【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(2)

【三国志with日本史】その頃日本は…〇〇があった(2)

前回に引き続き、あなたに三国志で劉備(玄徳)や曹操(孟徳)らが戦っている最中に日本でなにが起きていたのか…。それをぜひとも知ってほしいと願い、この記事を書かせていただきます。


義務教育では学習できない年代だからこそ

前回の「その頃日本は…〇〇があった(1)」をご覧いただき誠にありがとうございます。お隣中国で三国志の時代が到来していたころ、我が国は弥生時代の後期でした。弥生時代といえば弥生土器や吉野ヶ里遺跡で有名な高床式倉庫がパッと脳裏によぎります。
ところが意外にも中国で劉備(玄徳)や曹操(孟徳)らが戦っている最中は日本でも大規模な騒乱が起きていたりすでに日本人が海外へや外交、侵攻を開始していたことはご存知でしょうか?
前回に引き続き、本記事は義務教育では決して知ることのできない「三国志では○○があったころ、日本では○○があった」という事実をぜひともあなたに知ってほしいという願いをこめてこの記事を掲載していただいております。前置きが長くなりましたが、ぜひとも本編にお進みください。

反董卓連合結成 王都洛陽大火災長安へ遷都

西暦190年暴君董卓は臣下の最高位である相国に昇り、本格的に後漢朝廷を牛耳ります。相国は丞相の上のランクにあたる官位で、皇帝すら逆らうことのできない官位であります。相国は本来皇帝が幼すぎて物事の分別がわからないため政治を代行したり親征(皇帝が直々に戦地で謀反や乱を鎮圧すること)する際に最終決定権を持つ大臣という臨時職にあたりますが、董卓は専横的な政治を行うために無理矢理相国となりました。

後漢第14代皇帝の献帝もいやいやながら断ることができず、しぶしぶ任命するように仕向けられた人事でした。
董卓は酒池肉林の限りを尽くし、自分の娘や親戚の娘を献帝に嫁がせて血縁的にもつながりを強めようとしました。それらを見ていた袁紹(本初)や曹操(孟徳)、孫堅(文台)たちは董卓からのヘッドハンティングを蹴って反発します。
曹操(孟徳)なんかは董卓に可愛がられるようにゴマを摺りまくって暗殺計画を企てるのですが、それも未遂に終わり。そのうえ腹心の呂布(奉先)に現場を発見されて全国指名手配犯となります。

命からがら逃走した曹操(孟徳)は旧知の仲である名門袁紹(本初)や孫堅(文台)、劉備(玄徳)の師匠にあたる盧植など十八鎮諸侯に呼びかけ、袁紹(本初)を盟主に反董卓連合を結成します。
対する董卓は王都洛陽を焼き払い、国中の財宝や食料を長安に集め、献帝を連れ出して無理矢理遷都を行います。同年に劉表が荊州の刺史に任じられ、諸葛亮(孔明)が少年の書生として移住していました。

卑弥呼による卜占政治本格始動

卑弥呼は卜占によって政治を行いました。要するに神様のお告げを聞き、代弁する形で国民を説得しながら政治をしていたということになります。卑弥呼の占いは動物の肩甲骨や亀の甲羅を焼いて入った亀裂を読む甲骨占いや占星術、おまじないにより気象を読んで天気を予測するなどして占いを政治に取り入れました。
卑弥呼の占いの精度はピカイチだったらしく、特に農業や漁業に関わる天気に関する予言はよく当たったそうです。そのうえ、どうしたらよいかアドバイスを行うことで人民の信用は日増しに大きくなりました。

さらに卑弥呼を神格化させた要因として挙げられるのが人前に一切姿を現さないということです。卑弥呼が占いによって導き出した結果(神様からのお告げ)は卑弥呼から弟が聞き、それを国民に伝えるというスタイルでした。
卑弥呼の弟の名前は後世まで伝わっていませんが、彼はお告げの代弁以外に要件のある者との仲介や取り次ぎ、卑弥呼の食事から身支度に至るまでをこなしていたそうです。また、卑弥呼の居住する宮殿には楼観と呼ばれる物見やぐらと城柵が堅固に設けられており、厳重な警備が敷かれていました。

孫堅(文台)死す、呉の勢力が一時滅亡

西暦191年、江東の虎という異名を持つ孫堅(文台)は董卓が放火し、もぬけの殻となった洛陽へ一番乗りしました。洛陽は漢の王宮があった場所で、董卓が放火するまでは文官武官、商人、庶民に至るまでが寝起きしそれはそれは活気のある街でした。
ところが、董卓軍と反董卓連合軍との戦いや放火のせいで一面焼け野原となり、王宮でさえボロボロに…。もちろん民家であれば、庭に生えている木が炭となっている始末でした。そんなとき、孫堅(文台)は井戸から金色の光が立ち込めているのを発見し、井戸の中を覗き込むと宮女の死体の胸に抱かれている伝國の玉璽から発せられる光であることがわかりました。

孫堅(文台)は伝國の玉璽をコッソリ江東へ持ち帰ろうとしますが、袁術へ情報が漏洩してしまいます。袁術は孫堅(文台)を呼び出し、伝國の玉璽を差し出すように要求します。しかし、孫堅(文台)は「持っていない、もし私が嘘をついているとしたら今ここで雷に打たれて死ぬことでしょう」と公言し、しらをきり通しました。

なおも袁術は孫堅(文台)を疑い呉軍が江東へ帰還する途中、劉表に命じて彼を暗殺させます。この時、孫堅(文台)は36歳。小覇王こと孫策(伯符)は16歳。呉を建国する孫権(仲謀)は8歳の少年でした。
孫堅(文台)の死後、孫策(伯符)にはまだ劉表に対抗する力がありませんでした。その苦しい状況で和睦の意を示す使臣に名乗りを挙げた者がいます。行けば殺害される可能性もある大役を引き受けたのは、当時8歳の孫権(仲謀)でした。和睦後呉の勢力は袁術の支配下に吸収され、孫策(伯符)は袁術軍の一将軍とされました。

天皇空位

大和王権初代天皇の神武天皇が即位してから約800年経ったこの年はまさかの天皇空位の年でした。天皇空位というのは、天皇が不在であることを指します。明治以降は今上天皇が崩御なさった後は自動的に皇太子が天皇となりますが、当時は天皇から禅譲(皇位を譲ること)の詔勅がなければ、皇后、皇太后、大臣などが天皇によりふさわしい太子(天皇の子供)を選出する会議を行って決めていました。
そのため天皇空位の間はおそらく天皇選抜会議に日数がかかったか、もしくは記録上に残されていないだけでピンチヒッター的な天皇が即位していたかもしれません。

呂布(奉先)と王允による董卓暗殺

王允が自身の養女貂蝉を手先として使った美女連環計が功を奏し、呂布(奉先)が董卓を暗殺しました。董卓は献帝から「反董卓連合軍を退けたことによる恩賞を贈りたい」という呼び出すための口実にまんまと引っ掛かり、王宮へ参内する途中で呂布(奉先)とその部下に刺殺されました。
董卓の死後実権は皇帝に戻ったかのように思えましたが、董卓の腹心である李傕(りかく)と郭汜(かくし)が献帝をまた擁立して実権を握りました。呂布(奉先)はこの2名からの反発にあって逃亡し、王允は献帝の身を案じるがゆえ自分が朝敵になったと言って城門から身投げをして自害しました。またこの年では各地で戦争が勃発しており、袁紹(本初)が公孫瓚を破って敗走させ、曹操(孟徳)は青州へ落ち延びていた黄巾党を征伐。捕虜とした黄巾の残党から精鋭を選りすぐり30万人の精強な兵士(青州兵)を幕下に加えました。

仲哀天皇即位

天皇空位期間中先の天皇である13代成務天皇には御子がなかったので、甥の仲哀天皇31歳の時に立太子され、天皇に即位することになりました。これにより事実上の天皇の血筋はすぐに絶えてしまったわけでありますが、仲哀天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の次男で、成務天皇の兄の子というベストなポジションでした。
また彼の妻は女だてらに朝鮮に出兵し、三韓征伐を果たしたとされる神功皇后(じんぐうこうごう)で、父親と妻が武士のヒーロー的存在になるとはこのとき知る由もなかったことでしょう。

まとめ

三国志を序盤、中盤、終盤という三つのくくりにした場合、本記事にある董卓が暗殺されるところまでがだいたい序盤の部分に該当すると思っています。
呉の勢力は一時衰退し、袁紹(本初)、袁術、曹操(孟徳)はどんどん他勢力を削いでいきながら、捕虜や名だたる武将を迎えて戦力を増強しました。一方、劉備(玄徳)は陶謙を頼っていまだなかずとばずの状況でした。
日本ではいまだに大和王権が全国に広がっておらず、天皇空位という政治的脅威に一時見舞われていました。
三国志の序盤にあたる年代は日本も中国もほぼ同時期に戦乱や政治的な不安を抱えていたようです。

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