三国志・42歳の若すぎる死、呂蒙はどこまで正当な評価を受けているのか?

三国志・42歳の若すぎる死、呂蒙はどこまで正当な評価を受けているのか?

孫権軍の名将として名高い呂蒙。優れた軍略家ですが、英雄である関羽をだまし討ちにしたことで後世の人気はあまり高いものではありません。今回は呂蒙の正当な評価について触れていきます。


周瑜・魯粛の後継者、呂蒙

揚州南部に拠点を持つ孫権にとって隣接する西の荊州、北の徐州は勢力を拡大するうえで重要な領地でした。荊州の北部は曹操領、西部は劉備(玄徳)領、東部ならびに南部は孫権領と三分割されており、互いにしのぎを削っています。徐州は曹操領であり、この地を巡って揚州北部の合肥で長きに渡り曹操・曹丕と孫権は死闘を繰り広げます。
当初軍事面を統率したのは周瑜でした。稀代の天才軍略家です。実際に赤壁の戦いで曹操軍を破っています。病没後は魯粛が跡を継ぎました。独創性に富み、曹操も驚愕させる戦略を実行し、さらに兵の統率にも優れていたので孫権軍は安定しています。
呂蒙はさらにその跡を継いだのです。先任者たちがとても優秀でしたから呂蒙もプレッシャーを感じたことでしょう。

呉下の阿蒙にあらず

そんな中で呂蒙は攻めの姿勢を貫きます。魯粛は荊州を守る劉備軍の総大将・関羽と上手く折り合いをつけていました。共通の敵である曹操打倒を呼びかけ、出来る限りの友好関係を構築してきたのです。
しかし、主君である孫権の思惑は別です。魯粛では関羽を処置できないと見ていました。処置できないために友好関係を維持しているということです。
呂蒙の考えも孫権とほぼ同じだったようです。呂蒙は関羽に領土拡大の意識が強いことを見抜いていました。しかも関羽の本拠地は上流に位置しているため戦いに有利です。いずれ機を見て攻め込んでくると警戒しています。
呂蒙は魯粛が訪れたときにそう忠告し、対応策を五つ(裴松之の注釈では三つとなっています)示しています。魯粛はそれを聞いて驚きました。
「呉下の阿蒙にあらず」と感心したところ、呂蒙は「士、別れて三日、刮目してあい侍すべし」と答えたといいます。

呂蒙に課せられた使命

孫権が魯粛の後継者として呂蒙を起用したのは、関羽を倒し荊州の領地を拡大するためだったのではないでしょうか。
孫権が呂蒙に「徐州と荊州の戦線のどちらを優先すべきか」と問いかけます。
呂蒙は「徐州は攻め獲るのはたやすいが、維持が難しいでしょう。曹操軍は騎馬が使えるために十日もせずに攻め寄せます。守り切るには八万以上の兵力が必要です。やはり荊州に的を絞り、長江一帯に勢力を広げるのが得策でしょう」と答え、孫権は大いに納得しました。
こうして関羽を倒すことが呂蒙に課せられた使命となっていくのです。
当時の最強レベルを誇っていた「名将・関羽の攻略」という難事業でした。
しかし呂蒙には攻略の糸口はすでに見えていたようです。

関羽の油断を誘う戦略

やがて関羽は北伐を開始します。曹操領である樊城を攻略するために出陣するのです。もちろん隣接する孫権の勢力への警戒も怠ってはいません。兵力をしっかり分割し、公安と南郡に残しています。
呂蒙はここで策を用います。総司令官である自分が病気のために建業に戻ったという情報を関羽側に流すのです。孫権はその進言を受け入れました。これが見事に的中し、関羽は守備兵を最小限に残して、樊城攻撃に割いたのです。
関羽は快進撃を続け、曹操軍の名将・于禁を降伏させ、猛将・龐徳を討っています。
その間に呂蒙は先鋒隊を率い、兵士たちに商人の服装をさせ、関羽が設けた見張り所を通過していきます。そして南郡の士仁、麋芳を降したのです。関羽やその配下の家族はみな捕まり、捕虜となっています。

関羽軍の士気を下げる戦略

南郡を奪われた関羽は必ず引き返してきます。
呂蒙は関羽を迎え討つためにさらに策を用いました。それは捕虜を丁重にねぎらうことでした。略奪も禁止しています。呂蒙はこの命令を徹底しました。この時、呂蒙の配下の同郷出身者が違反を犯して、民家から笠を取り上げた事件が起こっています。たかが笠一つなのですが、呂蒙は軍令違反でこの男を処刑しました。全軍は震えあがり、道に落ちているものすら拾わなくなったといいます。
さらに高齢者の家には医者を派遣し、貧困者には食料や衣服を施しています。
呂蒙の慰撫作戦は成功し、関羽からの使者が来るたびに民衆は呂蒙への信頼をその使者に伝えています。それが関羽の陣営にも広まり、兵士たちの呂蒙軍への敵愾心は薄れていきました。
関羽に付き従う者の数がどんどん減り、麦城からさらに西に退却したところを関羽や関平は呂蒙軍に捕らえられてしまいます。
こうして関羽が押さえていた荊州の地を呂蒙は平定したのです。

呂蒙の死

呂蒙の死については「正史」と「三国志演義」では描写の仕方が大きく異なります。
病没したことに違いはないのですが、「三国志演義」では関羽の怨霊に祟られて、体中の穴から血をふき出して死んでいます。関羽は後世では神として崇められるほどの存在ですから、それを倒した呂蒙には相応の死に方が必要だったのでしょう。呂蒙を故意に陥れる描写であると言わざるを得ません。
「正史」では呂蒙は病に倒れ、孫権は「呂蒙の病を治した者に千金を与える」と布告します。鍼治療も受けたようです。ここから「三国志演義」の穴から血を吹き出して死ぬという話に繋がるのかもしれません。
孫権は頻繁に呂蒙の見舞いに訪れています。しかしその甲斐もなく42歳で呂蒙は生涯を閉じました。

まとめ・呂蒙の人格

呂蒙は拝領した財宝をすべて蔵に収めており、死後はすべて孫権に返却するように命じていたそうです。
孫権は武将が亡くなったり、他勢力を吸収したときには、その軍勢を呂蒙の軍に組み込もうとしました。呂蒙は亡くなった武将の功績を称え家の存続を願い出、孫権に降った軍勢についても「義においてこの軍勢を増やすことはあっても、それを奪うことはできない」と断っています。孫権はそれを聞いて考えを改めることになります。
また勝手気ままなですぐに人を殺す甘寧のことを呂蒙は嫌っていましたが、孫権に対しては「甘寧のような勇猛な士は得難い存在です」とフォローしています。何度も命令違反をして孫権を怒らせる甘寧でしたが、呂蒙のおかげもあって厚遇されています。
周瑜や魯粛に負けない軍略家であり、義を重んじる一面も持つ呂蒙。
英雄関羽を倒したことで憎まれる存在にもなってしまいましたが、その功績は絶大です。呂蒙の評価はもう少し高くてもいいのではないでしょうか。

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