荊州を支配した劉表は、三国志演義では優柔不断で頼りない印象を受け、劉備や孫策の引き立て役になっていました。しかし、三国時代には激戦区となる荊州を、存命中に実効支配していたのは劉表の影響力が強かったからといえます。そんな劉表の凄さをみていきましょう。
中国人は世界中どこの国にも移住して、独自のコミュニティを築いています。いわゆる「華僑」と呼ばれる人たちのことですが、実はこういった外国に住む中国人のルーツとなっているのは、三国時代にあったという話もあるのです。
三国志きっての天才・蜀の軍師である諸葛亮(孔明)を育んだのは襄陽の隆中でした。そこは英傑がこぞって在野で知を競い合う土地だったのです。どんな人物たちが切磋琢磨していたのでしょうか。
劉琮は広大な土地・荊州を支配していた父、劉表(景升)の後を継ぐことになりました。しかし、自分が実権を握るとすぐに曹操(孟徳)に降伏してしまいます。一見情けない君主ですが、そんな劉琮について紹介します。
荊州の劉表は演義では穏やかで劉備(玄徳)を保護した人物として知られています。その一方で蔡瑁たち後妻の一族にそそのかされ、後継者を次男の劉琮にしました。そのことによって、死後に荊州が曹操に支配される原因を作ったとも言われます。実際の劉表及びその一族はどのような人物だったのでしょうか?
劉備(玄徳)は巻き込まれたのか? 劉表(景升)一族のお家騒動
曹操(孟徳)に追われ、一時は関羽(雲長)、張飛(翼徳)とも離散してしまった劉備(玄徳)でしたが、苦難の末に「義兄弟」は再集結。劉備(玄徳)は同族のよしみを頼って荊州太守であった劉表(景升)のもとに身を寄せます。
三国志演義の君主たちと関わりのある劉表一家。長坂の戦いに至るまで
荊州の長官・劉表とその家族は、三国の君主たちとは関わりがあるといっても過言ではありません。長坂の戦いに至るまでの出来事をご紹介します。