わかりやすい呂布
■ わかりやすい呂布
わかりやすい呂布
三国志最強の武将として名高い「呂布」は、主君への裏切りを繰り返しました。そして独立勢力となり、最終的には家臣に裏切られ、曹操に処刑されます。呂布からは天下を統べるという志や野心は感じられませんが、同様に忠義も感じられません。
「戦場で自由気ままに暴れまくる」という印象が呂布には強いですね。その武勇は魅力たっぷりですが、そこに惹かれて呂布に手綱をつけコントロールしようし、失敗したのが丁原や董卓になります。
そういう点では呂布はとてもわかりやすいですね。長安を去ってからも多くの群雄と軋轢を生むことになりますが、呂布だったら当たり前だという感じです。
しかし独力勢力となれば呂布の暴勇だけでは領地を統治できません。政治に精通した者のサポートが絶対に必要でしょうし、他の群雄に出し抜かれないような策士の存在も不可欠です。そこでスポットライトを浴びることになるのが「陳宮」になります。
なぜ陳宮は曹操を裏切ったのか
■ なぜ陳宮は曹操を裏切ったのか
なぜ陳宮は曹操を裏切ったのか
その点わかりにくいのは陳宮になります。彼はもともと曹操の家臣でした。
「三国志正史」と「三国志演義」ではこの辺りの設定がやや異なります。
正史では完全に曹操の家臣として奔走し、見事、曹操を兗州の牧に擁立しています。そもそも兗州を拠点にして天下統一を目指すように進言したのが陳宮となっています。
演義では曹操に仕えたのは一時です。曹操の洛陽からの逃亡に手を貸しますが、途中で曹操の冷酷さや残酷さを目の当たりにして見限ります。再び曹操の前に顔を出すのは、曹操が徐州に侵攻した際になります。
どうやら陳宮にとってのターニングポイントは、曹操の徐州侵攻だったようです。父親を徐州牧・陶謙の手引きで殺された曹操は復讐に燃えて徐州で大虐殺を行います。この行為が引き金となって陳宮は曹操を滅ぼそうと決意するのです。
この時まで呂布と陳宮には接点がありません。陳宮が曹操から兗州を奪おうと画策し、その中で流浪の身である呂布と出会うことになります。
194年より陳宮は呂布の家臣となる
■ 194年より陳宮は呂布の家臣となる
194年より陳宮は呂布の家臣となる
194年、陳宮は呂布に兗州を奪わせるという作戦を実行に移します。正史によると曹操は陳宮に留守を任せていました。同じく留守を任されていたのが、曹操の朋友である陳留郡太守・張邈です。陳宮は張邈やその弟である張超を説得して反乱を起こします。呂布はこの時、兗州牧として迎い入れられています。名士である張邈を慕って兗州各地のほとんどの太守や県令が呼応しました。反乱に与せず抵抗したのはわずか3郡です。そこには荀彧や程昱がいました。
これより陳宮は呂布の軍師的なポジションにつきます。完全に新参者ですから、古参の将とはあまり仲が良くなかったようです。特に筆頭武将である高順とは仲が悪かったと記されています。
呂布にとっては宿無しの状態から、陳宮のおかげでいきなり一州の主にしてもらった恩があります。ですから陳宮を高順と同等に扱っていたのではないでしょうか。
陳宮にとってもアドバイザー不足の呂布の陣営は存在感を発揮するには良い環境だったことでしょう。
なぜ呂布を選んだのか
■ なぜ呂布を選んだのか
なぜ呂布を選んだのか
しかし、疑問もあります。冷酷さや残酷さでいえば曹操よりも呂布の方が上です。呂布は儒教の中ではもっとも重い罪となる親殺し(養父)を犯しているのです。一方で曹操は親を殺された仇討ちのために徐州に侵攻しています。「忠」より「孝」が重んじられる三国志の時代において、悪は呂布であり、曹操には大義名分がありました。
この状況で、なぜ陳宮は曹操ではなく呂布を選んだのでしょうか。
同時に、なぜ朋友の張邈は曹操ではなく呂布を選んだのでしょうか。
曹操は家族に対し、「自分が無事に徐州から戻れなかったら張邈を頼れ」とまで張邈を信頼していました。張邈には陳宮にそそのかされたぐらいで、朋友の曹操を裏切り悪名高き呂布と組む理由にはなりません。
呂布が曹操の領土を侵すことにまったく疑問はありませんが、張邈と陳宮が曹操を裏切ることはどうも腑に落ちません。
似たような事例が日本にあった
■ 似たような事例が日本にあった
似たような事例が日本にあった
同じような出来事が日本の戦国時代にもありました。
織田信長が越前の朝倉氏を攻めたときです。この時、織田信長に反旗を翻して背後を襲ったのは、妹を嫁がせていた浅井長政でした。織田信長は義理の弟に裏切られ、絶体絶命のピンチに陥ったのです。
浅井長政が織田信長を裏切ったのは、古くから誼のあった朝倉氏に味方したためだとされています。この裏切りは織田信長によっては予期せぬ出来事だったようです。それだけ信頼していたということでしょう。
奇跡的にピンチを脱出し、本拠地に戻った織田信長は後日、浅井長政を攻め滅ぼし、その髑髏で杯を作ったそうです。それだけ織田信長は浅井長政の裏切りが許せなかったわけです。
徐州牧・陶謙との関係
■ 徐州牧・陶謙との関係
徐州牧・陶謙との関係
一説には張邈は袁紹の威を恐れ、袁紹の命令で曹操が自分を殺すのではないかと疑心暗鬼に陥ったのが謀叛の原因だったといわれています。
演義では陳宮は陶謙と交流があり、徐州救出のために曹操の兗州を奪ったとも描かれています。
もしかすると張邈、陳宮ともに陶謙と太いパイプがあったのかもしれません。陶謙の指示のもと張邈と陳宮は曹操に反旗を翻した可能性もあるわけです。
つまり呂布に魅力を感じたわけではなく、陶謙への義理、曹操への反感が兗州乗っ取りの理由だったことになります。
陳宮は曹操に敗れて徐州に移って後、呂布を裏切り袁術と結ぼうとしたと正史には記されています。この謀叛は高順によって鎮圧されましたが、陳宮は咎められなかったそうです。このエピソードは、「呂布が陳宮なしでは徐州を治められなかったこと」、「陳宮がそこまで呂布を慕っていなかったこと」を物語っているように思えます。
まとめ・曹操の処遇の違い
■ まとめ・曹操の処遇の違い
まとめ・曹操の処遇の違い
不思議なのは、裏切った張邈と陳宮へ曹操が命じた処遇の違いです。
張邈は戦死、その死後、張邈の家族は曹操の命令で皆殺しにされています。一方で陳宮に対して曹操は再度配下に加えようとしました。陳宮はこの要求を断り処刑されていますが、その家族は曹操に厚遇されたと記されています。
張邈と陳宮の家族は真逆の扱いを受けているのです。
憎しみを超越するほど曹操は陳宮の手腕を評価したということなのでしょうか。それとも他に何か理由があったのか・・・。
陳宮は単純に曹操からの評価が低かったから謀叛を起こしてその力を証明したという説もあります。
「曹操に自分を認めて欲しかった」
それが、陳宮が曹操ではなく呂布を選んだ理由だったのかもしれません。