貧家から台頭した非凡の才
■ 貧家から台頭した非凡の才
貧家から台頭した非凡の才
呉の孫策、孫権に仕えた呂蒙子明(りょ・もう・しめい)は汝南郡富陂県、現在の安徽省阜南県の出身で、貧しい身分から台頭してきた人です。
血の気が多い性格で、15~16歳の頃、賊討伐のために姉の夫であった孫策の武将・鄧当(とうとう)が出兵した際、こっそりとその軍について行ったことがありました。鄧当は呂蒙の姿を見つけて叱ったものの、呂蒙は家に帰ろうとしません。鄧当からその話を聞いた呂蒙の母親もまた、我が子の危うい行動を叱りました。しかし呂蒙は「危険を覚悟してでも手柄を立てることができれば、今の貧しい境遇から抜け出せるかもしれません。『虎穴に入らずんば虎子を得ず』というではありませんか」と返答。まだ少年である息子の覚悟を哀れんだ母は、それ以上は何も言わなくなったのだそうです。
当時、年端も行かぬ呂蒙を度々侮辱する役人がいました。堪りかねた呂蒙はその役人を切り捨てて逃亡しましたが、その後校尉を頼って自首。この件の経緯を耳にした孫策は呂蒙に面会を求めるや、その非凡さを見抜き、側近に取り立てました。
孫策の死後、跡を継いだ弟の孫権は、軍の統廃合を考えるようになりました。すると呂蒙は借金をしてまで部下たちの装備を改め、閲兵式に臨んだのです。見事に整えられ、また訓練の行き届いた呂蒙の軍を、孫権は高評価。それによって他の部隊を呂蒙の軍に統合、ますます強化されていったのだとか。血気盛んなだけでなく、このように機転の利く一面も持ち合わせていたのです。
士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし
■ 士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし
士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし
さて、その精鋭部隊を率いて軍功をあげ、軍部の重要な地位についた呂蒙ですが、貧家の出であるために学問を修めていませんでした。それを気にかけた孫権が、呂蒙とその同僚である蒋欽に、学問を通じて視野を広げることを勧めたのです。以前のコラムからその内容を引用しますね。
呂蒙を案じた孫権は「これからは学問にも励むべきだ」とアドバイスをしました。
(中略)
一度は逃げ口上を張った呂蒙ですが、主君から熱心に諭されたことで一念発起。猛勉強を始めて儒学者顔負けの知識と教養を身につけたのです。
この成長ぶりを知った軍師・魯粛(ろしゅく)が「呉下の阿蒙に非ず」と評しました。「阿」とは日本語で言う「~ちゃん」、「呉にいる蒙ちゃん」といった、ちょっと馬鹿にしたニュアンスの言葉です。つまり、「あのころの無学な貴殿ではない」と感服したわけです。
「呉下の阿蒙に非ず」と魯粛に評された呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし(志のある者は3日も経てば見違えるほど成長しているかもしれないのだから、認識を改めて会うべき)」と切り返しました。これが「刮目」の語源となるエピソードです。
孫権は、呂蒙の地頭の良さと素直な性格を見越していたからこそ、熱心に説得したのかもしれませんね。
魯粛の死後、対蜀強硬姿勢を主張
■ 魯粛の死後、対蜀強硬姿勢を主張
魯粛の死後、対蜀強硬姿勢を主張
217年に魯粛が病没後、孫権に頼られるようになった呂蒙は、蜀に貸したままになっている荊州を奪還すべく、関羽を倒すべきだという強硬路線を主張しました。強大すぎる魏に対抗するために劉備との同盟を重視していた魯粛が生きていたら、恐らく否定したでしょう。魯粛は、劉備(玄徳)を倒して溜飲を下げたところで、呉に対する魏の力の比率が大きくなるだけだと考えていたからです。しかし、劉備(玄徳)陣営との架け橋になっていた魯粛は既におらず、荊州奪還を望んでいた孫権は、呂蒙の意見を採用。劉備(玄徳)との同盟関係を破棄し、曹操との同盟関係を結びます(表面上は孫権の降伏)。その間も呂蒙は関羽への敵意をひた隠しにして、友好関係を築いていました。
219年、関羽は劉備(玄徳)の漢中政略に呼応、曹操の領内にある樊城を攻めていました。関羽とて名将です、呂蒙に対する警戒心を怠っていたわけではありません。そこで呂蒙は病気の療養を名目に前線を退き、当時無名の若者であった陸遜を後任に立てました。慢心した関羽は、陸遜のへりくだった態度に油断してしまい、呉への備えにしていた兵を全て、樊城での戦いに投入してしまいます。呂蒙はこの機を見計らって荊州に侵攻しました。関羽が地元の名士たちと折り合いが悪かったこともあり、荊州はあっけなく陥落してしまいます。
城を占領した呂蒙は、関羽軍の将兵をすべて捉えはしたものの、その家族は保護。家宅への押し入りや略奪を軍令で固く禁じ、笠ひとつ奪った兵士さえも罰しました。厚遇を受けた住民たちは、呂蒙を侵略者ではなく良き為政者として捉え、呉による統治を受け入れ始めたのです。
家族の無事を知った関羽軍の兵士は、呉に対する敵意を失い次々に逃亡。同盟相手と思っていた呂蒙と曹操軍の挟み撃ちにあった関羽は慌てて荊州に引き返しますが、奪い返せる状況ではありません。麦城に逃げ込むも捉えられ、斬首されてしまいます。
このように、呂蒙の活躍によって、孫権は念願の荊州奪還を叶えることができたのでした。
大功をあげるも病魔に襲われ……
■ 大功をあげるも病魔に襲われ……
大功をあげるも病魔に襲われ……
しかし荊州平定からほどなくして、元々病気がちだったという呂蒙は、病床に伏してしまいます。周瑜、魯粛と、兄の代から孫呉に仕え、自分を支えてくれた側近が若くしてなくなっていたこともあり、孫権は呂蒙を大いに憂いました。自分が見舞っては呂蒙が気を使うのではないかと考え、壁に穴を開け、気づかれぬようこっそりと覗くだけにとどめた孫権。一方では千金を投じて良医を募ったり、道士に延命を願わせるなどして、呂蒙の容態に一喜一憂したといいます。しかし、孫権の願いもむなしく、219年末、呂蒙は42歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。
呂蒙は生前に受けた下賜品をすべて保管しており、死後はそれを返上すること、また、葬儀は質素に済ませることを遺言してありました。常に自らの研鑽を怠らず、呉に心を尽くし続けた臣下の逝去を、孫権は深く悼んだといいます。
謙虚な智将がなぜ卑劣な人物扱いなの?
■ 謙虚な智将がなぜ卑劣な人物扱いなの?
謙虚な智将がなぜ卑劣な人物扱いなの?
かくして、呂蒙という人がいかに謙虚な智将であったかがおわかりいただけたかと思いますが、『三国志演義』やそこから派生した作品では、あまり良い扱いを受けていません。『演義』では、関羽を討ち取ったあとの宴で、呂蒙は関羽の亡霊に取り憑かれ、孫権を罵倒した直後に全身から血を噴き出して死ぬという壮絶さ。NHKの『人形劇三国志』では荊州の住民を虐殺し、やむなく投降してきた関羽を騙し討ちするという卑劣っぷり(筆者はこの影響で長らく呂蒙を嫌っていました……)。
これは『演義』が成立した明代にはすでに関羽が神格化されており、信仰の対象になっていたことが影響しているのだと思われます。神を殺した者が呪われて死ぬというのはストーリーとしても受け入れられやすいでしょうし、討伐直後に亡くなったという事実も「呪われたのでは」と憶測されてもおかしくないように思えます。完全にもらい事故のようで気の毒に感じますが、時代背景や宗教観が反映された描写が『演義』の魅力のひとつであるとも言えますね。でも長年嫌っていて呂蒙さんごめんなさい。
三国志歴30数年ですが、訳あって初心者のフリーライターです。ぶっ飛んだエピソードの多い孫呉好き。でも本当は曹魏も蜀漢も好き。