どこが地味!?強烈な個性の持ち主・孫権仲謀と、そのリーダーシップ

どこが地味!?強烈な個性の持ち主・孫権仲謀と、そのリーダーシップ

「魏の曹操や蜀の劉備と比べて、呉の孫権ってなんだか地味」……三国志に触れていて、そんな印象はありませんか?今回はにわか孫権ファンの筆者が、地味と思われかねない理由と、実はちっとも地味じゃない孫権の素顔について調べてまいりました!


魏の曹操、蜀の劉備(玄徳)……あと誰だっけ?

三国志とは、西暦180年ごろから280年ごろ、中国の後漢末期から三国時代にかけて、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が群雄割拠していたころの歴史書、及びそれを元にした歴史小説のことです。
物語の中心に据えられている人物として、中原の覇者・魏の曹操孟徳(そうそうもうとく)、桃園三兄弟の長兄にして人徳に厚い蜀の劉備(玄徳)のふたりが挙げられると思います。そして三国のうちのもうひとつ、呉の孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)なのですが、どうしても地味な印象が拭えないようです。

10数年前、筆者は職場で出会った中国からの留学生の方々に「孫権?誰それ?」「その人、日本に来てから初めて知った。日本人、三国志好き過ぎじゃない?」とそれぞれ言われたことがあります。これは大ヒットした中国ドラマ『三國 Three Kingdoms』が放映される以前の話ですので、現在ではまた状況が違うかもしれませんが……。

呉の孫権はどうして地味な人扱いされるの?

それにしても、なぜ孫権は地味という印象を持たれがちなのでしょうか?

まずは『三国志演義』の演出により、呉の目立った功績やエピソードが蜀の武将のものとされていることがあるでしょう。

有名なのは、劉備(玄徳)の義兄弟・関羽雲長(かんううんちょう)のデビュー戦とも言える汜水関(しすいかん)の戦い。誰も倒せなかった敵将・華雄(かゆう)を、まだ一介の足軽に過ぎなかった関羽が一撃にて討ち取る演義の名シーンがあります。
ところが華雄、史実では孫権の父・孫堅文台(そんけんぶんだい)の軍との戦いで戦死したとの記述しかないのです。

もうひとつ有名なのは、建安17年に孫権が曹操軍の偵察に出向いた際の話。曹操軍に見つかってしまった孫権軍の船は、片舷を大量の矢で射られてしまいました。その重さで船が傾いてしまったのですぐさま180°回頭、もう片舷にも矢を受け、転覆を免れたという記述が『正史三国志』の註釈に見られます。
これを元に、赤壁の戦いで、孫権の部下である呉の大都督・周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)から、「十万本の矢を早々に集めて欲しい」という無理難題を投げかけられた蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が、藁を積んだ船で曹操軍に夜襲をかけ、藁に放たれた矢を回収し、見事十万本の矢を集めたという『演義』の創作ができ、それにすり替えられてしまいました。

父・孫堅の武勇は関羽のものに、孫権本人の機転は諸葛亮のものになってしまい、呉自体の出番が減ってしまったのです。

次に、勇猛果敢な父・孫権と、短命ながらも父を彷彿とさせる兄・孫策伯符(そんさくはくふ)と比べられてしまう点が挙げられます。
武勇に長けた父兄に対して、内政中心の君主という描かれ方をする孫権。兄・孫策が今際の際で「兵を率いて戦に出向き、天下を取ろうとの争うようなことは、お前は俺のようにはできないが、才能ある者を用いて江東を守っていくことなら、お前のは俺よりも向いている」と評し、弟である孫権に後事を託したシーンもまた、個人的武勇がさほどではないという印象を与えているのかもしれません。しかし魏の猛将・張遼(ちょうりょう)は「騎射の腕前が立つ、長身・碧眼の将」と評していました。それを踏まえると、父や兄より著しく劣っていたわけではないと思われます。

また、曹操や劉備(玄徳)は父である孫堅と同世代で、彼らよりずいぶんと若かったことも、孫権の迫力を弱めたひとつの要因だったかもしれません。

リーダーとしての孫権はここがすごい!

実力があれば経歴や家柄がどうあれ重用した合理主義の曹操、得により人心を得て部下を動かした包容力のある劉備(玄徳)に対して、孫権はリーダーとしての印象もいささか薄い気がします。これは孫権自身の性格にも原因があったようです。兄の孫策が残した前述の言葉のように、攻めよりも守りが得意なタイプだったのですね。
とはいえ凡庸なリーダーなのだとしたら、乱世を生き残れなかったはず。では、リーダーとしての孫権はどのように優れていたのでしょうか?

「上善は水の如し」の外交戦術

まずは柔軟な外交戦術です。江東の領土を守るために、彼は過去のしがらみにとらわれたり己の面子にこだわったりせず、その時々で一番有効と思われる手段を選び、駆使していきました。

兄から実権を受け継いだ8年後の西暦208年、曹操が率いる80万の大軍に攻め入られ、孫権は君主として初めてのピンチに見舞われました。そのときは劉備(玄徳)と手を組み、自らのわずか3万の水軍で迎撃、奇跡的な勝利を収めました。いわゆる赤壁の戦いです。
217年、劉備(玄徳)との同盟に旨みを感じられなくなった孫権は、今度は曹操と手を組みます。219年に劉備(玄徳)の腹心である関羽を討ったため、劉備(玄徳)とは完全に決裂。曹操の死後は息子の曹丕に従い、劉備(玄徳)軍を迎え撃っています。そして劉備(玄徳)が死去して諸葛亮が実権を握ると、彼の申し入れを孫権が受け入れるかたちで国交を回復。蜀と同盟して魏に対抗しました。

古代中国の哲学者・老子が残した言葉に、「上善は水の如し」というものがあります。器次第で形を変えられる柔軟さを持ち、強く主張せず、低いところに留まろうとする謙虚な心を失わない水のような生き方こそが、時として岩をも打ち砕くのだという教えです。孫権の姿はまさにこれ。変転の極みとも言える外交ですが、固定観念に縛られない姿勢こそが、呉が三国抗争の中で最も長く命脈を保てた秘訣かもしれません。

「その長ずる所を尊び、短なる所を忘る」人材育成

外交戦術と同じぐらい優れていたのは部下の育成力です。
孫権は人材を集めるだけでなく、その育成に熱心な君主でした。「その長ずる所を貴び、その短なる所を忘る」―こちらも老子の言葉ですが、孫権はこれを愛し、人材育成のモットーとしていたようです。部下の短所には目をつぶり、長所を発揮できるように育てるという意味で、それができていた証拠として、彼の幕下からは優秀な人材が多数輩出されました。

孫権の人材育成についての代表例が、呂蒙(りょもう)のケースです。
孫策の代から呉に使え、戦においてはどんな難局も乗り切り戦功を上げていた呂蒙ですが、実は貧しい出自。経済的な理由から学問を修めることができなかったのです。
一兵卒の身であればそれでも良かったのでしょう。しかし大将ともなれば、軍を率いるためには戦略戦術などの教養も必要です。呂蒙を案じた孫権は「これからは学問にも励むべきだ」とアドバイスをしました。これに呂蒙は
「お言葉ですが我が君、軍務が忙しくてそんな暇はありません」
と反論。すると孫権、
「いやいや、主君であるわしはそなたより忙しいけど、勉強する時間は作れるぞ。何も学者になれって話じゃない。そなたにはたくさんのことを知ってもらいたいし、それが役に立つときが必ず訪れる。だから是非これらの本を読んで学んで欲しい」
と、おすすめの歴史書と兵法書をピックアップし、呂蒙に伝えました。
一度は逃げ口上を張った呂蒙ですが、主君から熱心に諭されたことで一念発起。猛勉強を始めて儒学者顔負けの知識と教養を身につけたのです。
この成長ぶりを知った軍師・魯粛(ろしゅく)が「呉下の阿蒙に非ず」と評しました。「阿」とは日本語で言う「~ちゃん」、「呉にいる蒙ちゃん」といった、ちょっと馬鹿にしたニュアンスの言葉です。つまり、「あのころの無学な貴殿ではない」と感服したわけです。

このエピソードは、リーダーとしての孫権が、いかに部下へ目を配り心を砕き、その成長を親身になって手を貸したかがうかがい知れる例ですね。こんな上司がいたら、筆者も勉強頑張っちゃうかもなあ……。

プライベートも地味じゃない!やんちゃ君主・孫権伝説

さて、普段は謙虚で物腰が柔らかく部下思い、朗らかで度量も広かったという孫権ですが、実はなかなかやんちゃでぶっ飛んだ性格の持ち主。「え?どこが地味なの?」と問いただしたくなるエピソードも数々残しているのです。

酒の席での大失態!怒りに任せて剣を抜き……?


まず挙げられるのは大変な酒豪かつ酒乱ぶり!事あるごとに宴会を開き、酔い潰れた部下に水をぶっ掛けて叩き起し、吐くまで飲ませたというのですからとんでもないヤローです。

孫権の酒癖を嫌った部下の一人・虞翻(ぐほん)は、酔っ払った演技をしてその場をやりすごしていました。ところが孫権が前を通り過ぎると、虞翻は何事もなかったかのように居住まいを正したものですから孫権激怒。
「てめぇ!!!!!俺の酌が受けられねえのか!!!!!」
剣を抜き取り虞翻を斬り捨てようとしたところ、大臣の劉基(りゅうき)が必死に諭してどうにか止めました。
酔いが醒めてからこの出来事を思い出し、孫権真っ青。
「劉基が止めてくれなかったら、酒の勢いで部下を殺してしまうところだった……」
大いに悔いて「今後酒宴の席で自分が下した命令は全て無効」との触れを下したのだそうです。

別の宴席では若き軍師・陸遜(りくそん)と共に舞を踊り、自分が着ていた衣服を脱いで彼に贈ったという微笑ましいエピソードも残しているのに……。
君主ゆえの重圧もあってそのストレスが酔い方に出てしまったのかもしれませんが、愉快な酒飲みとは言い難いところです。でも素直に反省するところはちょっと可愛い(笑)

虎狩りで危機一髪!重心に注意されて反省した孫権は……。

また、護衛を伴わず戦乱の激しい地域に駐屯したり、虎狩りを好むなどの向う見ずな側面があったため、度々危険に晒されていたようです。

馬で移動中のある日、孫権が乗る馬の鞍に虎が飛びかかって来たことがありました。虎狩りが大好きな孫権は、逃げるどころか大喜びで反撃。最終的に部下が虎を仕留めたために大事にはいたりませんでしたが、これを知った重臣・張昭、
「配下の人間を働かせるのが君主の役目であって、野原を駆けて虎と戦うものではありません!不慮の事故が起こったらどうされるつもりですか!」
と孫権を諌めました。
「そうか、申し訳ない。もう野原を駆けるのはやめよう」
と反省した孫権、装甲車を作ってそこから虎を射るようになりま……って、張昭さんが言いたかったのはそういうことじゃないんじゃないかな?わかっているのかわかっていないのか……。
もちろんこれも張昭に諫められましたが、笑うばかりで全く反省の色がなかった模様です。

孫権のはっちゃけ伝説は、それで1本コラムが書けるほど沢山ありまして、今回どれについて書こうか迷ったほどです。興味のある方は調べてみてください。
これらが『三国志演義』から省かれたために、「とんでもない君主だ」という評価を避けることができた可能性があると考えると、孫権、優遇されていたのかもしれません(笑)

孫呉に視点を置くことで見えてくる、新しい三国志の世界。

いかがでしたか?孫権がちっとも地味ではないことが、お読みくださった皆様に少しでも伝わりましたでしょうか?
実は筆者、孫権の印象を薄いと感じていたどころか、大好きな武将・関羽を討ったからというとても子どもじみた理由で、若いころは大嫌いだったのです。しかし齢を重ね、社会経験を積んでから改めて『三国志』関連の本を読み直し、君主としての孫権像、人間としての孫権像を知るにつれ敬意と親しみ、興味が湧き、孫権が大好きになりました。
昨今は呉及び孫権にスポットライトが当たった書籍や漫画もいろいろあります。それらを読みながら、上記のようなエピソードを思い浮かべると、『三国志』に今までとは違った彩りが感じられるかもしれませんよ!

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