曹操(孟徳)に見出された若かりし頃
■ 曹操(孟徳)に見出された若かりし頃
曹操(孟徳)に見出された若かりし頃
荀彧は若くしてその才能を評価されており、董卓が都を牛耳ったころには宮中に仕えていました。各地から董卓打倒の声が挙がる頃、荀彧は官職を辞めて故郷へと戻っています。この頃、荀彧は戦乱が訪れるのを予感して、家族を連れて冀州へと逃れています。荀彧らが去った後、董卓軍が襲来して故郷では多くの被害がでています。
荀彧はすでに先を見る眼を持っていたといえます。また、冀州は袁紹によって支配されており、都で名が知れていた荀彧は袁紹に礼を尽くして迎え入れられます。しかし、袁紹を知っていた荀彧は、とても天下に名を残す人物ではないと見限り、冀州を去る決意をしています。
袁紹は荀彧や郭嘉といった曹操(孟徳)陣営の精鋭たちに見限られているのが残念な君主といえるでしょう。一方、宮仕えから独立していた曹操(孟徳)は人材集めに奔走していました。荀彧も曹操(孟徳)に興味を持ち、実際に話してみると、袁紹とは比べ物にならない人物であると評価し、その傘下に入る決意をしています。
曹操(孟徳)も荀彧を高評価しており、「我が子房なり」と称していました。この子房というのは、前漢の天才軍師であった張良のことであり、最大級の賛辞であることがうかがえます。
曹操(孟徳)の飛躍を大いに助ける
■ 曹操(孟徳)の飛躍を大いに助ける
曹操(孟徳)の飛躍を大いに助ける
曹操(孟徳)は董卓に反旗を翻しており、その対策に頭を悩ましていました。しかし、荀彧は董卓が殺戮に明け暮れることから、その王権は長く続かずに早くに暗殺されるに違いないと考えます。事実呂布によって董卓は殺害されています。
194年に曹操(孟徳)が徐州を攻めると、荀彧はエン州の留守を任されます。すると、陳留を本拠地にしていて、かねてから曹操(孟徳)の友人だった張バクが謀反を起します。さらに、猛将呂布を巻きこんでおり、曹操(孟徳)に味方していた城も呂布を恐れて多くが降伏していきました。
呂布に降伏しなかったのはわずか3城のみという中、荀彧は的確に夏候惇や程昱に指示を出して一貫して城を守り、わずかな兵力しかないものの、曹操(孟徳)が帰還するまで城を守り抜きました。
196年に献帝が長安を脱出すると、程昱とともに迎え入れるように進言しています。これは曹操(孟徳)にとって大きな意味があり、献帝を味方につけて自身に敵対するのは朝敵にできるようになりました。ますます曹操(孟徳)に信頼されていきます。曹操(孟徳)は国事に関することをすべて荀彧に相談するようになっていきました。
多くの有能な人物を推挙して国力を高める
■ 多くの有能な人物を推挙して国力を高める
多くの有能な人物を推挙して国力を高める
荀彧は自身を控えめに評し、多くの有能な人材を曹操(孟徳)に推挙しています。ひとえに主君に評価されれば、それに甘えてしまうものですが、荀彧は構わず人材発掘に勤しんでいます。
中でも荀攸や鍾ヨウ、戯志才、郭嘉、司馬懿、陳グン、華キン、王朗といった面々は、魏の国力を高め、領土を拡大することに大きな貢献を果たした逸材といえます。荀彧に推薦された人物はほとんどが出世し、大臣クラスにもなっています。
官渡の戦いにも幕僚として貢献
■ 官渡の戦いにも幕僚として貢献
官渡の戦いにも幕僚として貢献
袁紹の決戦が近づくと、国力的に優位立つ袁紹を恐れていた曹操(孟徳)に対し、荀彧は戦いの利点を説明しています。西から攻められないように漢中へ鍾ヨウを派遣して、豪族たちを従えています。
袁紹陣営には猛将の顔良や文醜、文官の田豊、許攸、審配、逢紀といった有能な人材が揃っていました。しかし、荀彧はその人材豊富を逆手に取り、幕僚たちを一人ずつ逆の評価をしていきました。顔良と文醜は知略が無く、策略を用いれば簡単に生け捕りできるといい、田豊は策略があっても袁紹に信頼されず、許攸は決断力がなく、審配は計画性がなくて、逢紀は独断性が強くて向う見ずという判断を下しています。
この人物眼が的中し、曹操(孟徳)軍は戦いを優位にすすめています。荀彧は戦地に赴いていませんが、後方支援として活躍しています。戦闘が長引くと、国力に勝る袁紹軍が押し返しており、一時撤退を考えて曹操(孟徳)に対して、荀彧は諦めないようにさせることを徹底していきました。荀彧は袁紹の人望のなさから必ず異変が起こると予測していました。
荀彧の思惑通り、袁紹陣営から投降者が現れ、曹操(孟徳)は袁紹軍の兵糧庫を急襲して戦況を逆転させます。官渡の戦いに勝利した曹操(孟徳)は意気揚々と本拠地に帰還しました。
逆に意気消沈したのが袁紹ですが、それでもまだまだ国力的には十分なほど曹操(孟徳)と渡り合える力を残していました。これは曹操(孟徳)も感じており、自軍の兵糧の乏しさから、一時は荊州の劉表を攻めようと考えていました。しかし、荀彧は有能な家臣たちが離反・討ち死にし、今をおいて袁紹を打ちのめす機会はないと進言しています。結果、袁紹は病死して国内は後継者争いで荒れ、曹操(孟徳)は袁氏を一網打尽にすることに成功しています。
幕臣として評価される荀彧
■ 幕臣として評価される荀彧
幕臣として評価される荀彧
荀彧は順調に出世を重ねていきますが、自身は実戦には参加していないことから、辞退し続けていました。曹操(孟徳)は荀彧の功績が戦場での働きよりも大きいと判断し、強引に受けさせています。荀彧の一族も順調に出世していき、中でも親族の荀攸は曹操(孟徳)軍の筆頭軍師として、主に戦場で力を発揮しています。
荀彧は家財を一切蓄えず、親族や縁者に配るなどして家に余財がなかったといいます。荀彧の姿勢は多くの臣下から手本とされるようになりました。また、荊州へと進軍する際、劉表の欠点を挙げており、曹操(孟徳)はいとも簡単に荊州を奪取することができています。
晩年は曹操(孟徳)から疎まれる
■ 晩年は曹操(孟徳)から疎まれる
晩年は曹操(孟徳)から疎まれる
曹操(孟徳)の幕僚たちが、魏王になるべく準備を進めていたころ、荀彧はただ一人反対の姿勢を貫きました。献帝を軽んじる行為になり、もともと中原の反乱を抑えて覇道を敷いたのは、国家を安定させるためであり、決して私利私欲のためではないことが重要であると直訴していました。
曹操(孟徳)はすでに献帝は眼中になく、政治の実権を握っていたので、自身の王位に就くことを明らかにしていました。曹操(孟徳)は当然面白くなく、荀彧との距離を置くようになってしまいます。
ただ、曹操(孟徳)の孫権討伐軍に荀彧も参戦しており、決定的な決裂には至っていないことがうかがえます。荀彧はこの行軍中に死去しており、一説には曹操(孟徳)に信頼されなくなったことから憂いでの自殺ともいわれています。
荀彧の死後、曹操(孟徳)は念願の魏王になりますが、すぐに病死してしまいます。後を継いだ曹丕が禅譲されて皇帝に就きました。荀彧の望まない形になってしまい、結局魏は司馬氏によって滅亡の道を歩んでいくことになってしまいます。