董卓軍VS反董卓連合について
■ 董卓軍VS反董卓連合について
董卓軍VS反董卓連合について
この戦いの全容は「中華全土の実質的な権力を握っている董卓」VS「妥当董卓を掲げる連合軍」の戦いです。董卓軍はあまりにも大きいため、一つの軍では太刀打ちできないと思った曹操(孟徳)が有志を募り反董卓連合を立ち上げました。
日本でいうなれば織田信長軍対その他全員といったところでしょう。各地の武将が董卓討伐に声を挙げたため、いよいよ董卓(仲穎)の傀儡政治も終わりを迎えると思われました。
董卓軍VS反董卓連合の見どころは
1、 袁紹(本初)がリーダーとなり董卓軍に攻撃を仕掛けた
2、 董卓軍の華雄の活躍で反董卓連合は一気にピンチに立たされた
3、 反董卓連合にいた関羽(雲長)が華雄を倒し、今度は董卓軍がピンチになる
4、 三国志最強の漢、董卓軍の呂布(奉先)が登場し反董卓連合の勢いがなくなる
5、 袁紹(本初)のリーダーシップが発揮されず反董卓連合が空中分解する
連合軍は最後までまとまることがなく、董卓(仲穎)を討てず解散してしまいました。
官渡の戦いについて
■ 官渡の戦いについて
官渡の戦いについて
官渡の戦いは袁紹軍VS曹操軍の間で行われた大戦です。この戦いで袁紹軍が勝てば天下統一に大きく近づくという一戦でした。
反董卓連合でリーダーは袁紹でしたが、曹操は副リーダー的存在でした。この二人は仲が悪く、恐らく董卓(仲穎)という共通の敵がいたにもかかわらずいがみ合っていたことでしょう。
この二人の不仲が国を挙げての戦争になったという要素はあったと思います。
ざっくりですが袁紹軍が70万人だったのに対し、曹操軍は7万人でした。
この戦いの見どころは
1、 袁紹(本初)と曹操(孟徳)は昔からいがみ合っていた
2、 数では袁紹軍が圧倒していたものの、曹操軍の方が明らかにまとまっていた
3、 袁紹軍の中には袁紹(本初)の元を離れるものが少なくなかった
4、 袁紹(本初)は部下の進言を聞かなかったが曹操(孟徳)の部下は効果的な戦略を曹操(孟徳)に対し進言し、その作戦を実行に移した
5、 曹操軍の作戦がことごとくはまった
圧倒的有利とみられていた袁紹軍でしたが曹操軍の戦略が上回り、曹操軍が三国志史上最大の勝利を収めました。この戦いはリーダーの素質が如実に表れた対戦といっても過言ではないでしょう。
赤壁の戦いについて
■ 赤壁の戦いについて
赤壁の戦いについて
赤壁の戦いは映画「レッドクリフ」で脚光を浴びたためご存知の人が多いことだと思います。三国志の中でも最も有名な戦いの一つで、見ごたえある大戦です。この赤壁の戦いは曹操軍対孫権・劉備連合軍です。
兵士の数は資料によってまちまちですが、イメージ的に5万人対60万人程度を想像してもらえればいいと思います。
赤壁の戦いの見どころは
1、 曹操軍が攻め込んでくる
2、 降伏をしようという家臣の声を振り切って孫権軍が曹操軍に対して対抗する
3、 劉備軍と孫権軍が手を結ぶ
4、 周瑜(公瑾)と諸葛(孔明)という二人の天才が数々の戦略を繰り広げる
結果は圧倒的に兵の数が少なかった連合軍の勝利です。
この戦いで曹操(孟徳)が勝てば天下統一まであと一歩というところでしたが、連合軍が何とか踏みとどまり三国志をより面白いものとした戦いといっても過言ではないでしょう。
北伐について
■ 北伐について
北伐について
三国志で最も有名な人物といったら諸葛(孔明)ではないでしょうか。そんな諸葛(孔明)ですが、彼がそこまで知られることとなったのは劉備(玄徳)の元で知略を存分に発揮したということもありますが、北伐(北に位置する魏に攻め込むこと)を何度も行ったことも大きな理由です。
自身が長く生きられないということを知っていたのか、諸葛(孔明)は異常なまでに北伐を繰り返しました。
そんな北伐の見どころは
1、 小国の蜀の方が大国である魏に対して攻め込んだ
2、 蜀は諸葛(孔明)が率いていた一方、魏は天才軍師司馬懿(仲達)が率いていた
3、 諸葛(孔明)はあと一歩というところまで魏を攻め込むが最終的には撤退せざるを得なくなる
4、 諸葛(孔明)の負担は大きく、力尽きてしまう。
攻めに攻めた蜀ですが結局攻め切ることができませんでした。ちなみに三国志でも最も有名なシーンの一つとなった「死せる孔明生きる仲達を走らす」はこの場面のことを指します。
諸葛(孔明)は死ぬ直前、部下に対し「自分に扮し攻め込んでくる司馬懿(仲達)を追い返せ」と託しました。諸葛(孔明)が息絶えると司馬懿(仲達)が予想通り攻め込んできました。しかし死んだと思っていたはずの諸葛(孔明)が生きていたので慌てて戻ったというエピソードです。
司馬懿(仲達)を馬鹿にする話なのですが、実際彼は諸葛(孔明)の度重なる攻撃を耐え抜いたので「天才」といえるでしょう。
綿竹攻防戦
■ 綿竹攻防戦
綿竹攻防戦
諸葛(孔明)亡き後、姜維(伯約)がその意思を受け継ぎ北伐を繰り返し行いました。しかし攻め込んでも攻め切れないとなると士気も国力も下がってしまうのは明らかです。そんな蜀の疲れを見切ったのが魏の司馬昭(子上)です。司馬昭(子上)はついに蜀討伐の命を発しました。それが綿竹攻防戦です。
この戦いの見どころは
1、 今まで受けに回っていた魏がついに攻め込んできた
2、 北伐を繰り返し行ったため蜀の国力は衰えていっていた
3、 蜀が7万の軍勢に対し、魏は数万の軍勢といわれている
4、 諸葛(孔明)の息子である諸葛瞻(思遠)と司馬懿(仲達)の息子である司馬昭(子上)が絡んでいる
5、 蜀は呉に援軍を頼んだが、呉は遠く、援軍が来ることはかった
この勝負は勝ちを諦めた諸葛瞻(思遠)が自害したところで勝負ありとなりました。最終的に劉禅が降伏する旨の国書と玉璽を渡し、終わったのです。
劉備(玄徳)が建国して42年で蜀は幕を閉じる形となりました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
この後魏の国内でクーデターが起こり、魏が晋となります。そしてその晋が呉を亡ぼし三国志の終焉を迎えます。上記に挙げたほかに大戦はまだまだありましたが取り急ぎ覚えてほしい大戦についてまとめてみました。
三国志を知る上で「人物を知る」「人物同士、国同士のつながりを知る」「戦について知る」ということが重要だと思います。
まずは上記の大戦の大まかな概要を捕らえ、その前後で何が起きたのか、どんな武将が活躍したかということを覚えていけば三国志についての知識を広げられることだと思います。
さらに推しメン、好きな戦い、肩入れする国などができてくれば自然と「もっと三国志について知りたい!」と思うようになっていくことでしょう。