国内外に常に不安因子を抱える後漢末期の国家情勢

国内外に常に不安因子を抱える後漢末期の国家情勢

黄巾党の乱が起こるとその混乱に乗じて姜族や烏丸などの異民族も争乱を巻き起こしました。さらに終焉に近づくと力を蓄えた董卓が政権を手中に収めようと台頭、それを王允や曹操(孟徳)が討伐せんと動くなど後漢の世はまさに国内外を問わず混乱状態に陥りました。


辺章・韓遂の乱

黄巾党の乱が勃発して中原に騒乱が訪れると、涼州の姜族たちもこの機に乗じて各部族と結託して一斉に蜂起しました。姜族は涼州の金城にいた辺章と韓遂を軍師として迎え入れ、10万あまりの軍勢を擁して、刺史、郡守を殺害する反乱を起こしました。これに対して黄巾の乱の討伐戦で敗北を喫し免職となっていた董卓が皇甫嵩とともに辺章、韓遂両名を迎撃するべく出陣しました。
つまり、董卓&皇甫嵩VS辺章&韓遂の戦いが辺章・韓遂の乱です。

董卓は征圧できず敗走

辺章・韓遂の乱が開戦すると黄巾党の乱討伐戦で功績のある皇甫嵩がまさかの敗戦だったため、朝廷は皇甫嵩を罷免した後、董卓を破虜将軍に任命して官軍の将軍数名と10数万の軍勢を預けられて再度辺章、韓遂の討伐に向かわせました。そして、長安からわずか80Kmの扶風郡美陽においてかろうじて勝利したものの、辺章、韓遂を討ち損じてしまいます。彼らを追撃した董卓は3万の兵を率いて望垣まで進軍したものの、数万にものぼる姜族に包囲されたため、食糧が尽きて撤退せざるを得なくなってしまいました。
この敗走に際し、董卓は魚を捕るふりをして密かに逃げ延びることができたという旨が魏志董卓伝に記録されています。その後、敗走の責任を取って董卓は兵権を取り上げられそうになりましたが、董卓がこの勅命に従うことはありませんでした。
韓遂は3年後再び挙兵し、陳倉を包囲したものの、再び皇甫嵩と董卓が鎮圧に出撃したため蜂起から2カ月余りで撤退をしています。

長い外戚と宦官の争い合いが終着し董卓が台頭

黄巾党の乱が終焉に向かった後も外戚と宦官はいがみ合いを続けていました。西暦189年に後漢第12代皇帝の霊帝(献帝の実父)が崩御すると、外戚(何皇后の兄)として権勢を振るっていた大将軍の何進が何皇后と霊帝の間に生まれた皇太子の劉弁を後漢第13代皇帝である少帝として即位させて実権を握りました。何進はこのタイミングで宦官たちの勢いを削ぐため十常侍(宦官のトップ)たちを抹殺し、宦官勢力を一掃しようと謀りました。ところが、宦官から多額の賄賂を受け取っていた自身の妹の何皇太后からの同意を得られないばかりか躊躇している間に宦官誅殺計画が事前に宦官の知るところとなり、何進は逆に宦官たちに謀られて殺害されてしまいます。何進の部下として司隷校尉となっていた袁紹(本初)は宦官たちの行いに激怒し、曹操(孟徳)らの協力を得て宮殿に押し入り、宦官を虐殺しました。
こうして外戚と宦官がともに排除された後、洛陽に入ってきたのが董卓でした。董卓は宦官を排除するために外圧として死の間際の何進から招かれていたのでした。招いたはずの何進はすでに亡き者となっており、対立する宦官たちも袁紹(本初)らによって一気に葬られていました。そんな権力の空白期にタイミングよく洛陽の都に入った董卓はすぐに何進の軍勢を自軍に吸収して洛陽の兵権を掌握します。とはいえ、当初董卓が率いていた軍勢は精鋭3000ばかり。軍勢を少しでも多めに見せておかなければ群雄たちがいつ謀反を起こすのかわからないので、董卓は夜な夜な暗闇に紛れて兵を場外へ出し、翌日軍旗をはためかせて陣太鼓を華々しく打たせ、さも援軍がやってきたかのような演出を何度も繰り返すことによって大軍を擁しているかのように見せかけました。こうして政権の安泰を計っていた董卓は少帝を廃して異母弟の劉協を後漢第14代(最後)の皇帝である献帝に即位させ、自らは相国という人臣の最高位に就任して皇帝を意のままに操る最高権力者に上りました。

反董卓連合が結成される

こうして権力を握った後の董卓はますます専横を強め、酒池肉林の限りを尽くし金銀財宝、女を貪り都はただただ荒れ果てるばかりでした。そこに立ちはだかったのが東郡太守の橋瑁でした。彼は三公の名を使って反董卓連合軍の結成を呼び掛ける檄文を作成したのです。ちなみに三国志演義ではこの檄文を曹操(孟徳)が作成したことにすげ替えられています。各地に点在していた群雄たちはこの呼びかけに呼応しました。呼応した群雄たちの名は渤海郡太守の袁紹(本初)をはじめ北平太守の公孫瓚、豫洲刺史の孔伷、長沙太守の孫堅(文台)、冀州牧の韓馥、済北国相の鮑信、陳留太守の張邈などであることが魏志武帝紀に記されています。十八鎮諸侯と言われておりますが、実際に集まった群雄は17諸侯で各々が数万もの軍勢を率いていたというのですから数の上では決して董卓軍にひけをとっていませんでした。四代三公の名門袁紹(本初)を盟主に、曹操(孟徳)を奮武将軍とする総勢20万人を擁する大軍団の誕生です。

榮陽の戦いで曹操(孟徳)が敗走

華々しく結成された反董卓連合軍でしたが所詮一枚岩とは言い難い寄せ集めの軍団でした。魏志武帝紀にある記述を見ると反董卓連合軍結成を知った董卓は、郡を長安に移して天子を隠居させ、自身は洛陽に駐屯し反董卓連合軍を牽制していたとあります。これに対して、洛陽の東にあたる酸棗へと結集したのは張邈、劉岱、橋瑁らのみで、多くの群雄たちは拠点から動こうとしませんでした。みな精強な董卓軍を恐れて自軍の兵が無駄に消耗されるのを避けてなかなか進軍しようとしません。連合軍の尻込みする様子に業を煮やした曹操(孟徳)は、「私たちは正義の軍を率いて賊を討つのだ。すでに大軍を擁しているのに、諸君らはいったい何を躊躇っているのだ?今こそ逆臣董卓を誅滅する好機ぞ!」と言い放ち、鮑信とともに自軍の兵士を引き連れて出陣しました。榮陽で董卓軍の精鋭徐栄と対峙し戦うことになります。しかし、意気揚々と出陣したのはよかったのですが、曹操(孟徳)は徐栄に敗れ多数の犠牲者を出しただけでなく、自身も肩に矢を受けて負傷。従兄弟の曹洪が自分の宇摩に曹操(孟徳)を乗せて逃がし、なんとか生還することができました。それでも曹操(孟徳)と戦った徐栄は、曹操軍の奮闘ぶりを見て、反董卓連合軍が侮りがたい軍勢だた知り、それ以上追撃することはありませんでした。

まとめ

後漢王朝は外戚と宦官が長年いがみ合いを続けてきたことによって国が不安定になり、その結果不満を爆発させた民衆たちが反乱を起こした黄巾党の乱。中原で起きたこの騒乱に乗じて異民族からの襲来や官軍から優秀な人材が流出するなどの現象が起こりました。また、外戚と宦官が同士討ちしても抜けの殻となったベストタイミングで董卓が都に入って台頭、それを討たんと各地の諸侯たちは反董卓連合軍を結成しますが、20万以上の兵力をもってしても董卓の威勢を削ぐことはできませんでした。外戚と宦官が一掃されても董卓の専横、異民族の襲来、黄巾党の残党による略奪行為は続き、後漢末期はまさに国内外に常に不安因子を抱える不安定な国家へとなりました。

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