力で制圧しなかった曹操(孟徳)の判断力には一定の評価
■ 力で制圧しなかった曹操(孟徳)の判断力には一定の評価
力で制圧しなかった曹操(孟徳)の判断力には一定の評価
赤壁の戦いの前、曹操軍の兵力は約80万強であったと言われています(史実では約20万)。「曹軍100万」なんて表現をする物語も多いです。これに対して呉軍は約10万(史実では約2万)、劉備軍は約3万(史実では約2千)。
三国志演義では少々誇張されている面もありますが、とにもかくにも曹操軍は呉と劉備連合軍の数倍の兵力があり、「力で制圧」することもできたでしょう。
しかし、平定後の将兵の感情、人民支配への影響(力押しすれば反発も多い)を踏まえて「まずは降伏」を図った曹操(孟徳)の判断力には一定の評価をしてもよいと思います。
曹操(孟徳)が呉国に蒋幹(子翼)を送り込む
■ 曹操(孟徳)が呉国に蒋幹(子翼)を送り込む
曹操(孟徳)が呉国に蒋幹(子翼)を送り込む
曹操(孟徳)はまず、呉水軍大都督の周瑜(公瑾)と同郷で幼い頃から顔見知りだったという蒋幹(子翼)を呉に送り込みます。これは「幼なじみ」を名目に周瑜(公瑾)に降伏を勧めるという蒋幹(子翼)から曹操(孟徳)に申し出た策でした。
しかし、周瑜(公瑾)は蒋幹(子翼)の策を完全に見抜いていました。歓迎の大宴会を催し蒋幹(子翼)をもてなしますが、「今宵は旧友に再会できた嬉しい日である。このような日に血生臭い天下の話を持ち出す者は切り捨てる」と宴会中に公言します。これには蒋幹(子翼)も閉口してしまいます。周瑜(公瑾)を口説くどころではありません。
必要以上の周瑜(公瑾)の歓迎ぶり、呉国への忠誠を意味する将兵たちの剣の舞(暗に蒋幹を威圧している)等々「もてなし」の意味の宴会でしたが、蒋幹(子翼)は針のむしろに座っているような思いをします。
周瑜(公瑾)、蒋幹(子翼)を逆に用いて蔡瑁(徳珪)を除く
■ 周瑜(公瑾)、蒋幹(子翼)を逆に用いて蔡瑁(徳珪)を除く
周瑜(公瑾)、蒋幹(子翼)を逆に用いて蔡瑁(徳珪)を除く
「もてなしの宴会」が終わり、周瑜(公瑾)は自らの幕舎へ蒋幹(子翼)を招きます。夜な夜な思い出話に耽るつもりでしたが、周瑜(公瑾)は酔い潰れて眠ってしまいます。ここは「呉水軍大都督」の幕舎。「幼なじみの訪問」ということで人払いされ、近くに監視の兵もいない。偵察には絶好の機会です。蒋幹(子翼)は幕舎内の物色を始めますが、そこでとんでもないものを見付けます。
それは、蔡瑁(徳珪)が曹操(孟徳)を裏切りたいという意が書かれた書状でした。
蒋幹(子翼)はその書状を盗み、慌てて曹操(孟徳)の元へ戻ります。しかし、その書状は巧みに周瑜(公瑾)が仕掛けた偽物でした。偽りの酒宴を催し、大袈裟に蒋幹(子翼)をもてなし、酒に酔ったフリをして眠り、予め書いておいた偽手紙を蒋幹(子翼)が見つけ出すように仕向ける策。
荊州にて降伏した蔡瑁(徳珪)、曹操軍においては戦功もなく、大して信頼されていなかったところに、この偽書状です。曹操(孟徳)は激怒して蔡瑁(徳珪)を打ち首にしてしまいます。
北方出身のため水軍の知識に乏しい曹操軍でしたが、そこに荊州で降伏した蔡瑁(徳珪)の水軍経験は正直、周瑜(公瑾)には脅威でした。実際、蔡瑁(徳珪)が曹操軍において形成した水軍は周瑜(公瑾)に脅威を抱かせるに十分でした。周瑜(公瑾)は曹操(孟徳)か仕掛けた謀略を逆に用い、まんまと脅威(蔡瑁)を取り除いたのでした。
龐統(士元)が曹操(孟徳)に鉄鎖の陣を進言
■ 龐統(士元)が曹操(孟徳)に鉄鎖の陣を進言
龐統(士元)が曹操(孟徳)に鉄鎖の陣を進言
この頃から龐統(士元)が三国志に登場します。かつて水鏡先生が「諸葛亮(孔明)か龐統(士元)のいずれかを参謀として得れば天下を握れる」と語った人物の一人です。龐統(士元)は単身、曹操の陣へ向かいます。既にその学識の高さが天下に知れ渡っていた龐統(士元)の訪問、曹操(孟徳)は大喜びして、自陣を案内して回り、龐統(士元)のアドバイスを求めます。
ここで龐統(士元)は「遠方からの訪問で疲れ、体調が思わしくないフリ」をします。心配した曹操(孟徳)は名医を呼ぶように部下に申し付け、龐統(士元)にはゆっくり休むよう進言します。すると龐統(士元)は「お言葉に甘えさせていただきます。陣中には医師が多くいらっしゃるでしょうから」と言います。
「どうして陣中に医師が多いとわかる?」
曹操(孟徳)は疑問を抱きます。
龐統(士元)は「北方出身の兵が大半を占める曹操軍、南方の風土に合わず、船上の兵士は船酔いする者も多いと推察します」と答えます。悩みどころをズバリと突かれた曹操(孟徳)は兵士に病人が続出している現状を龐統(士元)に打ち明けます。
こうして、龐統(士元)は船同士をすべて鎖でつないでしまえばお互いに干渉しあって船の揺れが収まり、兵士の船酔いが解消されるという「鉄鎖の陣」を曹操(孟徳)に進言して実行させます。
自身が傷ついても策を成功させる 黄蓋(公覆)の苦肉の策
■ 自身が傷ついても策を成功させる 黄蓋(公覆)の苦肉の策
自身が傷ついても策を成功させる 黄蓋(公覆)の苦肉の策
謀略戦が繰り広げられる中、ある日、黄蓋(公覆)が周瑜(公瑾)の幕舎を訪れ「火計」を進言します。既に諸葛亮(孔明)とも意見が一致し、内々に火計の準備を進めていた周瑜(公瑾)でしたが「曹操軍の大船団にどうやって火をつけるか」という問題に悩んでいました。
そして、考え抜いた末に「火をつけた船を曹操軍船団に突入させる」という策を講じ、黄蓋(公覆)にその船の将を任せます。しかし「火をつけた船の突入」など簡単にできる訳がありません。周瑜(公瑾)と黄蓋(公覆)はさらに「偽装降伏」の策を講じ「降伏と偽って曹操軍の船団に近づく」準備を勧めます。
その「準備」も簡単なモノではありません。闞沢(徳潤)を「偽特使」として派遣し黄蓋(公覆)が降伏の意思を持っていることを曹操(孟徳)に伝えますが、曹操(孟徳)は「偽特使」であることを見抜き、闞沢(徳潤)を殺そうとします。
しかし、呉陣営はさらに策を打っていました。ある日、黄蓋(公覆)と周瑜(公瑾)が陣内で大喧嘩をします。黄蓋(公覆)は大都督たる周瑜(公瑾)に大いに暴言を吐き「百叩きの計」に処せられます。先に曹操軍から派遣されていたスパイがこれを曹操(孟徳)に報告しますが、この時に偶然闞沢(徳潤)の「偽特使」が訪れるのです。スパイ情報の裏付けを信用し、曹操(孟徳)は疑念を抱きながらも黄蓋(公覆)の降伏を受け入れます。
後日、黄蓋(公覆)は大量の油と藁を積んで火をつけた船で曹操軍の大船団に突入することに成功します。
龐統(士元)の策によりすべての船同士が鎖でつながれていた曹操軍水軍。火は瞬く間に燃え広がり、曹操軍水軍は壊滅します。そして、この「自身の身を傷つけてまで起死回生の策を成功させる」という行動は「苦肉の策」の語源となって後世に語り継がれています。
まとめ
■ まとめ
まとめ
赤壁の戦いでは、周瑜(公瑾)の策によって「水軍指揮官」たる蔡瑁(徳珪)を失い、龐統(士元)の策によって「お膳立て」を仕向けられ、闞沢(徳潤)、黄蓋(公覆)の勇士によって出鼻をくじかれ、呉軍と劉備軍に散々な目に遭わされた曹操軍でした。「兵士数で圧倒」していたはずでしたが「謀略戦」に完敗し「骨抜き」になってしまった訳ですね。