義勇軍に加わる前の3兄弟
■ 義勇軍に加わる前の3兄弟
義勇軍に加わる前の3兄弟
劉備(玄徳)
■ 劉備(玄徳)
劉備(玄徳)
劉備(玄徳)の祖父や父親は地方の長官、現代の日本でいう市長や町長のような職業についていましたが、
父親は劉備(玄徳)が幼い頃に亡くなってしまい、幼い子供に長官の職が務まらないため、生家を離れ庶民に身を落とし、母親とともにわらじやむしろを編んでは市場でそれを売って生計を立てていました。つまり、劉備(玄徳)の前職は履きもの兼敷き物職人です。
関羽
■ 関羽
関羽
関羽は3兄弟の中で一人だけ出身地が異なります。ちなみに関羽が劉備(玄徳)と張飛に出会った当時は罪人として官吏たちから追われている身でした。つまりは指名手配犯です。
さて、そうなってしまった原因は関羽の職業が関係しています。関羽は自身の出身地で塩商人をしていました。しかも綺麗な仕事ばかりではなく、密売などの闇取引にも関わっていたそうです。関羽は師匠を中傷した者を殺害して逃亡犯になったという説がありますが、競争相手の塩商人を殺害したため官吏に追われる立場になってしまったという説のほうが有力だとされています。
張飛
■ 張飛
張飛
張飛は3兄弟の中でいちばんお金持ちのお坊ちゃんです。職業は精肉店ですが、当時は屋台で肉を解体しながら量り売りしたり、組合で畜産農家から仲買→解体→小売りという営業をしていたのが当たり前であったのに対し、張飛の実家は店舗を構え、畜産農家から肉を買い込んでは解体し、貯蔵するまですべて一家で出来てしまうほど大きな店でした。
張飛の精肉店の名前は「忠義店」。解体後の精肉は井戸や倉庫に保管して貯蔵していました。ちなみに張飛の実家の精肉店や貯蔵用に作った井戸は今も残っているそうです。
官職に就く前の曹操
■ 官職に就く前の曹操
官職に就く前の曹操
曹操の祖父は曹謄といい「後宮にこの人あり」と言われるほど、宦官の中で最も高い地位に就いていた宦官です。
宦官なので、曹操の父である曹崇を夏候家(曹家の親戚)から養子に迎えて姓を残しました。曹操の父曹嵩は大尉という現代の日本では防衛大臣・国防長官のような軍事的な宰相を務めた人物なので、その嫡男の曹操は生まれながらの貴公子です。
しかし、曹操は放蕩息子(不良少年)であったので悪戯で花嫁泥棒をしたり大人の仕事の邪魔をするなどとても手の付けられない悪ガキだったそうです。そんな曹操が官職になるきっかけとなったのが考廉という試験です。
考廉は世襲制から科挙制に切り替わる中間期に行われた官吏登用制度で、現在の県知事や市長らが毎年一人、官吏にふさわしい者を選抜して官吏に登用する制度でした。いわゆる国家公務員の推薦試験のようなものです。
考廉に推挙されたあと
■ 考廉に推挙されたあと
考廉に推挙されたあと
曹操は先ほどの考廉に合格し、「郎」という官職を与えられます。考廉に合格した者は最初「郎」に任命されて実務経験と教養を身に着けてから専門的な官職に転出していきます。
郎とは「若い男性」を指す言葉で、侍従官や上官の助手の仕事をしていました。エリート官僚はすべて郎の経験を持つため、エリート官僚の登竜門ということです。曹操は実に高官の子供らしい社会人のスタートを切っています。
孫呉の礎を築いた孫堅の出自
■ 孫呉の礎を築いた孫堅の出自
孫呉の礎を築いた孫堅の出自
同年代の劉備(玄徳)・曹操・孫堅の中で少年から青年期に関する情報が最も薄いのが孫堅です。孫堅は呉を建国した孫権の父親で、「江東の虎」という異名をもち各地の反乱を鎮圧しながら勢力を拡大し、乱世に突出してきた人物です。さて、孫堅の出自についての情報は諸説あります。
(1)「孫子の兵法」を記した春秋戦国時代の兵家である孫武の末裔
(2)海賊
(3)町人または瓜売り
(4)地方役人の子供
(1)は清朝の乾隆帝が編成を命じた「四庫全書」に記録してある情報。
(2)は三国志に関する書籍を多く手掛けた陳舜臣言った仮説です。
(3)は出自や父祖の名前の記録がないことから立てられた仮説です。
(4)は呉書(呉の歴史書)に記載されている情報です。
(1)については、孫の姓からこじつけられた可能性があると思います。また、(4)については皇帝のことを慮った結果だと考えられるため、(3)が最も妥当な説だと言われていますが、長年三国志を研究し続けた陳舜臣の意見も頭ごなしに無視することはできません。
孫堅の就職
■ 孫堅の就職
孫堅の就職
孫堅がお役所勤めになるきっかけとなった逸話があります。その逸話は「孫堅の海賊退治」です。
旅をしていた孫堅が17歳のときに銭唐県に立ち寄った際、海賊たちが略奪行為を行っている現場に遭遇しました。その状況を見て正義感をかられた孫堅は、一計を案じます。孫堅は海からわざと見えやすい高台に立つとあたかも軍を指揮しているかのような素振りをして、海賊たちに見せつけます。海賊たちは「大軍に包囲され殲滅される」と慌てふためき我先にと逃げていきました。
孫堅は身振り手振りだけで海賊退治を成功させました。その話が巷に出て孫堅の名が広まると役所に召し出されて尉(軍事・警察を担当する官職)に大抜擢されました。
幼少期から働いていた袁紹
■ 幼少期から働いていた袁紹
幼少期から働いていた袁紹
袁紹の実家の袁家は、漢の三公を4代にわたって輩出した名門中の名門です。
三公とは行政を司る丞相「司徒」、軍事を司る大尉「司馬」、監察・政策立案を司る「司空」を指す言葉で、現代の日本でいうところの「内閣総理大臣」、「防衛大臣、国防長官」、「警視庁警視総監や最高裁裁判長、立憲監査委員長」といったようにそれぞれの国務において最高権力をもった官吏です。
先祖代々三公を任じられていた袁紹もエリート官僚の登竜門であった「郎」に取り立てられます。袁紹の場合は考廉などの試験を受けず、ほぼ顔パス状態での就職でした。しかも袁紹が「郎」に取り立てられたときはまだ幼い少年であったそうで、若干20歳で県令(県知事)となると「清廉」と評判されるほど勤務態度が真面目な人物であったようです。
モンゴル出身の呂布
■ モンゴル出身の呂布
モンゴル出身の呂布
呂布の出身地はモンゴル。いわゆる匈奴の出身です。優れた馬術と弓術を有していたのはモンゴル出身だからと言えば頷けます。
少年時代の呂布は馬を駆りながら羊や馬を遊牧し、羊や馬を狙うオオカミなどの天敵となる動物を弓で守りながら生活していたそうです。
習慣的に馬や弓を扱っているので実践が練習のような日々を送っていた呂布が弓の名手となるのは造作もないことだったと思います。
晴耕雨読の毎日
■ 晴耕雨読の毎日
晴耕雨読の毎日
見出しのような毎日を送っていた名軍師は誰でしょうか?
正解は蜀の参謀諸葛亮です。諸葛亮は泰山郡の丞(副長官)の次男として誕生するが、幼くして父親が他界し、弟と共に叔父に連れられて移住します。このとき、諸葛亮の叔父は袁術(袁紹の異母弟)に豫章太守に任命されて赴任するも朝廷からは別の官吏が送られて諸葛亮の叔父は追い出され殺害されてしまいます。諸葛亮は弟と一緒に一時期は劉表に身を寄せて書生となりますが、青年となると独立して弟を連れて荊州に移住します。
荊州では劉備(玄徳)が三顧の礼で訪れる27歳になるまで、兄の諸葛墐からの仕送りと農業を営んで生活していました。
成功するための下積み時代
■ 成功するための下積み時代
成功するための下積み時代
いかがでしたか?
三国志で国家建立の礎を築いた3名をはじめ、乱世の英雄、智将たちでさえも最初から民や臣下から慕われて悠々自適な毎日を送っていたわけではありません。比較的楽に官職を得られたように見える曹操や袁紹は宦官の孫といういじめや名門のプレッシャーに耐えなければならなかったようです。三国志の英雄たちはみな厳しい下積み時代を経て成功を手にしていったのです。