名門袁氏の出身で皇帝直属部隊の指揮官だった袁紹
■ 名門袁氏の出身で皇帝直属部隊の指揮官だった袁紹
名門袁氏の出身で皇帝直属部隊の指揮官だった袁紹
袁紹(エンショウ 154年―202年)は名門袁氏の出身であり、若い頃から都で生活し、このときに曹操(ソウソウ 155年―220年)や張バク(チョウバク 生年不明―195年)と友好を深めています。また、同世代の同門に袁術(エンジュツ 生年不明―199年)がいました。
188年には第12代皇帝の霊帝のもと、皇帝直属部隊となる「西園八校尉」が設立されており、袁紹は霊帝自身や大将軍何進とともに、代表的な指揮官として就任しています。曹操も指揮官に就任しますが、この時点では袁紹の立場が上でした。
十常侍を討つも董卓の専横を許してしまう
■ 十常侍を討つも董卓の専横を許してしまう
十常侍を討つも董卓の専横を許してしまう
当時の中国大陸は十常侍といわれる宦官が実権を握り、賄賂がはびこる腐敗した政治情勢で、黄巾の乱など大規模な反乱が勃発し、異民族の侵攻などもあって、国内は大いに荒れていました。袁紹は国内の混乱を収拾するには宦官を罰することだと何進に進言し、都に地方の将軍たちを終結させます。
霊帝の死後、後継者争いが起こると何進の一族である劉弁(リュウベン)が即位(第13代皇帝:小帝)します。これを受けて何進に権力が集まることを危惧した十常侍によって、何進は暗殺されました。大将軍を討たれた袁紹や袁術はこぞって宮中に侵入し、十常侍を抹殺していきます。都はますます混乱を極めていき、生き残った宦官によって連れ出された小帝は、西涼の将軍だった董卓(トウタク 生年不明―192年)によって保護され、董卓の影響力が強くなっていきます。
董卓は都に居座り、宮中の兵力を取り込んで武力で脅し、まずます発言力が強くなっていきました。董卓は小帝よりも弟の劉協に皇帝の器を感じ、小帝を廃位することを提案します。暴力的な董卓の性格を知っている袁紹は、小帝がないがしろにされる危機感から董卓に反抗し、一触即発の状態となっていきます。董卓は袁紹を処罰しようとしましが、袁紹は河北の冀州へ逃げ帰ります。
反董卓連合軍のリーダーになる袁紹
■ 反董卓連合軍のリーダーになる袁紹
反董卓連合軍のリーダーになる袁紹
董卓は袁紹を赦し、冀州地方の太守に任命すると、董卓は小帝を殺して弟の劉協を第13代皇帝・献帝(ケンテイ)に即位させるなど、暴虐の限りを尽くし、政権を掌握していきます。董卓を打倒しようと河南省の太守であった橋瑁(キョウボウ)の呼びかけによって反董卓連合軍が結成されると、袁紹や袁術、長沙の太守孫堅(ソンケン 155年―192年)、など総勢10万ともいえる大軍が全国から集まりました。曹操も私財を払い5000の兵で参戦しています。
なかなか攻めようとしない袁紹に曹操は不満を抱く
■ なかなか攻めようとしない袁紹に曹操は不満を抱く
なかなか攻めようとしない袁紹に曹操は不満を抱く
される呂布(リョフ 生年不明―198年)が加わったことで我先にと攻める部隊は存在せず、連日宴会を開く一方でした。曹操はこの状況を憂い、攻めるべきと袁紹に進言しますが、大軍を預かる袁紹は軽率に軍を動かすことができずにいました。
曹操は張バクらと独自で軍を動かしますが、董卓軍の徐栄(ジョエイ)に敗退し、勢いにのった徐栄は孫堅軍も打ち破る快進撃を見せています。曹操は袁紹に不満を抱き、ここから独自で領地を手に入れて兵を持つべきであると奮起していきます。
孫堅の活躍で董卓は都を焼き払い撤退
■ 孫堅の活躍で董卓は都を焼き払い撤退
孫堅の活躍で董卓は都を焼き払い撤退
一方で孫堅は軍を立て直し、攻めてきた呂布や総大将の胡軫(コシン)を相手に固く守り抜きます。胡軫は短期で傲慢でもあることから配下に嫌われており、呂布との折り合いも悪くなっていきました。均衡の取れなくなった董卓軍は孫堅軍に敗れており、形成を逆転された董卓は都を焼き払い、長安に遷都します。反董卓連合軍は董卓に対した成果を見せることもなく解散し、献帝の無事が確認できなかったことから、漢王朝の衰退が明らかになり、諸将は領地へ戻って自身の領土拡大に勤しみ、結果として戦乱の時代が幕開けとなっていきました。
河北統一を目指して公孫サンと対決へ
■ 河北統一を目指して公孫サンと対決へ
河北統一を目指して公孫サンと対決へ
冀州に戻った袁紹は同じ河北の幽州を支配していた公孫サン(コウソンサン 生年不明―199年)と対立していきます。公孫サンは河北一帯の黄巾兵を討ち破っており、名声を高めていました。兵力は数万にも上り、袁紹にとって油断ならない相手になっていきます。袁紹は同門の袁術と対立を深めており、公孫サンは袁術と手を組んで袁紹を挟み撃ちにしようとしました。
名将の沮授や田豊を従えて公孫サンを撃破
■ 名将の沮授や田豊を従えて公孫サンを撃破
名将の沮授や田豊を従えて公孫サンを撃破
袁紹は沮授(ソジュ 生年不明―200年)や田豊(デンポウ 生年不明―200年)といった知将を配下に添え、5万を誇る公孫サン軍に対し、先陣に麹義(キクギ)という異民族の戦法を熟知した武将を配します。麹義は強力な弓部隊を1000人揃えて、公孫サンの自慢の騎兵を打ち崩していきます。戦局が有利になりましたが、袁紹は一時敗走してきた公孫サン軍によって囲まれるという事態に陥ります。田豊が袁紹を木陰に隠そうとしますが、袁紹は鎧や兜を脱ぎ棄ててその場に踏みとどまり、戦い抜いています。救出された袁紹は、199年に公孫サンを滅ぼし、河北四州を制圧して一大勢力を築きました。
曹操を攻めるチャンスを逃し、二大決戦へ
■ 曹操を攻めるチャンスを逃し、二大決戦へ
曹操を攻めるチャンスを逃し、二大決戦へ
その頃、中原を支配していたのは元の友人である曹操でした。曹操は献帝を迎え入れており、呂布を打ち負かして袁紹に負けない勢力を誇っていました。黄河を挟んで二大勢力を築いていた両者ですが、曹操は199年に劉備(玄徳)を攻めており、配下の田豊は曹操の本拠地である許昌が手薄になる今がチャンスであると進言します。
しかし、袁紹は子供の病気を理由にこれを却下しました。実は曹操は袁紹が南下してもいいように黄河に陣を築いていました。軍師であった郭嘉(カクカ 170年―207年)は袁紹の性格を見抜いており、曹操には袁紹が南下してこないことを進言して、劉備(玄徳)の攻めに回るべきであるといい、事実その通りになってしまいました。この結果から袁紹は後の官渡の戦いへと進んでしまいます。
曹操との直接対決となった【官渡の戦い】
■ 曹操との直接対決となった【官渡の戦い】
曹操との直接対決となった【官渡の戦い】
袁紹は遂に南下を決意し、両者は200年に激突します。この時は逆に田豊や沮授は曹操軍の兵糧難を指摘して持久戦を主張しますが、袁紹は郭図(カクト 生年不明―205年)ら別の配下らが短期決戦を主張するのを受けて、後者を選びます。
実はこのとき、田豊と仲の悪かった袁紹の最古参の側近である逢紀(ホウキ 生年不明―202年)が虚言で告げ口して田豊を陥れ、袁紹は田豊の意見を採用しなかったといわれています。また、袁紹陣営の筆頭として軍を掌握していた沮授に対して、不満を抱いていた郭図も袁紹に虚言で告げ口し、沮授を降格させています。
また、曹操陣営では幕僚の荀彧(ジュンイク 163年―212年)や郭嘉が袁紹軍の内紛を予想しており、田豊や沮授の意見を採用しないことを見越していました。
序盤は均衡するも曹操が兵糧部隊を急襲
■ 序盤は均衡するも曹操が兵糧部隊を急襲
序盤は均衡するも曹操が兵糧部隊を急襲
両軍は黄河を沿って陣を築き、曹操軍の1万程度の兵力に比べて、袁紹は5倍以上の兵力を動員していたといいます。序盤は曹操が押していましたが、兵力に勝る袁紹軍が徐々に押し返していき、戦況は降着していきます。この状況を打破しようと、袁紹軍の許攸(キョユウ)が迂回して首都の許昌を攻撃するよう進言しますが、袁紹は採用せずに許攸は曹操に降服します。
許攸から袁紹の兵糧輸送部隊が烏巣(官渡の決戦場から東)で手薄な守りであることを知った曹操は、配下の意見を参考に、自ら兵を引き連れて烏巣を急襲します。袁紹がこのことを知ると、烏巣に救援に赴くか曹操本陣を急襲するかで配下の意見が分かれます。前者は張コウ(チョウコウ 生年不明―231年)など現場の一戦で戦う武将であり、後者は郭図が進言しました。張コウは本陣の守りは固いために兵が手薄であろうが攻めても落とせないといいますが、郭図は本陣を叩けば曹操も自陣へ引き返すので救援の必要はないと言い放ちます。
曹操に作戦を見破られ多くの武将を失う
■ 曹操に作戦を見破られ多くの武将を失う
曹操に作戦を見破られ多くの武将を失う
袁紹は両方の意見を取り入れて、烏巣救援部隊と曹操の本陣急襲部隊と兵を分けて攻撃をしかけます。しかし、曹操陣に読まれており、両部隊とも壊滅的なダメージを受けました。張コウは烏巣が落とされたことを聞くと、袁紹を見限り曹操へ降服します。張コウは以降、曹操軍の猛者として大活躍していきます。
この戦いで沮授は捕えられて曹操に寝返ることもなく処罰され、田豊は味方の虚言で処刑されるなど、袁紹軍の多くの有能な武将たちは曹操に寝返るか死んでしまいました。戦力の大幅な低下を招いた袁紹は202年に病によってこの世を去りました。袁紹の死後は後継者争いが勃発し、国力が低下して曹操によって207年に河北は統一されました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
袁紹は曹操と違い、有能な将を使いこなすことができずに敗れ去りました。曹操はもしも田豊や沮授の意見を採用していたら、自分の地位には袁紹が就いていたと後に語っています。三国志では曹操の引き立て役に甘んじている袁紹ですが、それでも袁紹の在命中は、曹操も河北に侵攻することはないほど警戒していたことが伺えます。