三國志 董卓・袁紹・公孫瓚 名士との関係は深い方がいい? 浅い方がいい?

三國志 董卓・袁紹・公孫瓚 名士との関係は深い方がいい? 浅い方がいい?

黄巾の乱から始まった三国時代。最初にチャンスを掴んだのは董卓でした。彼は強固な涼州兵を背後に名士を挙用し政権を確立していきます。
袁紹はその董卓を打つ為に結集した反董卓軍の盟主でした。彼もまた名士を挙用し、政治を行いました。
この袁紹と何度も戦った公孫瓚は逆に、名士を排除し抑圧し、董卓、袁紹とは真逆の政治を行おうとしました。
しかし、ご存知の通り三者とも覇権を争うも道半ばで夢は潰えてます。
彼らの政権に深くかかわってきた名士。
実はこの名士を抜きに政権を築くことは、容易な時代ではなかったんですね。


黄巾の乱をざっとおさらい

黄巾の乱をざっとおさらい

黄巾の乱をざっとおさらい

184年、黄巾の乱から始まった三国時代。
黄巾の乱は、一言で表すと「太平道の信者が各地で起こした農民の反乱」と言えるでしょう。
後漢も末期になると、皇帝も政治に興味をなくし飾り的存在になっていました。
代わって政治を執り行う宦官や外戚も権力争いに明け暮れ、政府としての機能も怪しくなっています。
終に官僚たちは国を顧みることを忘れ、度重なる異民族の反乱などで財政も悪化。
そんな中各地で起こった水害や干ばつに「そんな事に金を使えるか!」と、農民や地方役人の訴えをまるっと無視してしまうんです。
まぁ、農民に限らず不満は溜まりますよ。
批判する人も出てきます。が、宦官たちが先制して不満分子を粛清したりして、全く国政は良くならない。それどころか悪化する一方です。
そうなると農民だって「そんな皇帝なんてイラネ」ってなってしまいます。
そこにカリスマ「張角」が登場、となったわけです。
奮起した農民たちは黄色い頭巾をかぶっていたことから「黄巾の乱」と呼ばれたんですが、これは後漢政府の見解であって、張角ら太平道の信者からしたら「乱してるのは後漢政府じゃ」と主張し「打倒蒼天」とスローガンを掲げていました。
国中を巻き込む大乱の渦中、弱体化した政府を良いことに勝手に自分らで領土を分捕って国を作ってやろう、なんて考えるのは中国人も日本人も大差ないわけで。
ここに日本に先駆けること1300年、下剋上の戦国時代の幕開けとなりました。

名士を挙用した董卓と袁紹

名士を挙用した董卓と袁紹

名士を挙用した董卓と袁紹

千載一遇のチャンス! 持っていた男 董卓

千載一遇のチャンス! 持っていた男 董卓

千載一遇のチャンス! 持っていた男 董卓

戦乱の中、真っ先にチャンスをつかんだ男、それが持っている男、董卓でした。
後漢衰退の原因でもある、宦官と外戚の対立から黄巾の乱平定後、その外戚の何進は宦官の一掃を画策するんですね。
でも宦官に先手を打たれ、宮中で殺害されてしまう。
そこで一緒に宦官一掃を考えていた袁紹は軍隊引き連れ、宦官の皆殺しを図ったんだけど肝心の少帝と陳留王を、生き残った宦官に都の外に連れ出されてしまいます。
命からがら都から逃げてきた少帝と陳留王ご一行が運悪く出会ったのが董卓だった、とここまでは有名な話ですね。
その後の董卓の横暴ぶりは、皆さんご存知の通りです。

将才のない董卓がななぜ洛陽を手中にできたのか

将才のない董卓がななぜ洛陽を手中にできたのか

将才のない董卓がななぜ洛陽を手中にできたのか

さて三国一の嫌われ者董卓ですが、慮植の失脚後しばらく黄巾討伐隊を率いてました。
でも、なーんの成果も出せず皇甫嵩にその地位を譲ります。
彼個人の武勇伝はともかく、軍隊を率いる才能は儒教を修めた盧植や皇甫嵩などの「儒将」には全くかなわないという事でしょうか。
なのに、彼は持っていたんですね。運があった。
偶然とはいえ少帝御一行と遭遇し、このチャンスを逃しませんでした。
少帝を保護すると殺された何進の部下を自軍に吸収、巧いこと呂布を利用して丁原を殺害し、その軍隊も吸収してあれよあれよという間に政権を武力で掌握してしまいました。
もう、イケイケの状態だったんでしょうね。

董卓軍、涼州兵が強かったわけ

董卓軍、涼州兵が強かったわけ

董卓軍、涼州兵が強かったわけ

董卓はもともと隴西郡(現在の甘粛省東南部)出身で、羌族と関係があったようです。
涼州は歴史的に異民族との争いが絶えなかった地域。
隴西郡は安定郡や漢陽郡と同じく降伏した羌族を住まわせた場所でもありました。
黄巾の乱が起こると、涼州の羌族はこの混乱を機に漢人豪族と反乱をお起こしますが、先述の皇甫嵩に平定され降伏します。
その時、多くの羌族が隴西郡出身で既知の董卓に降伏したといいます。
董卓の涼州兵は羌族と戦ってきた漢人の精鋭に加え、この漢族まで加わり最強軍団へと成長してしていったわけです。
さすが、持っている男董卓ですね。

名士を積極的に登用した董卓の政治手腕

名士を積極的に登用した董卓の政治手腕

名士を積極的に登用した董卓の政治手腕

洛陽を掌中に治めた持っている男董卓ですが、彼はどう政権を維持していったのでしょうか。
彼は治世の安定を図るため、名士を招致し登用しました。
あの荀彧の伯父にあたる荀爽や陳羣の父、陳紀を大臣に抜擢するなどかなり積極的に名士を登用したようですね。
でも結果的に、これが仇になってしまうなんて思ってもみなかったことでしょう。
名士は己の知識と名声を基盤に地位を保っているので、董卓に限らず、君主に登用されたからといって君主に対し心服も服従もしないと、と言われています。
なぜって、名士の価値基準が儒教だから。
もし君主に無理難題を言いつけられてそれに従うと、己の存在基準である名声が汚れてしまう事になってしまう。
それは耐えられない事なので、筋の通らない命令には決して従わないのです。
いわゆる君主と武将のような主従関係は到底無理ってことですね。
彼らは基準とする儒教の教えに従って、自分の名声を高めるため仕事こなしているだけという事かもしれません。
だから、名士の君主への忠誠心は薄いと言われてます。
実際董卓が挙用した名士韓馥は、董卓討伐のため冀州刺史に着任後即、軍勢を集めて立ち上がったわけです。
名士の価値基準は儒教です。後漢の国教でもある儒教。名士は漢を守ることが大事であって名士たちの抱負でもあったわけです。その漢の為ならしっかり働きもするが、逆に漢の皇帝を廃立する董卓は許せない存在になってしまったんですね。

武力で抑え込み統制を失った董卓軍

武力で抑え込み統制を失った董卓軍

武力で抑え込み統制を失った董卓軍

反董卓軍に対し、守備に適さない洛陽を焼き捨て、董卓は軍事の拠点長安へ遷都するも朝臣からの反発はハンパありません。
でも、董卓は反発には力で対抗、ねじ伏せていました。
それでも反発は後を絶たず。再び反抗され力で抑え込み、と繰り返すうち董卓軍の統制は完全に失われていくことになりました。
その後の董卓の末路はご存知の通り、王允と呂布により董卓は最後を迎えるわけです。

知識人である名士は治世の要だった

知識人である名士は治世の要だった

知識人である名士は治世の要だった

名士の役割は多岐にわたり、豪族間の争いなど利害関係を調整する役割も担っていました。
豪族たちは名士になるため、名士を支持し彼らの名声を尊重していました。
君主が国を支配するには、広大な土地を所有する豪族の指示を受け、その地域の名士階層の支援を得なければ到底できない構造になっていたのです。
董卓は降って湧いたチャンスを生かすため、手っ取り早く政権を安定させようと、名士を挙用したのではないでしょうか。
しかし、先に述べたように名士の忠誠は君主には向きません。彼らの基盤は儒教です。 
董卓の誤算は名士が欲するものは名声であり、国家権力でも広大な土地でもない、という事を理解していなかったことかもしれませんね。

後漢屈指の銘家出身の袁紹

後漢屈指の銘家出身の袁紹

後漢屈指の銘家出身の袁紹

反董卓軍の盟主袁紹 名士の本流王道戦略

反董卓軍の盟主袁紹 名士の本流王道戦略

反董卓軍の盟主袁紹 名士の本流王道戦略

袁紹は後漢屈指の銘家「汝南の袁氏」出身。なので、地盤が固かったんですね。
後に曹操軍が攻めてきた際、門生や故吏は武力で支援、抵抗を見せています。この門生や故吏はただの弟子や部下なんかじゃなかったんですよ。
曹操相手に武力抵抗ができるんですから。
しかも、嫡子の袁術に比べ庶子の袁紹の人間ができていた。
これも支持を得るのに有利に働きました。
また、冀州牧を譲られた時袁紹は、汝南郡に名士を迎えるべく使者を派遣し名士を尊重していました。
こうしたところに、同じ名士を用いるにしても董卓との格の違いがでてきます。
そのうえ、名士を粛清した宦官を打倒したんだから袁紹の名士からの信頼はとても篤かったのでは、と推察できます。
「反董卓」と集まってきた群雄が袁紹を盟主と仰ぐのは、当然と言えば当然であったのかもしれません。

名士を理解していた袁紹

名士を理解していた袁紹

名士を理解していた袁紹

袁紹は名士の何たるかをよく知っていました。
だから、戦術にも抜かりはありません。
それは後漢を建国した武帝に倣い、袁紹は汝南郡出身でありながら拠点を冀州としたことからもうかがえます。
同じ名士を挙用した政権とは言え、儒教を踏まえた袁紹の戦術は董卓とは雲泥の差というほかありませんね。
もちろん、河北には強力な兵馬を整えられるという事も理由だったでしょう。

名士層の抗争が内紛を呼んだ?

名士層の抗争が内紛を呼んだ?

名士層の抗争が内紛を呼んだ?

袁紹の政権メンバー構成は冀州・幽州・青洲・幷州出身の汝南名士と袁紹と個人的な関係から参画した何顒(かぎょう)名士の二つから成っていました。
前者グループには袁紹の腹心審配や曹操に才能を称えられた沮授などの名士が、後者の主要人物は袁紹の才能を見限り、後に曹操に使えた荀彧とその弟荀諶(じゅんしん)など、そうそうたるメンバーでした。
彼ら名士の持つ影響力と情報網は侮れません。
袁紹の覇権はこの名士たちの活躍があってこそでしょうね。
しかし、両グループのメンバーを見れば分かるように人物が揃い過ぎていました。
袁紹だけではとても使いこなせるものではなかったのです。
何顒グループの郭図(かくと)の讒言から名士間の分裂が起こります。
もっぱら汝南グループが不利で、彼らの記録が残っていないことからもこの二つのグループの対立では、何顒名士が有利だったようです。
もともと名士は群れたがらず。
己の名声のため、今でいうマウンティングが大好きな人たち。
結局この抗争は袁紹亡き後のお家騒動にまで影響し、後漢屈指の銘家「袁氏」の滅ぶ原因となりました。

名士を抑圧した公孫瓚

名士を抑圧した公孫瓚

名士を抑圧した公孫瓚

母ゆえに身分が低かった公孫瓚

母ゆえに身分が低かった公孫瓚

母ゆえに身分が低かった公孫瓚

董卓・袁紹とは正反対に名士を嫌った公孫瓚ですが、郡部の守相の家柄出身で特に低い身分ではなかったんです。
でも、お母さんの出身が卑しかったため小役人にしかなれなかったという過去があります。
しかし、行政官に評価され、盧植に儒教を学ぶチャンスを得ます。
そのお陰で遂には武人として才能を開花させたのでした。
彼は幽州を支配下に置き、河北の覇権を袁紹と争うまでになったのです。
しかしその政治は、名士を挙用した袁紹とは真逆でした。
公孫瓚は名士や高官の子弟を排除したのです。
衣冠の子弟や善士などの名士を取り立てたとしても、自分たちの社会的地位を考えると当然だと思い自分(公孫瓚)に感謝せず、忠誠を誓わないと考えていたからでした。
その代わり、彼は商人との関わりを深め兄弟の契りまで交わしていました。
公孫瓚は名士から対極に位置する身分の低い者を用い、その感謝から生ずる忠誠心を核とした集団を作り上げていったのでした。
劉備も「義兄弟」など擬制血縁を大事に考え、大商人と姻戚関係を結びその財力で集団を維持していたのは、この公孫瓚に兄事していたから他ありません。
劉備といえど、荊州で諸葛亮という名士を迎えるまで名士を中核に置くことはありませんでした。

公孫瓚の敗因

公孫瓚の敗因

公孫瓚の敗因

名士をことごとく排除した公孫瓚。
なぜ袁紹に敗れたか、それは名士が持つ儒教の価値を認めていなかったからではないでしょうか。
幽州の支配権を公孫瓚と争った劉慮は、儒教に従った典型的な儒教官僚でした。
異民族には恩信を施し、寛やかな統治で領内を治めていました。
そんな劉慮を汚いやり方で攻め、多くの人々が劉慮の助命を願うも無理難題で劉慮を辱め処刑したことで公孫瓚の評判は地に落ちます。
何しろ、名士はこのような卑劣な方法を嫌います。
もとより、支配下に居住する名士をワザと抑圧し苦しめていた公孫瓚ですから、劉慮の仇討ちと復讐を掲げ打倒公孫瓚と立ち上がった時、袁紹がそれに応えたのは無理もない事でした。
名士の情報網を舐めちゃだめだったんですよ、公孫瓚。
袁紹に連敗の公孫瓚ですから、ここらで折れて名士に助言を求めればよかったのに最後まで拒絶しました。
袁紹に攻められ、孤立しても誰一人救出を試みるものが居なかったのは、幽州を完全に制圧できていなかったと言うほかありません。
大商人たちと手を組み擬制血族となって地盤を固めるためには、名士や豪族とも繋がっていなければ長期にわたる安定政権は築けない時代だったのです。

まとめ

まとめ

まとめ

母の出自ゆえ、貶められた公孫瓚、蓆売りの劉備、たたき上げの軍人呂布など名士と関わりがない、相手にされなかった階層出身は己の価値観で政権を築き上げていった。
反対に家柄の良い袁紹、劉表、劉慮など名士出身の彼らは、名士とその文化の影響が強かったため、自己主張も強く言えず、周りに合わせるため君主権力を確立するまでにはいかなかった。
その中でも袁紹は異民族を軍隊に編入させるなど比較的柔軟性の強かったにも関わらず、やはり最後は名士を重く用いすぎたため君主権力を確立できなかった。
君主権力を確立させながらも名士層とその社会的基盤、情報網を遺憾なく発揮させる、そういった君主だけが生き残れた時代だったですね。





この記事の三国志ライター

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