プロフィール
■ プロフィール
プロフィール
【姓】 周(しゅう)
【名】 瑜(ゆ)
【字】 公瑾(こうきん)
【渾名】 美周郎
【生年】 熹平4年(西暦:175年)
【没年】 建安15年(西暦:210年)
【出身地】 揚州廬江郡舒県(現:安徽省舒城県)
周瑜は後漢末期、小覇王孫策とともに極貧弱小勢力から三国鼎立の一国になる呉の礎を築き、孫策亡きあとはその弟であり呉初代皇帝孫堅に仕えた武将です。ちなみに邪馬台国の女王卑弥呼と同じ年に生まれています。
長身で大丈夫な身体、肌の色は白く眉目際立つ面立ち。こんな色男を世の女性たちがそうやすやすと見逃すはずもなく「美周郎」の異名を持ち、女子の黄色い声援を浴び続けました。現代で例えるとジャニーズの男性アイドルのような扱いを受けていたそうです。
また、容姿が優れているだけでなく、詩を読ませれば風情があり、剣を持たせれば勇ましい。絶対音感の持ち主で琴や笛の演奏もできる芸達者でありました。政治、学問、外交、軍事、音楽と多方面で非凡な才能を発揮した憎たらしいほどのスーパーマンです。
名門周家のお坊ちゃん
■ 名門周家のお坊ちゃん
名門周家のお坊ちゃん
周瑜のご先祖様の周栄は、漢の朝廷で尚書令を務めた政治家です。周瑜のお祖父さんも太守を務め、その大叔父(お祖父さんの兄弟)は豫洲刺史、太守を歴任。叔父、従兄弟は三公のひとつ大尉(日本では防衛大臣)を務める政治家・役人です。また、周瑜の父親は洛陽県令(日本では東京都知事)を務めていたので、四世三公を輩出した袁紹の袁家と肩を並べる名門のお家柄です。
あだ名になっている「美周郎」の「郎」には、貴公子という意味があります。つまりあだ名が意味していることは「美しい周家の貴公子」ということになります。
朝廷の重職に就くことも夢じゃなかった
■ 朝廷の重職に就くことも夢じゃなかった
朝廷の重職に就くことも夢じゃなかった
先ほど記述したとおり、周瑜は順当に人生を歩んでいたら最低でも県令(日本の県知事)クラスの職に就くことができました。また、彼は一族の中でも抜きんでた才能を有していたので、漢朝廷の方からヘッドハンティングをされたかも知れません。しかし、周瑜はお祖父さんや父親をはじめとする名門周一族が築いたレールとは別のルートで世に台頭しました。
若い周瑜をそうさせた大きな理由は、後に主君として仕える”孫策との出会い”とよき同僚であり自分の後継者に選抜した”魯粛との出会い”です。
呉志の周瑜伝では、袁術が自分の配下に周瑜を加えたかったため、周瑜と家族ぐるみで親交があった孫策が父親の死んだ後にも庇護を受けることが出来たとあります。
袁術のことですから、孫堅が亡くなった後は口減らしのために孫策、孫権とその家族を不遇に処したいと考えたはずです。しかし、それをしたくてもできなかったのは、周瑜がいたからだと言っても過言ではありません。
親友の主君、親友の同僚、最愛の妻との出会い
■ 親友の主君、親友の同僚、最愛の妻との出会い
親友の主君、親友の同僚、最愛の妻との出会い
孫策との出会い
■ 孫策との出会い
孫策との出会い
孫策の父親の孫堅が反董卓連合に加盟して挙兵したのに際して、孫策は母親と弟たちを連れて舒に引っ越しをしました。
孫策と周瑜は舒の地で出会いました。年齢が同じこともあって、二人はいつしか親友。親友から義兄弟となり、その堅固たる仲は「断金」と言われるほど有名です。
周瑜は自分の所持する屋敷を孫策の一家に譲って、孫策の母である呉夫人には自分の母親に接するように跪いて挨拶をし、弟の孫権らは自分の弟であるかのように可愛がったそうです。
孫策も周瑜の両親のことを自分の親と同等に敬っていたそうです。
興平元年(西暦:194年)、袁術の配下で武勇を奮っていた孫策は劉繇を攻略するため江東へ出陣しました。そのころ、周瑜は親戚の叔父さんが丹陽太守に任命されていたので、ご機嫌伺いのために丹陽を訪れていました。
その周瑜に孫策から「劉繇を攻略するために江東へ行こう」と勧誘の手紙が来たため、私兵を連れて孫策のもとに駆け付けました。
それから周瑜は遠征に遠征を重ね、横江→当利→秣陵を次々と攻略していき、劉繇を敗走するに至らしめました。
そのあと、呉軍の兵力は何倍にも膨れ上がり、孫策は自力で呉と会稽を攻略できるはずと算段を踏み、周瑜には丹陽の守備を任せました。
魯粛との出会い
■ 魯粛との出会い
魯粛との出会い
袁術は丹陽太守を務める周尚(周瑜の叔父)のもとに使者を送り、周瑜ともども寿春に召し出しました。袁術は周瑜を配下に迎えようとしましたが、袁術の無道な行いに呆れていた周瑜が見切りをつけ、居巣県の長になることを申し出ました。袁術がしぶしぶそれを了承したので、袁術から離反し、やがて呉に帰順しました。その間に、魯粛と親交を結び、一緒に呉へ亡命し、孫策に魯粛を登用するように要求しています。
呉に帰順した周瑜を孫策は歓迎、魯粛の登用を快諾しました。それから周瑜には建威中郎将に任命、兵士2000人と騎馬50騎を与えたました。さらに軍楽隊や住居を与えるなどその待遇は異例中の異例であったらいです。
するとこの待遇に不満を持つ家臣たちも現れましたが、孫策が「かつて俺は丹陽にて公瑾に恩を受けた。それに報いるためには、これだけでは返しきれない」と述べて家臣たちを諌めたとされています。
小喬との出会い
■ 小喬との出会い
小喬との出会い
当時24歳だった周瑜ことを呉の人々は「周郎」と呼び称えていました。
廬江郡で高い評判をされたことを買われて、牛渚の守護職、春穀県長を歴任しました。その後、孫策は荊州への勢力拡大を考えるようになり、周瑜を中護軍に任命して江夏太守の職務を執らせ、荊州攻略に踏切ました。
揚州北部の皖を陥落させた時、そこを守備する喬公の2人の娘を捕虜としました。2人の名は大喬と小喬。言わずと知れた傾国の美女です。孫策が姉の大喬を周瑜は妹の小喬を妻に迎えました。
孫策と周瑜は義兄弟の契りを交わしていたが、妻となった大喬と小喬が実の姉妹だったことから姻戚関係でも兄弟ということになりました。
実は二喬と孫策、周瑜の出会いに関するエピソードはいくつかあり、孫策が嫁争奪戦なる戦争起こして戦利品にした。周瑜がもともと結婚に乗り気ではなかったが孫策が無理矢理結婚させた。周瑜が小喬に惚れてしまい、二人の家に孫策を連れて行ったとするものや面食いの小喬が周瑜にお題を出してそれを解いたから結婚したとするものまであります。
まとめ
■ まとめ
まとめ
周瑜の出自と彼の運命を左右した人との出会いについて綴らせてもらいました。最愛の妻である小喬との出会いについては寓話や講談、演劇によって内容が違っています。一番信じてよいとする正史三国志には残念ながら二喬との出会いについては触れられていません。それに対し、孫策や魯粛との出会いについては、呉志や後漢書にも記述が残されているのでほぼ間違いないと信じてよいでしょう。
もしかすると就職するにあたって「親の敷いたレールになんか乗れるかっ!!」という親子喧嘩があったのかも知れません。名門の出でありながら親友と生死をともにするような人ですから、ただのイケメンではなく任侠の人であったようです。