皇帝さえ変えてしまう権力の持ち主董卓(仲穎)
■ 皇帝さえ変えてしまう権力の持ち主董卓(仲穎)
皇帝さえ変えてしまう権力の持ち主董卓(仲穎)
後漢王朝が滅びる際、真っ先に権力を握ったのが董卓(仲穎)です。彼は小さい頃けんかが強く、街の不良でした。その後軍に就職し、主に西方の異民族と戦いました。部隊を指揮しても人並み以上の技量を持った董卓(仲穎)ですが、彼が抜群に優れていたものがありました。それは「お金を使う」ということです。
特に「賄賂を渡す」天才だったのです。誰をどう買収すれば自分が一番得をするか分かっていたのです。
さらに、敵を多く作る性質はありましたが、その反面彼の元では略奪や犯罪も許されていたため、彼を支持する者も多くいました。
自分の一存で皇帝さえ変えてしまう横暴さがありながら、誰も董卓(仲穎)を制圧できる者はいませんでした。日本でいう織田信長的存在ですが、それ以上に横柄で傍若無人だったといえるでしょう。三国志においてまさに悪の帝王といっても過言ではないのが董卓(仲穎)という男なのです。
呂布(奉先)を仲間にしてしまう董卓(仲穎)
■ 呂布(奉先)を仲間にしてしまう董卓(仲穎)
呂布(奉先)を仲間にしてしまう董卓(仲穎)
董卓(仲穎)が好き勝手出来た理由の一つに呂布(奉先)の存在が挙げられます。元々呂布(奉先)は董卓(仲穎)の敵陣にいました。しかし赤兎馬を与え、呂布(奉先)を言葉巧みに自分の陣営に引き込むことに成功しました。無敵の強さを誇る呂布(奉先)が董卓(仲穎)のボディーガードをしているため誰もうかつに近寄ることができませんでした。
最高のカリスマ性を持った董卓(仲穎)と、最強の戦力を誇った呂布(奉先)の力は絶大で不満を抱きながらもみんな董卓(仲穎)の横暴をやり過ごすことしかできませんでした。
曹操(孟徳)は董卓(仲穎)を暗殺しようと試みましたが、失敗に終わり、逆に追われる身となってしまうというエピソードもあります。
うまくいかなかった反董卓連合
■ うまくいかなかった反董卓連合
うまくいかなかった反董卓連合
董卓(仲穎)の権力があまりにも強く、誰も対抗することはできませんでした。しかし、1対1では無理でも「連合を作って対抗すれば何とかなる」と思われ、作られたのが「反董卓連合」です。日本の戦国時代に置き換えると織田信長軍を倒すのは難しいため武田、上杉、伊達、毛利、雑賀、浅井などが手を結び一斉攻撃を仕掛けるというイメージです。
実際三国時代の反董卓連合に加わった武将は袁紹(本初)、曹操(孟徳)、孫堅(文台)、劉備(玄徳)、袁術(公路)、公孫瓚(伯珪)など各地で名を轟かせていた猛者たちでした。(このころまだ劉備(玄徳)はそれほど力があるわけではありませんでした)
こうなったら「いかに董卓(仲穎)の力が凄かろうと倒せるのではないか」と考えがちですが、なんとこの連合軍をもってしても董卓(仲穎)を攻め落とすことができませんでした。
みんながみんな「董卓(仲穎)を亡ぼした後、自分たちが戦乱のイニシアチブをとれるように」という考えを少なからず持っていたため、結局一枚岩にはなりきれず内部崩壊してしまうという形になりました。
超名門の出身だが結果を出せない袁紹(本初)
■ 超名門の出身だが結果を出せない袁紹(本初)
超名門の出身だが結果を出せない袁紹(本初)
さて、上記で上げた反董卓連合ですが、そのリーダーとなったのが袁紹(本初)でした。ここでリーダーシップを発揮し、見事董卓(仲穎)を亡ぼすことができたのであれば彼の手柄は計り知れないものだったでしょう。しかし、名門の出身ではあるものの、袁紹(本初)にはカリスマ性がなかったのか、反董卓連合はうまく機能せず瓦解してしまいました。
ところが袁紹(本初)にはチャンスが転がり込んできました。なんと難攻不落だと思われた董卓(仲穎)が色仕掛けという罠にはめられ殺されてしまうのです。しかも董卓(仲穎)を殺したのが呂布(奉先)でした。
董卓(仲穎)がいなくなったことにより、袁紹(本初)の勢力が一気にトップに躍り出たのです。そして普通にやれば天下をとれたという状況となったのです。
袁紹(本初)にとって二度目のチャンス到来
■ 袁紹(本初)にとって二度目のチャンス到来
袁紹(本初)にとって二度目のチャンス到来
三国志の大戦といえば真っ先に「赤壁の戦い」を思い浮かべる人が多いでしょうが、規模でいうと「官渡の戦い」の方が大きかったという説もあります。
官渡の戦いとは曹操軍対袁紹軍の戦いで、袁紹(本初)からしてみればこの大戦で曹操(孟徳)を叩いて一気に天下取りの足固めをするといった戦いでした。
袁紹軍の軍勢は曹操軍の10倍以上だったため、戦う前から勝負あったという感じでした。ところが、曹操(孟徳)の奇策が決まり、袁紹軍から投降するものが相次ぎました。食料保管所を焼き払われるということも重なり、袁紹(本初)は一転ピンチに陥れられてしまったのです。結局最後まで持ち直すことができず、まさかの袁紹(本初)敗北というジャイアントキリングが起きてしまいました。
袁紹(本初)は二度のビックチャンスを逃し、自身の手で天下を取るという野望を果たすことができませんでした。
袁紹(本初)が天下を取ることができなかった理由
■ 袁紹(本初)が天下を取ることができなかった理由
袁紹(本初)が天下を取ることができなかった理由
董卓(仲穎)亡き後、普通にやっていれば天下を取ることができたであろう袁紹(本初)ですが、天下どころか、三国にすら残らず忘れ去られる存在となっています。その理由は単に「力不足だった」という見方もできます。しかし袁紹(本初)の家柄で、これだけ舞台が整っていれば、いかに力不足でも天下を取ってもおかしくありませんでした。
私は袁紹(本初)天下をとれなかったのには二つの要因があると思っています。
一つは曹操(孟徳)とどうしようもなく不仲だったことです。ここまで不仲でなければ曹操(孟徳)が全勢力を挙げて袁紹(本初)に挑むということはなかったかもしれません。
戦は結局トップの意向で勃発することもあるので、二人のこの不仲は今の時代では考えられないほど国を動かす要因だったのではないかと思っています。
もう一つは、どうしようもない親族袁術(公路)の存在です。袁術(公路)は袁紹(本初)の腹違いの弟という説と従弟だったという説があります。いずれにせよかなり近い親戚です。その袁術(公路)は金に物を言わせるボンボンで、やることなすこと全てがわがままでした。さらに袁紹(本初)とは不仲で、戦時に援護するということもありませんでした。二人が連携をとったら曹操(孟徳)を倒せていたことでしょう。
まとめ
■ まとめ
まとめ
天下をとれそうでとれなかった董卓(仲穎)と袁紹(本初)についてまとめましたがいかがでしたでしょうか。二人ともあと少しというところでしたが、逆にこの二人が天下をとれなかったことが、三国志をより楽しくしているのではないかと思っています。
天下をとるには力や金がなければいけません。しかしそれだけではいけないということが二人を見て分かっていただけたら幸いです。