結局どうなったの?「陽人(虎牢関)の戦い」とその後の真実

結局どうなったの?「陽人(虎牢関)の戦い」とその後の真実

虎牢関の戦いとも呼ばれる「陽人の戦い」。袁紹ら諸将は、暴君・董卓への反乱を起こします。悪を征することは美徳とされていますが、この戦後をご存知でしょうか?三国志を飾る戦いの1つを、史実ベースでご紹介します。


反董卓連合軍にいた名将たち

反董卓連合軍にいた名将たち

反董卓連合軍にいた名将たち

「反董卓連合軍(以下、連合軍)」は、その名の通り董卓を討つべく結成されました。連合軍の諸将は数多くいますが、陽人の戦い後も活躍した名将もいます。

袁紹
後漢時代に活躍した名門・袁氏の一人。袁氏の将来を担う有力者と評されていました。後述の曹操とは幼馴染です。

曹操
5,000の兵力をもって、反董卓連合軍に参加。のちに、魏の君主として活躍します。

袁術
袁紹のいとこ。袁紹と同じく、袁氏の有力者として注目されました。

孫堅
17歳の頃に海賊を追い払ったのち、袁術の部下として活躍します。呉の初代皇帝・孫権の父親でもあります。

暴虐に明け暮れる董卓

暴虐に明け暮れる董卓

暴虐に明け暮れる董卓

三国志は、黄巾党の暴走から始まりました。黄色い布をつけたその宗教団体が鎮圧されたのち、董卓が洛陽へ侵攻します。

やがて政権を握った彼は、暴虐の限りを尽くしました。女性を我が物とし、金品を奪う行為は連日続いていたそうです。人々は胸の痛みと憎しみを抱きましたが、董卓の前では無力でした。

その理由は、董卓があの呂布を従えていたからです。呂布はもともと丁原という武将の養子でしたが、董卓の誘いに乗じて丁原を殺害。
圧倒的な武力を誇る呂布は、三国志最悪の政治家を護ることとなりました。

もともと洛陽に務めていた曹操も董卓に招かれましたが、怖ろしさを知った曹操はすぐに逃げ込みます。

天下無双の男、呂布

天下無双の男、呂布

天下無双の男、呂布

三国志最強の武将、呂布奉先。丁原からは養子として愛されていましたが、董卓との出会いを機に丁原を殺害します。その後、呂布は董卓と親子関係を結びました。
また、血のように赤い「赤兎馬」にまたがっていたことで有名です。そこで人々は「人間において呂布が強く、馬では赤兎が優れている」と口にしました。

三国志演義では、槍と斧が一体化した「方天画戟」、触覚のような兜が呂布の恐ろしさを表していました。ここでの董卓は赤兎馬で呂布を釣り、丁原の殺害に至ります。

そんな呂布は、ゲームや漫画でも「天下無双」として活躍しています。三国志とは関係のないアプリでも、ガチャのレアキャラとして登場することがあります。

袁紹と董卓の因縁

袁紹と董卓の因縁

袁紹と董卓の因縁

さて、今回紹介する陽人の戦いは、ざっくり言えば袁紹と董卓の戦いです。
こうしてみると、「ヒーローの袁紹 VS 悪党の董卓」という構図が見えてくるでしょう。
しかし、この2人はもともと因縁関係にありました。

黄巾党が敗北してから董卓が政権を握るまでの間、2人の皇后が内紛を起こしました。このときの中国は、幼い帝が最も天に近い存在でした。そのため、皇后らは「どちらが帝に相応しいか」対立していたのです。

その内紛に関わっていた袁紹は董卓に協力を求めますが、混乱がさらに増すだけでした。その流れに乗った董卓が実権を握ったため、袁紹は怒って他方へ逃げたのです。

袁紹は、この不満をのちに晴らしたかったのかもしれません。

陽人の戦い

陽人の戦い

陽人の戦い

いよいよ連合軍結成のときが来ました。反董卓連合軍のリーダーといえば袁紹ですが、挙兵を呼び掛けたのは別人だったのです。
そのころ袁紹は洛陽から少し離れた地域にいましたが、推薦を受けてリーダーになります。

三国志演義ではこの戦いを「虎牢関の戦い」と呼んでおり、桃園3兄弟の劉備(玄徳)・関羽・張飛が呂布と一戦を交えます。
しかし、史実では主に孫堅が活躍していました。呂布軍は孫堅軍の拠点に何度か攻め込もうとしますが、厳重な守りによってことごとく失敗したのです。

余談ですが、このころの桃園3兄弟は参加せずに、別の軍に身を寄せていました。

長安へ逃げた董卓

長安へ逃げた董卓

長安へ逃げた董卓

連合軍の兵力にかなわないと知った董卓は、本拠地である洛陽を焼き払い、長安へ逃げ延びました。
これを祝うべく、連合軍は毎日宴会を開きます。果たしてこれはハッピーエンドにつながるのでしょうか?

一方、長安へ逃げた董卓に悲劇が起こりました。側近である呂布の裏切りです。
宴会に招かれた董卓は城へ向かいました。門を守る人々(正体は呂布軍)から追い払われたため、董卓は怒って呂布を呼び出します。
しかしそこに現れたのは、護衛としての呂布ではありません。呂布は「天からの命令だ」と言い放ち、董卓を殺害しました。

連合軍のその後

連合軍のその後

連合軍のその後

董卓の死を知る由もない連合軍。彼らは連日のように宴会を開いていましたが、そこにいた曹操は乗り気ではありません。曹操が「このまま董卓を追い込むべきだ」と諸将に計画を伝えますが、誰一人耳を貸さなかったのです。
やがて兵糧が尽きた連合軍は解散し、内部の争いが起こりました。

将来の袁氏を担う袁紹と袁術も、互いをにらんでいました。
ちょうどそのころ、袁術の部下・孫堅が玉璽を発見します。一部の部下が袁紹に知らせたことで、溝がさらに深まりました。

また、曹操は自分の父ら一族を殺された復讐として虐殺を行い、評判を落とします。その後は親友に裏切られたり、呂布への侵攻に失敗したりと波乱な道を歩みました。

呂布の末路

呂布の末路

呂布の末路

董卓を殺害した呂布は、王允という武将とともに天下を掴みました。
王允はもともと董卓の部下でしたが、内心は暴虐に胸を痛めていました。王允と呂布は口論することがあったものの、治安はそこそこ良かったそうです。

一方で王允は亡き董卓の支持を許さなかったため、董卓の支持者は1人残らず酷い扱いを受けました。主に死刑ですが、降伏を断られた武将もいます。
そんな王允に腹を立てた人物によって、天下は再び瓦解。王允を救えなかった呂布は、袁術や袁紹らの元を転々とします。

さらに、劉備(玄徳)を騙して城を奪ってしまいます。呂布は、共闘関係の劉備(玄徳)と曹操を迎撃するも失敗。2人の養父を裏切った罪として、処刑されたのです。

あれ?貂蝉って・・・

あれ?貂蝉って・・・

あれ?貂蝉って・・・

董卓と呂布の対立といえば、「美女連環の計」が有名です。そうすると、絶世の美女・貂蝉を思い浮かべるでしょう。
実は、貂蝉は三国志演義のオリジナルキャラクターだったのです。王允の養子として登場しました。

とはいえ、史実でも貂蝉のモデルとなる人物は存在していました。呂布は董卓の侍女と恋愛関係にあったため、董卓が殺意を抱きます。
殺されかけた呂布はこれに怒りを覚えたため、クーデターを起こす計画を立てたのです。

貂蝉の影響力が強いだけに、史実だと割とあっさりした印象を覚えるかもしれません。

まとめ

まとめ

まとめ

結局、陽人の戦いは大義名分の元で行われた出来事です。戦中までは「悪を挫く」といった流れでしたが、董卓が長安に逃げてからは皆がやる気を失います。
悲しいことに、挙兵を呼び掛けた人物もまた宴会に夢中でした。連合軍解散後は元メンバーと衝突したため、結局は私利のためだったのでしょう。

董卓はもちろんですが、多くの人が欲にまみれていました。
私欲に溺れず自身の向上に励めば、曹操と孫家のように成果が後からついてくると感じます。


この記事の三国志ライター

関連する投稿


董卓~三国志随一の暴君~

黄巾の乱後の政治的不安定な時期を狙い、小帝と何皇太后を殺害し、献帝を擁護し権力を掌握していく朝廷を支配していた絶対的存在。 政権を握った彼のあまりにもの暴虐非道さには人々は恐れ誰も逆らえなかった。 しかし、最後は信頼していた養子である呂布に裏切られるという壮絶な最後を遂げる。


三国志の中で強烈なインパクトを残した飛将、呂布

三国志の中で一際インパクトを残した男、呂布。裏切りを重ねながらも己の欲を全うし続けた呂布は、ある意味三国志の中でも魅力的な豪傑だと言えます。そんな呂布の波瀾万丈な生涯をまとめてみました。


三国志外伝 絶世の美女貂蝉

皆さんは貂蝉という女性をご存知でしょうか。三国志演義にその名をとどめる傾城の美女・貂蝉のはかなくも美しい生き様をご紹介します。


昔は優しく気のいい大将だった!董卓が暴君へと変貌するまで

洛陽に入るや皇帝を傀儡として実権を握り、暴虐の限りを尽くした董卓仲頴(とうたくちゅうえい)。その残虐非道ぶりは、正史三国志の著者である陳寿に「歴史上の人物でこれほどの悪人はいない」と評されたほどです。そのような人物がなぜ君主になれたの?という疑問の元、今回は若き日の董卓について調べてみました。


裏切り、裏切り、また裏切り! 呂布のスゴすぎる人生の結末は?

三国志の武将で最も勇猛だともいわれる呂布。しかし彼は、世話になった相手をことごとく裏切ったことでも知られています。中国であれ日本であれ、ここまで人を裏切り続けた男もめずらしいでしょう。呂布の裏切り人生がどのようなものだったのか。そして「裏切り野郎」はどんな末路をたどったのか、見ていきましょう。


最新の投稿


魏が滅んだ戦犯は曹丕!?魏の初代皇帝はどんな人物だった?

曹操の後を継ぎ、魏の初代皇帝となったのが曹丕です。実は、曹丕は魏滅亡の戦犯と言われることが多く人物となっています。そんな曹丕はどんな人物だったのでしょうか。そこで今回は、曹丕がどんな人物であり、なぜ戦犯とまで言われているのかについて紹介していきます。


諸葛亮(孔明)の用兵術と老将軍たちの武勇

「曹洪(子廉)将軍は蜀軍を恐れている」と大口を叩いて蜀軍に対峙した張郃(儁乂)が大敗して戻ります。曹洪(子廉)は激怒して張郃(儁乂)を打ち首にしようとしますが、他の将軍たちに諫められ、再び張郃(儁乂)にチャンスを与えます。しかし「日の出の勢い」の蜀。再び魏軍を打ち破ったのは老将軍でした。


三国志演義の見どころ 人気武将【劉備・曹操・呂布・趙雲】

世間的に三国志といえば「三国志演義」が愛されているといえます。一騎討ちや神業ともいえる智謀の数々、妖術など、人間離れした活躍を見せてくれます。もちろん、フィクションの世界ですが、ある意味正史よりも有名である三国志演義について、人気武将である劉備(玄徳)・曹操・呂布・趙雲らの見どころをここで解説していきます。


三国の愚者として扱われている劉禅(公嗣)について

「三国志で最も嫌われている人物は?」と聞かれたら董卓(仲穎)が真っ先に上がるのではないでしょうか。高貴な位をいいことに暴政の限りを尽くし最終的には身内である呂布(奉先)に殺されました。もしかしたら曹操(孟徳)や呂布(奉先)を挙げる人もいるかもしれません。しかし彼らは嫌われるようなことをした反面カリスマ性があり「嫌いではない」と答える人も多いでしょう。ここでは嫌われていて且つ救いどころも少ない劉禅(公嗣)について紹介したいと思います。


なぜ曹操は官渡の戦いで大軍相手に勝利することができたのか?

三国志という時代の流れを決定づける重要な戦いの1つが官渡の戦いです。この戦いで、曹操が袁紹に勝利したことで、曹操勢力の拡大につながっています。官渡の戦いでは、曹操軍は袁紹の大軍を相手に勝利を収めたわけですが、注目すべきはなぜ曹操が勝てたのかです。そこで今回は、官渡の戦いで大軍相手に曹操が勝利できた理由にスポットライトを当てていきます。