「曹洪(子廉)将軍は蜀軍を恐れている」と大口を叩いて蜀軍に対峙した張郃(儁乂)が大敗して戻ります。曹洪(子廉)は激怒して張郃(儁乂)を打ち首にしようとしますが、他の将軍たちに諫められ、再び張郃(儁乂)にチャンスを与えます。しかし「日の出の勢い」の蜀。再び魏軍を打ち破ったのは老将軍でした。
218年、三国志の永遠のライバルたる曹操(孟徳)と劉備(玄徳)の勢力が激突します。それまで、常に強大勢力の曹操(孟徳)が矮小な劉備(玄徳)を「追う」構図でしたが、荊州・益州を支配し一大勢力となった劉備(玄徳)が曹操(孟徳)の勢力を次々と打ち破って行く展開となって行きます。最初の攻防は蜀の張飛(翼徳)と魏の張郃(儁乂)。戦いの経過を見て行きます。
冷酷非道なだけではない 曹操(孟徳)の慈悲心が垣間見られる漢中攻略
劉備(玄徳)が蜀漢を建国した翌年の215年、曹操(孟徳)は蜀漢討伐を目指しますが、まずは蜀の入口に位置する漢中を攻略すべく征西軍を編成します。険しい山岳地帯への行軍で緒戦は苦戦を強いられるますが、人的にも物量にも勝る曹操軍は次第に優勢となります。そして、そんな中で曹操(孟徳)は「冷酷非道」を行わず、むしろ慈悲心を見せる場面がたくさん登場します。この頃の曹操(孟徳)を見ると、一代で中国の3分の2を支配した「実力」に納得させられます。
三国志演義に登場する最強の戦術「十面埋伏の計」とは、いったいどれほどの威力を持っているのでしょうか?「倉亭の戦い」を振り返って検証してみましょう。
演義ファンの方は「魏の国の名将は?」と聞かれたら、真っ先に答えるのは張遼でしょう。続いて徐晃、そして張郃と言ったところでしょうか。実際、この三人と楽進・于禁を合わせた五人が一つの列伝にまとめられており、魏の五虎大将軍と言っていい存在です。その中でも、もっとも後の時代まで活躍したのが張郃です。
三国志・魏の名将である張郃が一騎打ちでほとんど勝てていないのはなぜか?
魏の名将である張郃、その功績は三国志正史にしっかりと記されています。しかし一方で、三国志演義ではその強さを発揮できずにいます。張郃の一騎打ちの戦歴を紐解いてみましょう。
中国の三国時代や日本の戦国時代の武将は戦で負けたら自害をするというようなイメージがつきものです。しかし、彼らも投降したり、敵国の君主の僕となったりもしていました。今回は「もしも勝ったら部下になってくれそうな武将たち」をピックアップしてみました。