時代は違うがどちらが強い?! 最強といわれた呂布と項羽

時代は違うがどちらが強い?! 最強といわれた呂布と項羽

後漢末期の三国志最強の武将といえば、呂布(奉先)が真っ先に挙がることでしょう。史実や演義でも無類の武力を誇り、曹操(孟徳)や劉備(玄徳)といった他陣営から恐れられていました。一方、史記に登場する項羽も呂布と並んで最強武将として君臨しています。この両者、どちらが最強なのでしょうか。


飛将・呂布の凄さ

呂布(奉先)は後漢末期の并州を収めていた実力者の丁原に仕えていました。朝廷が宦官の十常侍によって腐敗し、憤った大将軍の何進は丁原と共謀して宦官抹殺を目論見ました。天下の諸侯を終結させて重圧をかけた何進でしたが、逆に暗殺されると都は混乱し、十常侍も袁紹(本初)らによって斬首されています。

都の混乱を突いて反旗を翻したのが涼州の将軍だった董卓(仲穎)です。董卓は丁原の軍勢を手にしようと、丁原の暗殺を謀ります。しかし、護衛には呂布が付いており、暗殺者たちは呂布に簡単に斬られてしまいました。呂布の実力に恐れを抱いた董卓は、金品を送り、呂布を懐柔します。呂布は丁原の首を取り、董卓に寝返ります。丁原の兵は呂布の強さを知っているので、誰ひとり逆らえず、董卓軍に吸収されています。

暴虐の限りを尽くした董卓の元で護衛をしながら、反董卓連合軍の曹操(孟徳)を散々に打ち破るなど活躍し、その後は王允と手を組んで董卓を暗殺しています。権力を手中にした残虐な主君を誅するのは並大抵のことではなく、あっさりとやってのける呂布は神経もタフといえるでしょう。

呂布は剣術に優れているだけでなく、腕力も常人よりも強くて、馬術や弓の腕前も一流でした。

一騎当千の呂布

呂布は董卓軍の残党に敗れてしまい、しばらく放浪します。袁紹(本初)の元へいくと、冀州で黒山賊といわれる山賊が大軍を以って暴れまわっていました。袁紹は呂布を受け入れて黒山賊の討伐を命じます。呂布はわずか数十騎で1万を誇る賊を相手に突撃を繰り返し、一気に蹴散らしていきます。赤兎馬にまたがった呂布の凄まじい活躍は賊を恐れさせ、その一騎当千ぶりに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されるようになりました。呂布は袁紹に兵の補充を求めますが、袁紹は呂布の凄まじさに自分では扱いきれないと悟り、逆に暗殺を決意します。当然ながら呂布に通用するわけもなく、袁紹は門を閉じて呂布を避けるようになりました。

部下の諌言を聞かず、曹操に敗れる

以降の呂布は曹操(孟徳)や劉備(玄徳)の軍勢を破り、一時曹操を壊滅まで追い込みます。しかし、呂布は短気で配下の進言も聞かず、次第に勢いを取り戻した曹操(孟徳)によって捕縛されてしまいます。この戦いの決め手となったのは、陳宮や高順といった配下の進言を却下し続けた呂布と、荀攸や郭嘉らの策略を聞き入れて実行した曹操(孟徳)の君主としての差が大きな命運を分けました。

天下に名が届いた項羽

呂布の活躍した時代から遡ること約400年、秦が天下統一を果たした時代がありました。始皇帝の圧政に苦しみ、各地で反乱が起きており、項羽(項籍・字が羽となるが、一般的な通称は項羽)は叔父の項梁とともに挙兵します。項羽は春秋・戦国時代の大国である楚の大将軍・項燕の孫であり、由緒正しき血筋といえました。

項羽は身長2mを超え、腕力はけた外れに強く、周囲からも畏怖の目で見られていました。項羽と項梁は2人だけで会稽郡の役所に乗り込み、項羽が一人で数十人を相手に立ち回り、全員を倒したので、会稽の人々はみな恐れて従うようになりました。

太守の座を奪った項梁は連戦連勝を重ねて、周囲の反乱軍も吸収し、大軍を束ねるようになっていきます。しかし、次第に慢心するようになり、配下の諌めも聞かず、秦軍の有能な将軍である章邯相手に奇襲攻撃を受けて戦死してしまいます。叔父を失った項羽でしたが、自身が後継者となって大軍を引き入れず、楚に仕えていて項梁の側近をしていた宗義が総大将となります。

軍の実権を握る

項羽は参謀の范増に促され、宗義を斬首し、軍の実権を掌握します。元々項梁の甥であり、実力もある項羽に逆らえるものはいませんでした。項羽は大軍を以って秦軍を相手に連戦連勝を重ねていきます。秦の都である咸陽を目指していた項羽は、道中で叔父の仇である章邯の軍と対峙します。秦は20万の軍勢を誇りますが、項羽は短期決戦を目論んで、兵士に3日分の食糧しか持たせず、決死の覚悟で戦いを挑みます。自ら先陣を切った項羽は多くの将兵を蹴散らしていき、遂に章邯を降伏させました。

通常であれば勝ち目はありませんが、秦は始皇帝もすでに亡き、実権を握っていた宦官の趙高によって朝廷は腐敗しており、援軍も見込めない状況が追い風となりました。

残虐な一面を見せる項羽

項羽は降伏してきた名将の章邯と副将の2人を帰順させますが、投降してきた20万にも及ぶ兵士たちは反乱の恐れがあることから、すべて生き埋めにしてしまいました。この残虐といえる行為は後に秦の人々の恨みを買うことになり、周辺の敵城も降伏しても殺されることが分かったことから、決死の抵抗を見せていくようになってしまいます。

これは短気な項羽にとって、一度でも反抗したら見せしめの為に城内皆殺しをするという決断を迫られることにつながっていきます。

劉邦との対決

時を同じくして、別ルートで咸陽を目指している別働隊に劉邦(李)がいました。後の高祖で天下統一し前漢を作り上げましたが、当時は項羽よりも低い身分でした。それでも人望があり、人の進言をよく聞き、降伏してきた将兵は無条件で許すという懐の深さを見せており、敵味方ともに人気が集まりました。劉邦に降伏すれば命は助かるということで、競って帰順しており、項羽よりも圧倒的に速く咸陽に到達して秦を降伏させました。

激怒した項羽は劉邦を攻めようとしますが、もう一人の叔父である項伯や劉邦の配下に止められています。劉邦は未開の僻地に追いやられますが、そこで勢力を蓄えて咸陽を再度奪取し、項羽との決戦に備えるようになります。

人を使いこなせない項羽

項羽はその並外れた武力と時折みせる思いやりで部下を魅了していきますが、短気な側面を一度出してしまうと、子どものように感情に身を任せてしまい、配下を殺したり、暴力を奮ったりしてしまいました。その中には劉邦の大元帥として軍事力を束ねた韓信、計略を以って項羽を倒すことに貢献する陳平、さらに長年貢献してきた范増にまでおよびました。范増は陳平や張良(子房)の策略によって離間させられてしまい、項羽の元を去っていきます。

項羽を唯一諌めることができたのが年長者の范増でしたが、それも叶わず、項羽はどんどん短気な側面が滲みでてしまい、多くの将兵を失ってしまいます。それでも自身が戦いにでれば劉邦軍を相手にせず、連戦連勝を重ねていきます。しかし、韓信は独自の別働隊を率いて項羽の周辺国を攻略していき、項羽を孤立させる戦略をとっていました。劉邦は何度も項羽に敗れていますが、韓信が別働隊を引き入れたのも、劉邦が中央で項羽を引きつけておいたことが要因としてあります。

結果、韓信軍と合流した劉邦軍と周辺の諸侯らによって、四面楚歌となった項羽はたった一度の敗戦によって追い詰められ、自害することになってしまいます。

まとめ

呂布や項羽に共通しているのは、その武力を頼りにして配下の諫言を聞かず、逆に配下を上手に使いこなした曹操(孟徳)や劉邦(李)に敗れ去りました。裏切りや生き埋めなど人道的に問題ある行為があり、人心が失っていったことも要因にあるでしょう。腕力や馬術などはともにその時代の天下最強を誇り、多くの将兵から恐れられたことは間違いありませんので、やはり痛み分けといった感じになりそうですね。

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