郭図
■ 郭図
郭図
郭図は袁紹軍の中では知名度の高い参謀でしょう。ただし、あまり良い意味ではありませんが。演義では同僚の参謀を陥れる進言をする、採用された意見は全部外れる、など袁紹軍が曹操軍に敗れる原因を大きく作ったと思われています。実際の彼はどうだったのでしょうか?やはり袁紹の足を大きく引っ張ったのでしょうか?
郭図は推挙を受け、朝廷に仕えます。その時の同僚にいたのが荀彧・荀攸・鍾繇など後の曹操の重臣になる者たちです。しばらく朝廷に仕えた後、同郷の辛評と共に袁紹に仕えることになります。その頃、郭嘉が袁紹の元を去り、曹操に仕えることになるのですが、郭図と辛評に袁紹の欠点を告げました。ですが、郭図は袁紹のために働きます。袁紹最大の領地である冀州、ここを韓馥から袁紹に譲らせます。これによって袁紹の勢力が大きく拡大されました。
袁紹が北方で勢力を伸ばしている頃、朝廷は大きく乱れます。献帝が即位したものの内乱で都を脱出します。その情報を手に入れた袁紹軍、参謀の沮授は献帝を迎え入れるように進言します。一方、郭図は反対します。そこで、袁紹は郭図を献帝のもとに派遣します。帰還した郭図は献帝を迎え入れるように進言しますが、結局受け入れられません。それにしても袁紹は何故わざわざ反対意見の者を派遣したのでしょうか?それが彼のスタンスなのでしょうか?
袁紹にとっての致命傷となる曹操との決戦。郭図は審配とともに短期決戦を主張します。一方沮授、田豊は持久戦を主張します。どちらが正解だったかは分かりません。ただ、正史に残されている話に、曹操が本拠地の荀彧に
「袁紹は手強い。一旦引いたほうが良いだろうか?」
という弱気な手紙を送ったことが記されています。つまり、沮授たちの進言通り、持久戦にして揺さぶっていけば退却した可能性は高かったと思われます。ここでも郭図は有効な進言が出来ませんでした。
その後、袁紹が死亡すると郭図は長男の袁譚に肩入れします。袁譚の弟である袁尚に抵抗するため、
「曹操と一時手を結び、袁尚に対抗しましょう」
と進言し、それを実行します。それは成功しつつありましたが、袁尚の残党勢力を吸収していると、曹操に盟約違反ととられ、攻められ、最終的には袁譚とともに殺されてしまいます。結局郭図は袁紹にとっても袁譚にとっても有能な参謀とはなりませんでした。
沮授
■ 沮授
沮授
沮授は若い頃から才能を認められていました。初めは冀州牧である韓馥に仕えていましたが、冀州を袁紹に奪われると、そのまま袁紹に仕えるようになります。そして、袁紹に戦略を上奏すると、採用され、幽・冀・青・并の四州を平定するのに大いに役立ちました。その後、献帝が都を落ち延びると袁紹に彼を迎え入れるように進言しますが、採用されることはなく、後のライバルである曹操の元に献帝は行ってしまいます。そして、曹操との決戦が近くなると、持久戦を主張しますが、結局郭図・淳于瓊らの主張した短期決戦を袁紹は選択します。さらに、郭図の讒言により、沮授の地位・権限が大幅に削られます。
いよいよ官渡の戦いが始まります。沮授はこの戦いで袁紹が敗れることを予見します。そして、その通り袁紹は早々に敗れ去ります。沮授は黄河を渡って退却するのが遅れたため、曹操に捉えられます。沮授と曹操は旧知でした。その為、曹操は沮授を配下に加えようと説得しますが、沮授はうなずきません。それどころか、すきを見て馬を奪って逃亡しようとします。結局、捕まり、曹操の配下に処刑されます。沮授の才能や功績は袁紹よりも敵である曹操に認められていたようです。
田豊
■ 田豊
田豊
田豊は最もよく知られた袁紹配下の知将です。若い頃から優秀なことで知られていました。後漢王朝で侍御史にまで昇進しましたが、宦官たちの専横を見て、嫌になり故郷に引き返します。その後、袁紹に召し出され、仕えるようになります。韓馥や公孫瓚との戦いで手柄をあげ、有能なことを証明します。ところが、田豊の先見の明あるアドバイスを袁紹は中々取り入れません。
・献帝を迎え入れよう
・曹操とは持久戦で勝負するべきだ
・劉備が徐州で反乱している。この間に早々の背後を襲うべし
これらの策が袁紹に採用されることはありませんでした。結局曹操に敗れることになります。そして最期は、田豊の意見を取り入れず破れたことを、彼があざ笑っているんじゃないかと疑った袁紹に殺されてしまいます。
田豊の智謀は袁紹よりもむしろ曹操に評価されています。曹操が袁紹軍を破った後に配下の者たちに
「袁紹が田豊の作を取り入れていたら、私と袁紹の立場は逆になっていただろう」
とまで言っています。
袁紹は結局、曹操打倒の為の切り札を自分で捨ててしまったのです。
淳于瓊
■ 淳于瓊
淳于瓊
演義では烏巣の食料庫を守っていたけど、酒を飲んで、酔っ払って、曹操軍に急襲されて、鼻や指を削がれて、最後に袁紹に処刑される。何一つ良いところがなく、小者感満載、それが淳于瓊です。では、実際にはどうだったのでしょうか?本当に袁紹の一武将だったのでしょうか?
実は、淳于瓊は後漢王朝に仕えていて、左軍校尉という役職についています。これだけでも大したエリートなのです。やがて董卓の専横が始まると朝廷から袁紹のもとに逃げ、彼に仕えるようになります。
やがて、袁紹と曹操の命運を分ける事件が起こります。それが献帝の都脱出です。同僚の沮授は袁紹に献帝を迎え入れるように進言します。一方淳于導は郭図とともにコレに反対します。結果的に荀彧の献策を受け入れた曹操が献帝を迎え入れます。その後の曹操は大義名分を手に入れ、一挙に勢力拡大に成功します。この戦略は古今東西当てはまり、日本でも織田信長が足利幕府を保護するという名目で味方を増やし、周りの大名を倒していきました。袁紹は千載一遇のチャンスを淳于導と郭図のせいで逃したのかも知れません。
その後、官渡の戦いが起こります。淳于瓊は演義と同じく烏巣で食料の監督を行います。そこへ曹操が急襲してきます。袁紹軍の同僚であった許攸が曹操軍に寝返って、食料のあり場所を教えたからです。最後は曹操軍の猛将楽進に討ち取られます。
まとめ
■ まとめ
まとめ
袁紹軍の配下たちについて見てみると、後漢王朝の臣下であったものが多いのがわかります。彼らは朝廷で役職をもらっていたからこそ、名門である袁紹の配下になったと推測できます。最終的に袁紹は、家柄にこだわらず、有能な者を徴用し続けた曹操に敗れます。曹操が、元々敵であり、どこのものかもよくわからない張遼・徐晃、そして関羽たちを率いて袁紹を打ち破ったのと対照的です。名門の一族が古い考えに囚われ、自由な発想を持つ新興勢力に敗れるというのはどこの国でもよく見られることのようです。