董卓の死後、激変する帝(献帝)の動き
■ 董卓の死後、激変する帝(献帝)の動き
董卓の死後、激変する帝(献帝)の動き
董卓の意思により、西方・長安の地に遷都したのが190年(初平元年)のことになります。
その董卓が、腹心である呂布によって誅殺されたのが192年(初平三年)の春、夏には董卓の残党である李傕や郭汜が王允を倒し、呂布を追い出して長安を占拠しています。
その後、帝(献帝)が長安を脱出するのが、195年(興平二年)のこと。曹操がその帝を許に迎え、遷都したのが196年(建安元年)の夏になります。
帝(献帝)はおよそ5年間に渡り、長安に滞在していたことになりますが、朝廷を牛耳っていたのは董卓であり、董卓亡き後は李傕らでした。帝として政治に関与したことはまったくなかったことでしょう。
その期間、もちろん打倒・李傕の動きもありました。それが西で勢力を拡大していた劉焉、馬騰、韓遂なのです。
打倒・李傕の挙兵
■ 打倒・李傕の挙兵
打倒・李傕の挙兵
劉焉は皇族宗家に名を連ね、益州の牧を務めていた人物です。中央の混乱を避けて独立勢力を築きたいという野心を持っていたとも伝わっています。もともとは遠く交州の牧に任命されることを望んでいましたが、益州に天子の気があると聞き、益州の牧になることを望むようになりました。
劉焉は赴任した益州の反乱分子を掃討し、流民を自らの兵団に組み込むことで、確固たる地盤を築きます。さらに漢中の宗教組織と手を結んで、中央と益州を分断することに成功しました。
荊州刺史を務めていた劉表は、この劉焉の行動に危機感を覚え、朝廷に報告したと記されています。
長安にいる帝(献帝)のもとには劉焉の子息が三人仕えています。長子は左中郎将を務める劉範、次子は治書御史を務める劉誕。三子で別部司馬を務める劉瑁は益州におり、父である劉焉に仕えていましたが、四子で奉車都尉を務める劉璋も長安にいました。
劉焉が打倒・李傕の兵を挙げるのは、劉璋が長安から益州へと帝(献帝)の使者として訪れた後のことになります。
一説では帝(献帝)が劉焉の益州での増長ぶりを戒めるために劉璋を使者として遣わしたとされていますが、おそらくは反乱を起こす計画の打ち合わせだったのではないでしょうか。
これが194年(興平元年)の話になるのです。
馬騰と韓遂の協力
■ 馬騰と韓遂の協力
馬騰と韓遂の協力
劉焉は、朝廷にいる息子たちと連携して打倒・李傕の兵を挙げることになるのですが、この時、劉範が味方に引き入れたのが西涼の実力者である馬騰と韓遂です。
長安を占拠した李傕は、西からの脅威を抑え込むために、馬騰を征西将軍、韓遂を鎮西将軍に任じ、篭絡しようと試みます。長安を訪れた馬騰はそのまま郿に留まり、韓遂は涼州へと帰還しました。
実はそれ以前に馬騰と韓遂は帝(献帝)より密書を遣わされており、劉焉を助け、反乱の手助けをするように命じられていたという説もあります。
つまり馬騰と韓遂は帝(献帝)を長安から脱出させ、益州に逃す手助けをするために長安を訪れたということです。
どちらにせよ馬騰は打倒・李傕の兵を挙げます。韓遂は馬騰と李傕を和睦させようと動いたという記録も残されていますが、最終的には馬騰側について李傕軍と戦っています。
194年(興平元年)の東方の状況
■ 194年(興平元年)の東方の状況
194年(興平元年)の東方の状況
この時、東からも打倒・李傕の動きがあれば、劉焉の帝(献帝)奪取は成功していたことでしょう。しかし、東もまた混乱の中にあったのです。
状況としては、兗州を治める曹操が、徐州の陶謙を攻め、さらにその曹操の留守を突いて、呂布が陳留の張邈らと手を結んで兗州乗っ取りを実行に移しています。
曹操VS呂布の激闘が続いているような状態だったのです。曹操も呂布も帝(献帝)どころの話ではありません。
冀州の袁紹も北の公孫瓚と対立していましたし、袁術も曹操・劉表に敗れて荊州を追い出され、寿春に拠点を移した直後になっています。
東がこのように戦続きだったからこそ、李傕らは長安を守ることに専念できたといえるでしょう。董卓亡く、呂布も去った軍勢ですが、精鋭揃いなのは間違いありません。
真っ向からぶつかっても勝算の薄い劉焉らは密かに計画を進めていきます。おそらく、これが帝(献帝)の長安脱出だったのではないでしょうか。
反李傕の動きを看破される
■ 反李傕の動きを看破される
反李傕の動きを看破される
しかし、このような反李傕の動きは敵の知るところとなってしまいます。
態勢が整わぬまま決戦することになり、劉範や馬騰は敗れました。劉範は戦死、劉誕も追撃を受けて捕らえられ、処刑されてしまうのです。
韓遂は李傕軍の樊稠の猛攻を受けますが、同郷の誼があり、韓遂は樊稠と会見し、手を握って語り合ったことで追撃を免れました。後にこれを知った李傕は怒って樊稠を処刑しています。
馬騰と韓遂は命からがら涼州へと逃げ帰ったわけです。
劉焉は息子二人が命を落としたことを知って落胆し、そのまま病でこの世を去っています。後を継いだのは三子の劉瑁ではなく、四子の劉璋でした。
翌年には帝(献帝)は益州に逃れることを諦めて、洛陽へと向かっています。そしてそのまま豫州の許に迎えられることになるのです。
この時には呂布は曹操に敗れて徐州に落ち延びており、曹操としてはひとまず落ち着いて帝(献帝)を迎えることができる状態でした。
まとめ・帝(献帝)が益州に逃亡していたら
■ まとめ・帝(献帝)が益州に逃亡していたら
まとめ・帝(献帝)が益州に逃亡していたら
仮に劉焉の作戦が成功し、帝(献帝)が見事に長安を脱し、益州に逃れていたら、成都に遷都していたことになるでしょう。
帝(献帝)を擁立できなかった曹操は、その後、どうなるのでしょうか。皇帝を自称する袁術を討伐する大義名分はあっても、袁紹と戦うには特に理由はなさそうです。互いに単なる中原の覇権を巡っての争いになります。帝(献帝)の後ろ盾のない曹操を見限る者も続出したかもしれません。
袁紹と曹操の勝敗の鍵を握る許攸も、曹操に寝返るようなことはしなかった可能性があります。曹操は袁紹に滅ぼされていたのではないでしょうか。
袁紹と劉表はもともと手を結んでいましたから、袁紹・劉表勢力、劉焉(劉璋)・馬騰・韓遂勢力、孫策(孫権)勢力の三つ巴の戦いになっていたかもしれませんね。もちろん劉備(玄徳)は、劉焉(劉璋)の勢力下で戦ったのではないでしょうか。
魏・呉・蜀の勢力抗争は同じですが、主役たちが史実とはまったく異なる三国志が完成していたことになります。
はたしてどの勢力が最後まで生き残るのか… こんな三国志にも興味がありますね。
案外、袁紹配下の顔良、文醜あたりや、劉璋配下の張任あたりがもっともっと活躍していたかもしれません。