荀家の八竜
■ 荀家の八竜
荀家の八竜
荀彧、字は文若。多数の名士を輩出している豫州潁川郡の出身です。祖父の荀淑は県令を務めていましたが宦官に媚びなかったために出世できませんでしたが、民衆からは尊敬を集めました。その子が八人おり、いずれも優秀だったことから「荀家の八竜」と呼ばれています。中でも済南国の相になった次男の荀緄と、董卓に採り立てられて司空となった六男の荀爽の評判がよかったといわれています。荀彧はこの荀緄の長子です。荀爽が董卓の傍に仕えていたときに潁川の荀家を束ねていたのが30歳に満たない荀彧でした。荀爽のコネで県令に就任しましたが、すぐに辞職して潁川に戻っています。
王佐の才
■ 王佐の才
王佐の才
この荀彧を「王佐の才あり」と評価したのが、荊州南陽郡の何顒です。王佐の才というのは、リーダーシップを発揮して君主として大成するわけではなく、あくまでもその補佐として活躍する才能だということです。ちなみに何顒は「漢王朝が滅びに瀕している今、天下を安んじるのは曹操だ」と評価しています。何顒の話では、リーダーシップを発揮し乱世を鎮めるのは曹操で、それを補佐できるのが荀彧だというわけです。何顒の読みは恐ろしいほどに正確です。まさにその言葉のとおりに時代は動いていきます。袁紹もまた何顒を慕っていました。長安の都では何顒と荀爽が董卓の排除を画策していましたが、荀爽が病没し、その後何顒は捕らえられて命を落としています。
潁川の名士の行方
■ 潁川の名士の行方
潁川の名士の行方
董卓が洛陽に火を放ち強制的に長安に遷都した際に、荀彧は周囲の民衆たちに潁川は危険だから安全な地域に避難することを勧めます。ちょうどこのとき冀州の牧である韓馥が人材を求めていました。韓馥の故郷が潁川だったからです。その誘いを受けて冀州へ向かったのが、荀彧の弟の荀諶です。さらに郭図、郭嘉、辛評、辛毗らも潁川を離れて冀州へ向かっています。荀彧はしばらくとどまりその他の民衆の説得にあたりましたが、なかなか生まれた地を離れるのは難しかったようで、潁川に残った人たちも多くいました。荀彧の予言どおり、潁川は翌年に董卓配下の猛将・李傕らが来襲し壊滅的な損害を受けることになります。荀彧は一族を引き連れてその前に冀州に逃れています。
荀彧のイケメンぶり
■ 荀彧のイケメンぶり
荀彧のイケメンぶり
荀彧の容姿の立派さはかなり評判だったようです。「三国志正史」の他にも「典略」でも高く評価されています。陳寿をして「涼しげな風貌は内外に名高い」と記されています。毒舌家として有名な禰衡ですら荀彧の容姿は認めていたようです。弔問に出すには恥ずかしくはないと評されています。身長が低く、威厳に乏しい顔立ちだったと記されている曹操とは真逆ですね。容姿だけなら荀彧が君主であり、曹操が参謀といった感じです。荀彧はその実直な仕事ぶりや、朝廷への忠義心などが先行して、見てくれの話には及ばないことが多いですが、実は見た目も凄かったのです。三国志では周瑜や孫策、曹叡らがイケメンとして有名ですが、もしかするとナンバーワンは荀彧だったかもしれませんね。
袁紹ではなく曹操に仕える
■ 袁紹ではなく曹操に仕える
袁紹ではなく曹操に仕える
冀州は韓馥から袁紹の手に移っていました。潁川の名士たちは袁紹に厚遇されています。しかし荀彧は袁紹には仕えることなく冀州を去りました。郭嘉も同様です。理由は袁紹に直接会ってみて、天下を治める器ではないと判断したからと伝わっています。はたしてどこまでが真実なのでしょうか。荀家はそれぞれ仕える主君を変えています。荀爽は董卓(朝廷)に仕え、荀諶は袁紹に仕えています。乱世であれば一族がバラバラに仕官したほうが生き残る確率があがるというのはよくある話です。そのために荀彧は敢えて主君を変えて兗州の曹操に仕えたのかもしれません。また、袁紹の旗下には多くの名士がおり、その派閥争いを見越して袁紹のもとを去ったとも考えられます。東郡で荀彧を迎えた曹操は「我が子房である」と喜びました。子房とは高祖を補佐した張良の字です。曹操はすぐに荀彧を司馬に任命しました。
献帝を許に迎える
■ 献帝を許に迎える
献帝を許に迎える
曹操と袁紹で決断が分かれたのが献帝の保護です。李傕ら暴徒が支配する長安を脱出した献帝を、誰が迎い入れるのかに注目が集まりました。献帝を迎えるということは、その命令に従わなければならなくなり、何かと不自由が生じてきます。沮授が献帝を鄴に迎えることを勧めましたが、反対する家臣も多く、最終的に袁紹は断念しています。荀彧は曹操に対し積極的に献帝の保護を進言しています。「その昔、晋の文公は周の襄王を迎えたことで諸侯に号令できるようになりました」といった効果をわかりやすく説明し、曹操を納得させました。許に都を設けた曹操は司空となり、袁紹に大将軍の位を譲っています。荀彧は朝廷に仕える尚書令となりました。
朝臣としての荀彧
■ 朝臣としての荀彧
朝臣としての荀彧
朝臣となった荀彧でしたが、曹操に対しては引き続き家臣としてまたは参謀として進言をしています。官渡で袁紹と対峙した曹操が撤退すべきかどうか書面を送ってきたときも、断固として反対し、袁紹撃退のための献策を行いました。結果として曹操は袁紹を破り、河北を制することになったのです。曹操は荀彧を三公に就任させようと試みましたが、荀彧は決して受け入れませんでした。なぜなのかははっきりとしませんが、このあたりから荀彧の自立の姿勢が目立ち始めます。頑固に拒否する荀彧を説得することを曹操も諦め、代わりに荀彧の息子である荀惲に曹操は娘の安陽公主を嫁がせます。荀彧と曹操は親族となったわけです。さすがの荀彧もこれだけは断れなかったようです。
まとめ・荀彧の死
■ まとめ・荀彧の死
まとめ・荀彧の死
荀彧は曹操の魏公就任に反対し続けました。それを推し進めようとする董昭らを咎めています。曹操を不遜な人にするつもりなのかと、尚書令として真っ向からこれを拒絶したため、董昭は驚いて話を引っ込めました。荀彧は曹操の勢力の中で最も発言力があったのではないかと推測されます。曹操も魏公の爵位を諦めています。しかし212年に荀彧は病没し、そのため213年に曹操は魏公となりました。一説には曹操から疎まれ、自害に追い込まれたとも伝わっています。
荀彧は最後まで朝臣であり、魏の官位を受けていないために、これだけの功績を残しながら曹操の廟庭に祀られることはなかったそうです。荀彧は初めから漢王朝を守るために曹操に近づいたのかもしれませんね。荀彧が補佐した相手は漢王朝だったのでしょうか。