荊州奪回を目指す
■ 荊州奪回を目指す
荊州奪回を目指す
魯粛の後を継いだ呂蒙は、標的を曹操ではなく、荊州の関羽に向けていました。もともと曹操との国境は攻めるには難しく、何よりも領土が広大なため、直接攻撃してもいずれは呉が力尽きてしまう恐れがあったといえます。
一時孫権陣営が曹操と和睦をし、臣下の礼を取ったのは、国力を高めることと合わせて、攻撃対象を劉備(玄徳)一本に絞る必要があったからといえます。特に劉備(玄徳)穏健派の魯粛が亡き今、呂蒙ら劉備(玄徳)排除派の勢いは強く、孫権も関羽をどうにかしたいという気持ちが強くありました。
諸葛亮や魯粛は、劉備(玄徳)と孫権が手を組んで、大国の曹操に立ち向かうという図式を持っていましたが、呂蒙は荊州南部を奪回し、そこを拠点として益州を攻めるように考えていました。これは前都督の周瑜と同じ考えであり、曹操と戦力を二分する大国になることを意味しています。
関羽の方はいかにして魏の領土を奪回するかを考えていました。もちろん、孫権や呂蒙らを意識して国境には守りを固めていました。呂蒙も関羽とは表面上で友好的な付き合いをしており、領土を奪うことなど意識させないように努めています。
陸遜を抜擢
■ 陸遜を抜擢
陸遜を抜擢
関羽は曹仁が守る樊城を攻める頃、呂蒙は自身を病と称し、一時帰国する段取りをします。もちろん、これは関羽を油断させる名目でした。その頃荊州の奪還を目指して策略を練っていたのがまだ無名の陸遜でした。陸遜は山賊退治で名を挙げており、孫権から信任を得始めていたころでした。
呂蒙は陸遜と面会し、その知略に驚愕します。呂蒙は関羽打倒の策略を練り直し、陸遜を使って関羽をさらに油断させようとしました。陸遜は呂蒙の後任の指揮官となって、関羽宛に手紙を送っています。手紙の内容は指揮官としての能力が乏しいことを意識させるものであり、関羽はこの手紙を読んで呉の警戒心を解き始めていきました。
関羽は曹操の援軍が送られてくるであろう、樊城の攻めに守りの兵力まで割くようになっていきます。関羽は増援された于禁らの大軍を攻略したあとだったので、慢心が芽生え始めていました。この油断は完全に孫権や陸遜を侮っており、劉備(玄徳)や諸葛亮といった関羽を諌める諸将もいなかったことも要因といえます。
関羽に気づかれないように進軍
■ 関羽に気づかれないように進軍
関羽に気づかれないように進軍
呂蒙は着々と荊州奪回の構図を描き、ついに出陣を果たします。軍の全権を任されている呂蒙は、一気に進出するわけでなく、関羽に気づかれないように細心の注意を払って荊州各地の城を撃破していきました。
呂蒙の攻撃に対して、関羽は樊城の攻めに夢中になっていたこともあり、全く気付くことができませんでした。しかも、曹操の援軍として漢中から参戦してきた徐晃の活躍もあって、関羽は敗れ去り、退却するころには呂蒙らに退路を断たれていました。
事の重大さを理解した関羽は益州に援軍を要請しますが、すでに遅く、呂蒙らは関羽軍将兵の家族を人質に取っていました。しかも、その人質を丁寧に扱い、治安の維持を徹底させたので、呂蒙に対して民が好意的な態度を取るようになっていきます。そのため、関羽軍の将兵たちは競って逃走し始めており、関羽軍は士気を失っていきました。
関羽は孤立し、益州へと逃走を図りますが、呂蒙や陸遜は先手を打っていたので、とうとう関羽は捕らえられました。孫権は荊州を平定することに成功し、関羽は息子とともに処刑されてしまいます。
呂蒙は曹操や袁紹、孫権や周瑜でも成し遂げられなかった関羽討伐を果たし、その功績はどの諸将よりも大きなものとなっていきました。
この一戦を踏まえて劉備(玄徳)が呉への復讐を誓い、呂蒙が死んだことを受けて夷陵の戦いへと発展していきますが、関羽に続いて張飛を失った劉備(玄徳)軍は陸遜の前に大敗を喫しており、蜀の力は大いに低下していきました。
突然の病を発症して42歳の若さで死去
■ 突然の病を発症して42歳の若さで死去
突然の病を発症して42歳の若さで死去
大きな仕事を果たした呂蒙は、この後益州に攻める計画をしていましたが、突然病を発症してしまいます。孫権は狼狽し、呂蒙のために大金をはたいて治療を施すように指示しましたが、その甲斐もなく、42歳という若さでこの世をさっています。
周瑜や魯粛に続いて、呂蒙までも亡くした孫権は大きく悲しんだといいます。呂蒙の後継者としては将軍の朱然が推されましたが、実際には今後陸遜が呂蒙の後を継いで呉の発展に貢献していくことになります。
呂蒙の功績はほとんどの戦いに勝利し、孫権を守り抜いたことにあります。赤壁の戦いで勝利に貢献した大黒柱の周瑜が若くして亡くなり、呉の命運を左右することになりましたが、その呉を立て直し、曹操軍や劉備(玄徳)軍を敵に回しても勝ち抜いた呂蒙は稀代の軍略家といえるでしょう。
呂蒙の列伝
■ 呂蒙の列伝
呂蒙の列伝
呂蒙は規律に厳しいことで知られていましたが、成長してから勉強を始めたことも影響して、部下の進言を聞き、コミュニケーションを良く取る優れたリーダーシップを発揮しています。
呉の将軍では血気盛んな甘寧がいますが、あるとき甘寧の専属料理人がミスを犯し、殺されると思い込んで呂蒙宅に逃げ込んできました。呂蒙はこの料理人が処罰されるのは間違いないと考え、甘寧に手紙を書き、寛大な処置をするよう求めて料理人を帰します。しかし、怒ると手が付けられない甘寧は、帰宅した料理人を殺してしまいます。
さすがの呂蒙も烈火のごとく怒りますが、甘寧の力が必要であると母親や周囲に諭され、甘寧が過ちを認めるならと許しています。
自らの力を過信する甘寧は、命令違反で孫権の不評を買うこともしばしばあり、そのたびに呂蒙は甘寧を守り抜きました。甘寧は呂蒙への感謝で頭が上がらなくなり、一生涯付いて行くことを誓ったとされています。
甘寧は以降、猛将軍として曹操に立ち向かい、幾度となく孫権の命を守り抜きますが、これも呂蒙の献身さがあってのことといえます。
三国志演義での呂蒙
■ 三国志演義での呂蒙
三国志演義での呂蒙
史実では無類の強さを見せつけた呂蒙に対し、劉備(玄徳)を主人公とした三国志演義でもその知略を見せつけており、周瑜亡き後の総大将として呉を盛り立てていきます。死亡の時は関羽の呪いとして痩せ細り、血を吐きながら発狂して絶命するということになっています。