはおそらく名目で自分たちの安全と権力)のため、宦官たちを皆殺しにします。袁紹と袁術の仲が良かったわけではないでしょうが、利害が一致したため、協力してことに当たることになりました。
朝廷大混乱 董卓の暴政
■ 朝廷大混乱 董卓の暴政
朝廷大混乱 董卓の暴政
何進・宦官共に死んだ後、朝廷の実権を握ったのは董卓でした。彼は何進・何太后によって擁立された少帝(劉弁)を廃すると献帝(劉協)を皇帝としてたてます。圧倒的な権力と武力を手中にした董卓に危険を感じ、袁紹は冀州に、袁術は荊州の南陽に逃げます。その後、東郡の太守である橋瑁の呼びかけによって反董卓連合軍が結成されます。曹操が檄をとばして結成されたというのは演義内でのお話です。袁紹は董卓軍の強さを恐れ、積極的に戦いをしませんでした。そのため、主戦派である曹操などから非難されました。一方、袁術は勇猛果敢な将軍である孫堅が配下にいました。孫堅は華雄を討ち、董卓軍を破りました。そして、董卓が洛陽に火を放ち、逃げるように長安に遷都すると、洛陽を占拠しました。占拠はしましたが、洛陽は焦土となっており、董卓は逃げた後だったので、反董卓連合軍は目的も補給もなくなり、自然と解散になりました。
董卓は西の長安で強大な勢力をほこっていましたが、袁紹と袁術は東で権力を争っていました。刻々と変化していきますが、最初の頃は、大まかには
袁紹・劉表・曹操 -- 袁術・孫堅・公孫瓚・陶謙
という図式です。まず、袁術は孫堅に命じて劉表を攻撃させます。ところが、孫堅は劉表に敗れ、戦死します。続いて、公孫瓚・陶謙に要請して袁紹・曹操を攻撃させますが、これも敗れます。最後に自らが兵を率いて出陣しますが、曹操・袁紹に敗れ、劉表に退路を断たれ、本拠地である荊州の南陽を捨てます。袁術は揚州に逃亡し、劉繇を追い出し、寿春を拠点とします。
周りを巻き込む勢力争い 曹操・孫策の台頭
■ 周りを巻き込む勢力争い 曹操・孫策の台頭
周りを巻き込む勢力争い 曹操・孫策の台頭
南陽・寿春は人口が多く、土地も肥えていて、豊かでしたが、袁術の贅沢な生活で荒れていきました。そういった袁術を見限ってか、同盟者・配下であった陶謙・孫策(孫堅の息子)たちが見限っていきます。その陶謙は史実ではかなりの暴君で野心家であったようで、敵対していた曹操の父親を殺害します。怒り狂った曹操は陶謙の本拠地である徐州に攻め入ります。この時、呂布が曹操の本拠地である兗州に攻め入ったことによって、曹操は退却します。やがて、陶謙が病死すると、徐州は劉備(玄徳)が支配します。その徐州を袁術が攻めます。袁術は当時、徐州で劉備(玄徳)の客となっていた呂布を寝返らせ、劉備(玄徳)軍を破ります。戦争に勝ったのは良いが、徐州は結局、呂布が支配してしまい、袁術の徐州侵攻作戦はうまくいきませんでした。その間、袁紹は河北で公孫瓚と戦いを続けていきます。公孫瓚は強く、袁紹も負けてはいないものの中々打ち破ることが出来ません。
袁紹、袁術がそれぞれの戦争に明け暮れている間、勢力を伸ばしていったのが曹操と孫策でした。曹操は呂布を破り、張繡を降伏させ、中央で着々と力を蓄えていきます。一方孫策は江南の地で劉繇・王朗・厳白虎らを破り、袁術から独立を果たします。新しい勢力が大きく力をつけてきていました。
変化してゆく周りの環境 呂布・公孫瓚の滅亡
■ 変化してゆく周りの環境 呂布・公孫瓚の滅亡
変化してゆく周りの環境 呂布・公孫瓚の滅亡
孫策に独立され、徐州を落とすことも出来ない袁術は呂布と婚姻を結んで同盟し、都の曹操に対抗しようとします。ところが、呂布はその使者を捉え、都に送ってしまいます。激怒した袁術は徐州に攻め入りますが、呂布軍の計略のため、裏切り者が出て、大敗してしまいます。そして、さらに曹操軍に敗れ、袁術の勢力は大きく後退します。その頃、袁紹は曹操と友好関係を築いています。
事態が変わるのは呂布が曹操に滅ぼされる頃です。袁紹は曹操との友好関係がだんだん悪くなり、挑発し合ったりするようになります。袁術の方は一度はダメになったものの、再度呂布と同盟を結びます。その呂布が曹操によって水攻めにされます。袁術は呂布に援軍を申し込まれますが、以前の呂布の行動を思い返し、積極的に行動せず、結局呂布は曹操に捉えられ、処刑されます。それが、後々自分の首を絞める事になります。
そして、袁紹はついに宿敵の公孫瓚を滅ぼします。この時点で黄河を挟んで袁紹と曹操の二大勢力状態。袁術は大きく二人に遅れをとっている状態となります。
時代の移り変わり 袁氏の滅亡
■ 時代の移り変わり 袁氏の滅亡
時代の移り変わり 袁氏の滅亡
袁術は数年前から皇帝を自称しています。まさに「自称」のみですが。その袁術も自身の勢力を最早維持できないと悟ると兄である袁紹に皇帝の位を譲って、身の安泰を保とうと考え、使者を送ります。袁紹が了承し、受け入れようとしますが、曹操が劉備(玄徳)と朱霊を徐州に派遣し、それを阻止します。そうこうしている内に、ついに袁術は病死します。
直後、劉備(玄徳)が徐州で曹操に対して反乱を起こします。袁紹の参謀である田豊は「この機会に曹操を攻めるべし」と進言しますが、取り入れられません。そうして、機会を逸した後、袁紹は陳琳に曹操の悪口を散々に書いた檄文を発表させ、兵を起こします。結果、袁紹軍は内部の権力争いで崩壊し、曹操は自分の悪口を書いた陳琳の文章を褒めてしまうといった懐の広さを持った用兵を見せつけ、曹操が大勝します。
袁紹はやがて病没し、息子たちも後継者争いに明け暮れたあと、曹操によって全員滅ぼされてしまいます。古い体制の象徴であった、袁紹・袁術が新しい勢力である曹操に滅ぼされることによって、後漢から三国時代へと確かに移り変わっていくことになります。