関羽を討ち取ったことで有名な呂蒙、本当に凄かった!

関羽を討ち取ったことで有名な呂蒙、本当に凄かった!

関羽を討ち取ったことで有名な呂蒙ですが、実績がなくまぐれで関羽に勝利したわけではありません。彼の成長と実績、そして、孫権にどれだけ重用されていたのかとが分かれば幸いです。呉になくてはならない存在だった呂蒙は魅力があり三国志を彩った豪商と言っても過言ではないでしょう。


関羽を破る

関羽を破る

関羽を破る

呂蒙(りょもう)を語る上で欠かすことができないのは関羽を撃破したことです。呂蒙の晩年に当たる出来事なのですが、まずここから呂蒙の説明をしたいと思います。呂蒙は関羽の裏をついて関羽軍を投降させることに成功しました。士気を失った関羽軍は離散し、こうなったら関羽の求心力をもってしても呂蒙に対抗するべく力は残されていませんでした。さらに関羽の退路を断ち孤立させると見事関羽を討つことができました。
幸か不幸か、呂蒙が関羽を討ったことにより、劉備が激怒し、本気で呉に牙を剥いたため呂蒙の君主である孫権は急いで関羽の首を曹操に送り、曹操が関羽を討ったことにしようとしました。歴史を紐解くとこの関羽の死はあまりにも三国志に与えた影響が強く、呂蒙が歴史を動かしたと言ってもいいくらいでしょう。
そして皮肉なことに関羽を討った呂蒙はすぐに病死してしまいますが、それが関羽が呪い殺したと言われたくらいです。

孫権の寵愛を受けた呂蒙

孫権の寵愛を受けた呂蒙

孫権の寵愛を受けた呂蒙

もしかしたら孫権から一番寵愛を受けた武将は呂蒙ではないかと思っています。軍師として孔明のライバルとも言われた周瑜はどちらかと言えば兄の親友で部下というより先輩色が強い感じがします。そのため自分の方が立場上は上だけどあまり意見するのは億劫だったことでしょう。しかし呂蒙は何の混じりけなしに話せる中でかわいい部下という感じでした。
孫権が呂蒙を大事にしていたことが伺えるエピソードがあります。それは「呂蒙の死に際に呂蒙の病気を治したものに千金を与える」と言ったのです。さらに病床に付き添って呂蒙の看病をしたともいわれています。
しかし呂蒙はそこで無くなってしまう訳ですが、彼の死に音曲を禁じて喪に服したと言われています。
私が知る限りここまで手厚く施したのは呂蒙位なのではないかと思っています。
想像するにキングダムに置き換えると秦の王である政と主人公信の間柄に近いものがあるのではないかと思っています。

貧しい身からの出世

貧しい身からの出世

貧しい身からの出世

三国志好きの中でも呂蒙が好きという人は少なくありません。その理由として挙げられる一番の理由が貧しい身からの出世を果たした数少ない武将だったからではないでしょうか。
彼は姉の夫、鄧当(とうとう)が孫策の武将だったのですが、実はそのコネだけで出世したわけではありません。15・16の時鄧当の軍にこっそりついていったがばれて叱られました。それでも呂蒙は「貧しさを抜け出す為には危険を冒さなければいけない」と反論しました。その精神が根幹にあり、激戦地でも何とか踏ん張り君主の信頼を勝ち取ることができたのではないでしょうか。鄧当の死後、呂蒙がその任務を引き継ぎ、さらに隊を大きくすることに成功しました。

実は手に負えない短気だった?

実は手に負えない短気だった?

実は手に負えない短気だった?

上記を見ると貧しいけど健気に頑張り、品行方正か?と思われる呂蒙ですが、実は真逆です。鄧当に仕えていた役人の中に呂蒙を馬鹿にするものがいました。呂蒙は怒った挙句、なんとその役人を斬ってしまったのです。一度は逃亡した呂蒙でしたが、結局は自首しました。しかし、その事件は孫策の耳に届き、なんと孫策自ら呂蒙に面会を求めたのです。
そこで感じたものがあったのでしょう、孫策は呂蒙の非凡さを見抜き、重用することにしたのです。
後々の呂蒙の功績を見ると孫策の目の付け所の凄さが伺えます。
一件サクセスストーリーを歩んでいるかのように見える呂蒙ですが、物語の主人公となりえない理由としてこのような事件があったからではないでしょうか。

呉下の阿蒙(ごかのあもう)

呉下の阿蒙(ごかのあもう)

呉下の阿蒙(ごかのあもう)

呂蒙を語る上で欠かせないのが呉下の阿蒙です。
武術に優れていた呂蒙ですが、学問はからきしダメでした。しかし、孫権に「上に立つものなのだから学問位人並程度にできるようになりなさい」と言われてしまいました。
一度は忙しいからと断る呂蒙ですが、孫権に言い負かされて学問を学ぶことにしました。
そしてある時魯粛(ろしゅく)が呂蒙の元へ訪れた時のことです。呂蒙の受け答えに度肝を抜かされた魯粛は「呉下の阿蒙にあらず」=呉の街にいた蒙ちゃんじゃなくなったんだね、とその成長ぶりを称しました。
すると呂蒙は「士別れて三日、即ち更に括目して相侍すべし」=(日々鍛錬している人というのは三日も合わなければ見違えるほど変わっている。だから新しい者としてみるべきだ)とクールに返してしまうほど成長してしまっていたのです。
このことから逆に、進歩の無い人間のことを「呉下の阿蒙」と呼ぶようになりました。

呂蒙がここまで成長できた理由

呂蒙がここまで成長できた理由

呂蒙がここまで成長できた理由

さて上記に「呉下の阿蒙」というのを挙げましたが、実際呂蒙はどれほど学問に精通したのかと言所に疑問が残りませんか?
これは誇張もある程度含まれていることでしょうが、学者に勝るとも劣らない学問を身に着けたと言われています。
これがどの程度信憑性があるかは分かりませんが、周瑜や魯粛に進言することができるくらいに成長したということは呂蒙の頭脳は相当なものだったのかというのが伺えます。
周瑜は孔明ほどトップダウン気質はなく、進言などを受け入れる性質がありました。それゆえしたが育つという土壌があったのではないでしょうか。
逆を言うと呂蒙がもし蜀の将軍であったとしたならただの力がある武将止まりであったのではないかと思います。
更に孫策・孫権を魅了する人柄というのが呂蒙の最大の武器だと思います。

まとめ

まとめ

まとめ

呂蒙について少しはお分かりになっていただけたでしょうか。
ほぼ0からのスタートで姉の夫が孫策の武将というアドバンテージがあったにせよ、彼でなければここまで成長することが無かったということが伺えたのではないでしょうか。
学問にもはげみ、やる気次第では大きく成長することができるということを示してくれた呂蒙に人気が集まるのも頷けます。
三国志で絶大な人気を誇る関羽をいわばだまし討ちのような形で討ち取った呂蒙ですが、彼がそこまで嫌われていない理由としてそういうことが挙げられるのではないでしょうか。
「呉下の阿蒙」、「士別れて三日、即ち更に括目して相侍すべし」なんて言うのをさらっていえたら三国志通なんじゃないか?と思われること間違いなしです。
二人の君主、孫策・孫権を魅了した呂蒙が関羽を討ったことによって三国志全体の動きを作ったと言っても過言ではないことを知っていただけたら幸いです!


この記事の三国志ライター

関連するキーワード


呂蒙 関羽

関連する投稿


【武将考察】呂蒙、呉下の阿蒙にあらず―荊州奪還戦

【武将考察】シリーズの第4回目は、荊州奪還戦と呂蒙をとりあげます。赤壁の戦い直後から荊州は、曹操、孫権、劉備(玄徳)の三勢力(三国)の境に接する紛争地帯となります。今回は、視点を孫呉におき、荊州奪還における呂蒙の活躍とその人柄、主君である孫権からの評価や関羽の呪いと言われる死の所以についてまとめてみたいと思います。


呉の忠臣・呂蒙が悪役扱いされるのはなぜ?

以前のコラムにも書きましたが、『三国志演義』は読者の意識を蜀に向けるため、対立勢力である魏と呉を悪役に仕立てています。今でこそ孫呉好きを自称する筆者ですが、昔は孫呉、中でも呂蒙が大嫌いでした。理由はもちろん『演義』から派生した創作物の影響。民間伝承などでも卑劣な悪役として描かれがちな呂蒙の人物像についてまとめました。


はっちゃけ孫呉の象徴!?チンピラ武将・甘寧興覇

三国志は1800年以上前の中国が舞台。ですから、現代の日本人の感覚では理解しかねる点が盛りだくさん。それを踏まえても「おい、ちょっと待て」とツッコミたくなるエピソードを数多く残しているのが、孫呉であるという印象が筆者にはあります。今回はその孫呉の中でも、1、2を争うほどのチンピラ武将・甘寧のお話をお届けします。


三国志・42歳の若すぎる死、呂蒙はどこまで正当な評価を受けているのか?

孫権軍の名将として名高い呂蒙。優れた軍略家ですが、英雄である関羽をだまし討ちにしたことで後世の人気はあまり高いものではありません。今回は呂蒙の正当な評価について触れていきます。


呂蒙子明の死因は呪い?関羽雲長を討ち取った事で知られる武将の最期

皆さんは呪いって信じますか?おそらく多くの人は信じないでしょう。信じたくないというのが本音かもしれません。三国志の中で名将と言われる関羽雲長を討ち取った事で知られる呂蒙子明。彼の最後は悲劇的にも謎の病死と言われています。果たして実際はどうなのか、その謎に迫ります。


最新の投稿


呂布の強さ

三国時代の中国(220-280年)、呂布(Lu Bu、呂布奉先)は、抜群の強さ誇った武将です。 その武勇は当時の他の武将たちからも一目置かれるほどで、剣術、槍術、弓術など多くの武術に優れ、戦場での一騎当千の活躍が度々伝えられています。 そんな、呂布の強さについて紹介します。


三国志 とは、三国志の魅力

三国志の魅力は、時代に翻弄された英雄たちの 熱い志、儚き夢、数多くのエピソードにあります。 魏、呉、蜀、中国の三国時代は、日本人にも語り継がれた、愛と友情と忠義の物語が多く散りばめられているのです。


三国時代の蹴鞠(けまり / しゅうきく/サッカー)って?

映画「レッドクリフ」で、蹴鞠(けまり / しゅうきく/サッカー)シーンからはじまり、目が釘付けになりました。 そんな三国時代の蹴鞠(けまり / しゅうきく/サッカー)は、本当に? いつから中国古代で存在していたのでしょう?


「呉下の阿蒙」にあらず。士別れて三日なれば 刮目して 相 待 すべし

「呉下の阿蒙」とは、いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉です。 同義語に旧態依然などがあげられますが、基本的には悪い意味合いで使われています。みなさんは、本内容を読んだ後は、ぜひ、後ろに「~にあらず」を付け加え、よく進歩する人という意味に変え、褒め言葉として利用しましょうね。


死せる孔明生ける仲達を走らす

三国時代、諸葛亮 孔明 率いるの蜀と司馬懿 仲達 率いる魏が五丈原で対陣している最中、諸葛亮 孔明が病に伏す。 そして遂にその時がやってきた。 孔明が陣中にて没したのである。 これを見た司馬懿は総攻撃に転じるが・・・


アクセスランキング


>>総合人気ランキング