はっちゃけ孫呉の象徴!?チンピラ武将・甘寧興覇

はっちゃけ孫呉の象徴!?チンピラ武将・甘寧興覇

三国志は1800年以上前の中国が舞台。ですから、現代の日本人の感覚では理解しかねる点が盛りだくさん。それを踏まえても「おい、ちょっと待て」とツッコミたくなるエピソードを数多く残しているのが、孫呉であるという印象が筆者にはあります。今回はその孫呉の中でも、1、2を争うほどのチンピラ武将・甘寧のお話をお届けします。


堅実な役人だったはずが……長過ぎたチンピラ時代

甘寧興覇(かん・ねい・こうは)は南陽郡で生まれ、。益州巴郡(現在の重慶市忠県)で育ちました。推挙によって蜀郡の会計報告係に就いているため、出自も卑しくなく、教養もそれなりにあったのだと思われます。
順風満帆のエリート街道を歩むと思われた甘寧ですが、堅実な道から突然のドロップアウト。不良仲間を集めて徒党を組み、その頭領となりました。何が彼をそうさせたのかは記録に残っていないため定かではありませんが、単にお堅い役人の仕事が肌に合わなかったと考えるのが自然でしょう。
そして遊侠(チンピラ)のヘッドになった甘寧は、仲間には羽飾りを背負わせ、片手に弓弩、腰には鈴を携え、周囲を威嚇しながら闊歩していたといいます。人に出会えば、相手がお偉いさんだろうが何だろうが歓待させ、そうしない者には手下を使って財産を奪わせるという正しいチンピラっぷり。甘寧の一味に絡まれたくない人々は、鈴の音が聞こえると蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていました。
これだけですとイキった田舎のチンピラですが、甘寧は自分の縄張りで犯罪が起こると、役人たちには無許可でこれを摘発、制裁を加えていました。自警団のような体を装うことで自分たちが検挙されることを免れていたのでしょう。無駄に(失礼)頭が回りますね。
これが後の知将の若かりし日のやんちゃ……と思いきや、甘寧はこうした生活を20年も続けていたのです!20年ですよ!?そこそこいいおっさんになる年齢になるじゃないですか!いやー甘寧、予想以上です。

敗戦がきっかけ? ようやく就職を考えた四十路

甘寧がチンピラ道から足を洗った194年、益州刺史の劉焉が没し、息子の劉璋が跡目を継いだ際、それに反対する近隣の群雄や豪族などが反乱を起こしました。甘寧は仲間に誘われるままこれに参加するも物の見事に敗戦。イキっていただけに恥ずかしくて地元にはいられなくなったのか、生まれ故郷の南陽へと逃亡します。

当時南陽を統治していた荊州の劉表は、新しい人材を求めていました。これを知ってか甘寧は、四十路に足を踏み入れてからようやく仕官しようと決意しました。そして付け焼刃の教養でインテリぶろうとしたものの、若い頃から儒学を修めていたリアルインテリの劉表の目はごまかせず、書類選考で外されてしまいます。劉表の配下には「甘寧は悪事から足を洗って真面目になった武人だ」「立ち直った人間に偏見を持つのはよろしくない」と意見する者もいました。しかし劉表は
「好き勝手やってきた人間がごく普通の人間に戻っただけで、立派だの偉いだの言うのはどうかしている。罪もないのにこやつから略奪された人々の悲惨さを考えてみろ。ずっと真面目に生きてきた人間の方が立派で偉いに決まっている」
と一蹴。これを知った甘寧は
「上等だゴルァ!どうせ劉表みてぇな腐れ儒者にゃぁ天下なんて取れねぇんだよ!テメェに使われてたらいつかとばっちり食うに決まってらぁ!こっちから願い下げだ!」
と負け惜しみを吐いて江東に移ろうとしましたが、劉表傘下の豪族・黄祖の軍勢が夏口に駐屯していたため通過できず、そのまま黄祖の食客となりました。そして黄祖も甘寧を単なるチンピラと判断して冷遇。後に孫権軍に敗れた黄祖を助け、追跡してきた敵将・凌操を討ち取るなどの手柄を立てたのですが、甘寧への待遇が変わることはありませんでした。

孫家の筆頭家老を初対面で罵倒! これを聞いた孫権は……

さすがに嫌気が差したのか、甘寧は敵対する呉の孫権に降ります。孫権と対面した際、甘寧は荊州を益州攻め落とし、曹操に対抗すべきという『天下二分の計』ともいえる戦略を提言しました。会計係に就けるほどの教養があったとはいえ、周瑜や魯粛ほどに先を見据えた策を組む能力が甘寧にあったとは考えにくく、これは恐らく自分に冷や飯を食わせ続けた劉表や黄祖に復讐したいという気持ちがあってのことでしょう。甘寧の大それた発言を危ぶんた孫呉の重臣・張昭は、
「また不安定なこの時期に出征とあらば、領内で変事が起こることが想像に難くありません」
と進言。すると甘寧、初対面の張昭に
「ジジィ、テメェの仕事は戦中に留守を守って変事を防ぐことじゃねぇのかよ?それさえできもしねえのか?孫家の最高顧問が聞いて呆れるわ!」
と反論(罵倒?)。頑固で口うるさい説教ジジィ・張昭にうんざりしていた孫権は、これを黙らせた甘寧をたいそう気に入りました。
君主の信頼を勝ち得た甘寧は、黄祖討伐に従軍したのを皮切りに次々と武功を上げ、孫呉での地位を確固たるものにしていったのです。

甘寧と呂蒙の珍騒動 料理人殺害事件

失敗をした料理人に甘寧ブチギレ!「斬ってはならん」と呂蒙に止められ……

明るい性格で頭も良く、財貨を惜しまずに後進の育成にも励んだ甘寧は、主君のみならず同僚や部下にも好かれていました。が、粗暴なチンピラ気質はそう簡単に消えるものではありません。
あるとき、甘寧宅の料理人の一人が小さな失敗をしてしまいました。怒りの沸点が極端に低い甘寧は激怒し、その首を斬ろうとしたのです。殺されてはたまったものではないと料理人は逃走。事情を知り、料理人をかわいそうに思った甘寧の上司・呂蒙に匿われました。恐らく失敗自体大したことではなかったのでしょう……。いかんせんチンピラですからね、些細なことで因縁をつけたのだと思われます。
さすがの甘寧も、上司の家に踏み込んで人殺しをすることはできません。呂蒙の母親を通して面談の場を設けてもらい、料理人の返還を呂蒙に申し出ました。
「興覇、あの程度の失敗は誰にだってある。だからそんなことで料理人を斬るんじゃない」
「わかりました。上司である子明殿の命令には背けませんからね……」
斬らないと約束して料理人を連れ帰った甘寧はその約束を守り、料理人を斬らず、桑の木に縛り付けて弓矢で射殺。
「ん?俺、斬ってないっすよ。ほら、子明殿、斬るなっていうから射ったんすよwww」
などと甘寧が言ったかどうかはわかりませんが、約束を反故にされた呂蒙は激怒。甘寧討伐の軍を興したのです。

死人が出ているとは言え、これは部下が上司の命に背いたことから起こった内輪の揉め事。それを内戦に持ち込むとは……呂蒙もなかなかにしてアレです。

内輪のケンカが内戦に発展!?焦った甘寧は……

さて、呂蒙が攻めてきたと知った甘寧は、さすがに焦りました。普段温厚で、快く自分の面倒を見てくれる上司が自分を殺さんとばかりに怒っているのですから。ここで降伏という名の謝罪をすれば良いものの、いかんせん甘寧はチンピラ。「売られたケンカは買ってやるぜ!」とばかりに(原因は自分なのですが……)自分の舟に乗り込み、討ち死にする覚悟を決めたのです。
すぐさま甘寧を攻撃しようとした呂蒙ですが、これを呂蒙の母親が止めに入りました。
「天下の大局が難しいところに来ているというのに、孫将軍の臣下であるお前は、同じく臣下である部下を、私怨で殺すというのですか?そんなことをしてしまったら、お前を取り立ててくださった孫将軍に合わせる顔がありません!」
母親思いで素直な呂蒙はこの言葉を聞いて我に返り、呂蒙の舟に乗り込んで和解を申し出ました。短気だけれどやはり素直な甘寧は、呂蒙の心遣いに感激して嗚咽、謝罪の言葉を口にしたのです。
「子明殿に借りを作っちまいましたね……」
「なんのなんの!こんなことで貴殿と俺の友情が壊れるわけないじゃないか!」
「子明殿……!」
こうして二人は呂蒙の母親の待つ邸宅に赴き、和解の宴を楽しみ、互いの友情を確かめ合ったのです……って、いい話みたいになっちゃいましたけど、尊い人命が失われていますからね!しかも短気な甘寧の気まぐれで!「こんなこと」じゃないから!!!

ちなみに、私怨を晴らさんがために軍を動かした呂蒙が罰せられたという記録は残っていません。孫呉、自由かよ!

生涯チンピラだった甘寧 そして今は

チンピラ甘寧のおもしろエピソードは枚挙にいとまがありません。とはいえ、遊侠上がりならではの潔さと威勢の良さで数々の難局を乗り切り、多数の武功を挙げたのも事実です。そして主君・孫権に「(曹操)孟徳には(張遼)文遠がいるが、わたしには興覇がいる」とまで言わしめました。
しかし、孫権の従兄弟である孫皎配下に置かれたときは、年下の孫皎に軽く扱われたことに激怒して悶着を起こすなど、チンピラ気質は相変わらずだったそうです。
没年は不明。その死去を孫権に痛惜された甘寧は、湖北省陽新県・富池の通称「呉王廟」に、水神として祀られています。関帝廟ほど広く知られてはいませんが、地元の人々を中心に信仰を集め、今でも深く愛されています。
役人の道からドロップアウトし、冷や飯を食わされ続けたかつてのチンピラが、主君に愛されて張遼と並び称されるほどの武将となり、果ては神になるなど、甘寧本人も予想できていなかったのではないでしょうか。それにしても元チンピラの神様とは、なんだか気軽に話を聞いてくださりそう。武将としての功績と人柄の良さ、はっちゃけエピソードの面白さに最大限の敬意を評しつつ、いつか必ず参拝したいものです。

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