三国志・イケメン荀彧はいったい誰に仕えていたのか!?

三国志・イケメン荀彧はいったい誰に仕えていたのか!?

曹操が最も信頼した相手とされる「荀彧」。彼は魏の建国を認めず、最期まで朝廷に仕える臣として抵抗しました。今回はそんな荀彧についてご紹介いたします。


荀家の八竜

荀家の八竜

荀家の八竜

荀彧、字は文若。多数の名士を輩出している豫州潁川郡の出身です。祖父の荀淑は県令を務めていましたが宦官に媚びなかったために出世できませんでしたが、民衆からは尊敬を集めました。その子が八人おり、いずれも優秀だったことから「荀家の八竜」と呼ばれています。中でも済南国の相になった次男の荀緄と、董卓に採り立てられて司空となった六男の荀爽の評判がよかったといわれています。荀彧はこの荀緄の長子です。荀爽が董卓の傍に仕えていたときに潁川の荀家を束ねていたのが30歳に満たない荀彧でした。荀爽のコネで県令に就任しましたが、すぐに辞職して潁川に戻っています。

王佐の才

王佐の才

王佐の才

この荀彧を「王佐の才あり」と評価したのが、荊州南陽郡の何顒です。王佐の才というのは、リーダーシップを発揮して君主として大成するわけではなく、あくまでもその補佐として活躍する才能だということです。ちなみに何顒は「漢王朝が滅びに瀕している今、天下を安んじるのは曹操だ」と評価しています。何顒の話では、リーダーシップを発揮し乱世を鎮めるのは曹操で、それを補佐できるのが荀彧だというわけです。何顒の読みは恐ろしいほどに正確です。まさにその言葉のとおりに時代は動いていきます。袁紹もまた何顒を慕っていました。長安の都では何顒と荀爽が董卓の排除を画策していましたが、荀爽が病没し、その後何顒は捕らえられて命を落としています。

潁川の名士の行方

潁川の名士の行方

潁川の名士の行方

董卓が洛陽に火を放ち強制的に長安に遷都した際に、荀彧は周囲の民衆たちに潁川は危険だから安全な地域に避難することを勧めます。ちょうどこのとき冀州の牧である韓馥が人材を求めていました。韓馥の故郷が潁川だったからです。その誘いを受けて冀州へ向かったのが、荀彧の弟の荀諶です。さらに郭図、郭嘉、辛評、辛毗らも潁川を離れて冀州へ向かっています。荀彧はしばらくとどまりその他の民衆の説得にあたりましたが、なかなか生まれた地を離れるのは難しかったようで、潁川に残った人たちも多くいました。荀彧の予言どおり、潁川は翌年に董卓配下の猛将・李傕らが来襲し壊滅的な損害を受けることになります。荀彧は一族を引き連れてその前に冀州に逃れています。

荀彧のイケメンぶり

荀彧のイケメンぶり

荀彧のイケメンぶり

荀彧の容姿の立派さはかなり評判だったようです。「三国志正史」の他にも「典略」でも高く評価されています。陳寿をして「涼しげな風貌は内外に名高い」と記されています。毒舌家として有名な禰衡ですら荀彧の容姿は認めていたようです。弔問に出すには恥ずかしくはないと評されています。身長が低く、威厳に乏しい顔立ちだったと記されている曹操とは真逆ですね。容姿だけなら荀彧が君主であり、曹操が参謀といった感じです。荀彧はその実直な仕事ぶりや、朝廷への忠義心などが先行して、見てくれの話には及ばないことが多いですが、実は見た目も凄かったのです。三国志では周瑜や孫策、曹叡らがイケメンとして有名ですが、もしかするとナンバーワンは荀彧だったかもしれませんね。

袁紹ではなく曹操に仕える

袁紹ではなく曹操に仕える

袁紹ではなく曹操に仕える

冀州は韓馥から袁紹の手に移っていました。潁川の名士たちは袁紹に厚遇されています。しかし荀彧は袁紹には仕えることなく冀州を去りました。郭嘉も同様です。理由は袁紹に直接会ってみて、天下を治める器ではないと判断したからと伝わっています。はたしてどこまでが真実なのでしょうか。荀家はそれぞれ仕える主君を変えています。荀爽は董卓(朝廷)に仕え、荀諶は袁紹に仕えています。乱世であれば一族がバラバラに仕官したほうが生き残る確率があがるというのはよくある話です。そのために荀彧は敢えて主君を変えて兗州の曹操に仕えたのかもしれません。また、袁紹の旗下には多くの名士がおり、その派閥争いを見越して袁紹のもとを去ったとも考えられます。東郡で荀彧を迎えた曹操は「我が子房である」と喜びました。子房とは高祖を補佐した張良の字です。曹操はすぐに荀彧を司馬に任命しました。

献帝を許に迎える

献帝を許に迎える

献帝を許に迎える

曹操と袁紹で決断が分かれたのが献帝の保護です。李傕ら暴徒が支配する長安を脱出した献帝を、誰が迎い入れるのかに注目が集まりました。献帝を迎えるということは、その命令に従わなければならなくなり、何かと不自由が生じてきます。沮授が献帝を鄴に迎えることを勧めましたが、反対する家臣も多く、最終的に袁紹は断念しています。荀彧は曹操に対し積極的に献帝の保護を進言しています。「その昔、晋の文公は周の襄王を迎えたことで諸侯に号令できるようになりました」といった効果をわかりやすく説明し、曹操を納得させました。許に都を設けた曹操は司空となり、袁紹に大将軍の位を譲っています。荀彧は朝廷に仕える尚書令となりました。

朝臣としての荀彧

朝臣としての荀彧

朝臣としての荀彧

朝臣となった荀彧でしたが、曹操に対しては引き続き家臣としてまたは参謀として進言をしています。官渡で袁紹と対峙した曹操が撤退すべきかどうか書面を送ってきたときも、断固として反対し、袁紹撃退のための献策を行いました。結果として曹操は袁紹を破り、河北を制することになったのです。曹操は荀彧を三公に就任させようと試みましたが、荀彧は決して受け入れませんでした。なぜなのかははっきりとしませんが、このあたりから荀彧の自立の姿勢が目立ち始めます。頑固に拒否する荀彧を説得することを曹操も諦め、代わりに荀彧の息子である荀惲に曹操は娘の安陽公主を嫁がせます。荀彧と曹操は親族となったわけです。さすがの荀彧もこれだけは断れなかったようです。

まとめ・荀彧の死

まとめ・荀彧の死

まとめ・荀彧の死

荀彧は曹操の魏公就任に反対し続けました。それを推し進めようとする董昭らを咎めています。曹操を不遜な人にするつもりなのかと、尚書令として真っ向からこれを拒絶したため、董昭は驚いて話を引っ込めました。荀彧は曹操の勢力の中で最も発言力があったのではないかと推測されます。曹操も魏公の爵位を諦めています。しかし212年に荀彧は病没し、そのため213年に曹操は魏公となりました。一説には曹操から疎まれ、自害に追い込まれたとも伝わっています。

荀彧は最後まで朝臣であり、魏の官位を受けていないために、これだけの功績を残しながら曹操の廟庭に祀られることはなかったそうです。荀彧は初めから漢王朝を守るために曹操に近づいたのかもしれませんね。荀彧が補佐した相手は漢王朝だったのでしょうか。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


荀彧 三国志 曹操 袁紹

関連する投稿


孔明がナンバーワン?いやいや、知力は俺の方が上だ

三国志の天才軍師と言ったら大多数の人が諸葛亮(孔明)を推します。三国志をあまり知らない人でも彼の名前を聞いたことがると思います。しかし諸葛亮に匹敵する、もしくは諸葛亮以上に多大な功績を残し、国を支えたという軍師は実は沢山存在します。そんな天才軍師たちをご紹介します。


あの人はいま。三国志演義で活躍した人物のその後

大活躍した有名人のその後が知られていないとき、「あの人はいま」と言われることがありますね。三国志演義も史実以上に活躍した人物はいますが、その後について描かれることは滅多にありません。馬超や黄蓋ら有名武将は、どうなったのでしょう?


荀彧(文若)と荀攸の偉大なご先祖様

三国のうちの魏、曹操(孟徳)に仕えるものに春秋戦国時代の思想家である荀子の子孫がいます。魏軍の名軍師荀彧とそのいとこの荀攸です。「血は裏切らない」という言葉は、この親にこの子ありという様子を良い意味でも悪い意味でも用いる場合があります。今回は前者を意味するにふさわしい三国志の英雄とそのご先祖様について解説します。


曹操(孟徳)の覇道を大いに助けた稀代の政治家「荀彧」

曹操(孟徳)陣営には多くの優秀な配下がいましたが、その中でも文官のトップになるのが、荀彧です。荀攸・郭嘉・鍾ヨウといった幕臣たちよりも筆頭で評価され、曹操(孟徳)からは前漢の天才軍師と称された張良に匹敵されるといわれました。そんな荀彧の人物歴をここでみていきます。


戦国時代においては家柄も立派な武器!?血統の良い武将ランキング

劉備(玄徳)が自分の正当性を主張する時に漢王室の血を引いているということを挙げていたのは演義でも正史でも出てきます。ですが、漢帝国には百人以上子供がいる皇帝もいます。では、血統にはなんの意味もないのでしょうか?そんなことありません。実際に血統が素晴らしい(本当なのかどうかはともかく)武将を見てみましょう。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング