三国志をより深く知るために知っておくべき合戦

三国志をより深く知るために知っておくべき合戦

三国志では多々合戦が繰り広げられています。局地戦的なものもあれば、その後の歴史を大きく左右した戦もあります。三国志をより深く楽しむためには、「その後を左右した戦」は是非覚えておきたい所。それらをいくつかピックアップしてみましょう。


中原の覇者が決まった「官渡の戦い」

中原の覇者が決まった「官渡の戦い」

中原の覇者が決まった「官渡の戦い」

中原の覇者を賭けて争われた袁紹と曹操の戦いです。三国志演義ですと袁紹はそこまで個性的に描かれていないため、イマイチ盛り上がりに欠ける戦との印象をお持ちの人もいるかもしれません。ですがこの戦こそ事実上の「後の勝利者決定戦」と言っても決して過言ではないのです。
そもそも元々は袁紹の方が有利でした。戦力的な面はもちろんですが、顔良や文醜といった屈強な武将の活躍により、曹操軍に対して優勢を誇っていたのです。

ですがその二人を打ち取ったのが当時曹操の元に捕らえられていた関羽でした。関羽はこの二人の武将を討ち果たすと、戦の旗色は曹操軍になびきます。

また、袁紹は少々優柔不断な所もあったので勝てるとの思いからマイペースにことを進めていました。確かに普通に向き合えば袁紹の勝利は固かったでしょう。
ですが相手は普通ではないのです。曹操なのです。

顔良と文醜が打ち取られたことも確かに大きな打撃ではありましたが、それ以上に致命的だったのが兵糧です。数に劣る曹操は袁紹群の兵糧庫を急襲することにより、袁紹軍のモチベーションの低下を誘発。それにより、袁紹軍に勝利することになりました。
この戦の勝利により、「中原の覇者」としての座に就いた曹操。中原は当時の中国大陸の中心。つまりはこの戦の勝利は曹操の天下統一の決定的な一打となったのです。

「三国志」のきっかけとも言うべき赤壁の戦い

「三国志」のきっかけとも言うべき赤壁の戦い

「三国志」のきっかけとも言うべき赤壁の戦い

三国志演義に於ける最大の見せ場の赤壁の戦い。こちらは局地戦ではあるものの、その後の三国志の歴史への影響は計り知れないものがあるのもまた、一つの事実。まず赤壁の戦いの敗北によって曹操軍は対呉・対劉備(玄徳)を一からやり直さなければならなくなりました。特に対・呉です。
呉に戦を仕掛けるとなれば今後は水軍戦ではなく、陸戦を挑まなければならなくなったのです。そしてそれは呉もよく分かっているのです。対・魏の防衛ラインは水軍側よりも陸側に力を入れておいた方が良いと確信を得られたでしょう。
もちろん戦力的にはまだまだ魏の方が断然上。この時点では劉備(玄徳)はまだ流浪の身と言っても過言ではないレベルでした。ですが赤壁の戦いによるいわば「時間稼ぎ」によって劉備(玄徳)は益州、つまりは蜀建国の足がかりとなる「時間」を手にすることが出来たのです。

仮にですが赤壁の戦いで曹操が勝利していればその勢いで呉は滅亡していたでしょう。するともはや当時の劉備(玄徳)は曹操と戦うだけの戦力などありませんし、益州を落とす時間もありません。ですが赤壁で曹操に「一時休止」を言い渡すことが出来たのです。呉としても劉備(玄徳)としても「一休み」が出来たのです。
戦力を整えることによっていわばその後の膠着状態の布石を生み出したのです。この戦の結果こそ、まさに「三国志」の礎を築いたと言っても過言ではないのです。

魏の呉への方針が決まった合肥の戦い

魏の呉への方針が決まった合肥の戦い

魏の呉への方針が決まった合肥の戦い

こちらも三国志演義では少々触れて呉が頑張った…といった程度の話かもしれませんが、赤壁での対・呉戦線を見直さざるを得なくなった魏は、その後は呉に対しては合肥からアプローチを仕掛けることになるのですが、呉は魏軍を合肥にて打ち破ることもあれば、逆に苦戦することもありました。

日本における川中島の争い同様、戦闘行為そのものは度々行われていたものの、どちらが勝利するでもなかったため、領地の配分が変わることもありませんでした。つまり、魏も呉も「打つ手なし」な状況に陥ったのです。仮にですが、ここでどちらかが一方的に勝利していればその後、そのまま相手の本国までなだれ込むことが出来たでしょう。
ですが勝利にせよ敗北にせよいわば常に一進一退。そのため、仮に勝利しても本国まで攻めることは出来ず。
そのような状況が長らく続いたのです。もしもですが、ここで魏が呉に勝利していれば三国時代の到来はありませんでした。更には魏がより強大になれば既に益州を足掛かりにしつつあった劉備(玄徳)とはいえ、中国大陸の4分の3を手中に収めた曹操に対しては勝ち目などなかったでしょう。
つまり、ここで一進一退の戦いをすることによって魏に「呉も侮れない」との印象を植え付けることに成功したのです。このイメージがある限り、蜀と呉が手を結んでいる間は魏としては油断出来ない状況だったのです。

無駄に終わり、その後の路線を決めざるを得なかった夷陵の戦い

無駄に終わり、その後の路線を決めざるを得なかった夷陵の戦い

無駄に終わり、その後の路線を決めざるを得なかった夷陵の戦い

関羽を打ち取られたことに対して劉備(玄徳)が呉に対して仕掛けたこの戦は、長い目で見るととても大きな戦です。それは「無意味」という点に於いてです。
そのようなことは諸葛亮だけではなく、戦を仕掛けた劉備(玄徳)自身も分かっていたでしょう。私怨以外の何物でもないことくらいは分かっていたものの、振り上げた拳を下すことは出来なかったのです。
但し、この戦で勝利していれば話は別でした。仮にですが勝利していれば蜀の領土も少しは増えていたでしょう。さすがに呉の本国までなだれ込むのは難しいかもしれませんが、それでも呉に大打撃を与えることが出来れば蜀もまた、それなりの大国になっていたかもしれません。

少なくとも荊州を取り戻すだけでも三国バランスを多少は崩すことが出来たでしょう。
ですが結果は大惨敗。シビアな言い方をすれば、劉備(玄徳)の仕掛けた戦は「無駄」でしかなかったのです。
いたずらに国力を消耗させただけですし、何よりこの戦の流れの中で張飛まで失っているのです。
この戦における敗北により、蜀は「呉と結び、魏を倒す」という路線しかなくなってしまったのです。
打倒・魏こそ蜀のアイデンティティでもあるのですが、少々手厳しい言い方をすれば「それしか道がなくなった」とも言えます。
それだけに、この戦における敗北はその後の三国志の歴史の流れを大きく決定付けたと言っても決して過言ではないのです。

まとめ

まとめ

まとめ

いくつかの合戦を挙げました。もちろん他にも重要な戦は多々ありますし、人によって「あの戦こそ重要な一戦!」だとも思うかもしれません。
それらをあれこれお話するのもまた、三国志の楽しみの一つですが、長い目で三国志を見た時、上の合戦の結果が変わっていたらその後の歴史の流れも大きく変わっていたでしょう。それだけに、三国志をより深く楽しむ上では是非とも知ってくべき合戦と言えるでしょう。





この記事の三国志ライター

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