初心者でも早分かり! 三国志人物伝【覇道を担った魏の英雄】(魏①)

初心者でも早分かり! 三国志人物伝【覇道を担った魏の英雄】(魏①)

三国志で一番強大な力を誇ったのが魏です。曹操を始め、有能な人材が集結し、その基盤を作り上げていきました。ここでは三国志人物伝として、覇道を担った魏の英雄、曹操・夏候惇・曹仁・荀彧を紹介していきます。


覇道を貫き通した英雄【曹操】

三国志の主役といえば、曹操孟徳といえるでしょう。三国志演義によって悪役で描かれる割合は多くなりますが、三国志前編の主人公的存在であり、1代で強大な魏を建国しました。

曹操は比較的恵まれた一家に生まれ、父は宮廷に仕えていました。曹操は若くしてその才能を見初められ、袁紹らと親交を重ねていきます。曹操が宮廷に仕えるようになるころ、皇帝を傀儡にして政治の実権を宦官たちが握っていました。近衛兵を指揮していた曹操は、この光景を目の当たりにして、腐敗した政治を正そうと、自分の飛躍を誓っていたと考えられます。

このような政治の混乱を機に、曹操は父の財力を尽くして自ら兵を作り上げます。曹操は都を専横していた董卓の軍に敗れて手痛い敗北を喫しますが、そこから時勢をよく読み、優秀な人材は身分に関係なく取り立てていくという、家柄を重視していた従来のリーダー像とは違った姿を見せていきます。そんな曹操の下へは多くの有能な人材が集まるようになりました。

中原の覇者として君臨

曹操は豊富な人材を武器に中央を支配していきます。劉備(玄徳)や呂布、董卓の残党、袁術、張バクらとしのぎを削り、献帝を迎え入れてその地盤を強固にしていきます。河北を制圧していた袁紹との戦いにも勝利すると、中原の覇者として君臨していきます。呉との赤壁の戦いに敗れてしまって勢いを失いますが、それでも中国大陸の半分を支配するようになりました。

曹操は自身も優秀な人物ながら、すべてを自分の意思で決定することもなく、配下の進言をよく聞き入れ、その政策を実行していたことから、人の使い方にも優れていました。曹操は220年に志半ばで病に倒れますが、彼が残した軌跡は、子孫らによって受け継がれ、やがては晋が継承して中国統一を実現することになります。

不臣の礼と称された隻眼の猛将【夏候惇】

三国志のゲームや漫画の世界でも、曹操の仲間といえば、真っ先に登場するのが夏候惇です。従兄弟となる曹操の挙兵時から付き従い、各地の戦で貢献していきました。武勇にも優れながら、指揮官としても優秀で、張遼・李典・于禁といった魏の主力将軍たちを従えさせるほど曹操に信頼されていました。

夏候惇は呂布との戦いで片目を矢で討たれて失くし、以降は眼帯を巻いて出陣しています。夏候惇は自ら堤防を築き、土木作業を実践して、稲作を指導しています。イナゴの災害で荒れ果てた土地を甦らせており、多くの民衆が救われました。これは指導者として武官としてだけでなく、文官としても優れた采配を見せています。

曹操が魏王になると、その配下で唯一官位を与えられておらず、夏候惇は朝廷の漢の官位に就いていました。これは曹操の計らいであり、夏候惇は漢の直臣であるということになり、曹操と同列になることを意味しています。曹操は王になってからも夏候惇を信頼し、寝室への出入りも許すほどでした。曹操が病に倒れると、そのわずか3か月後に同じように病でこの世を去りました。

曹操の懐刀といえる存在の【曹仁】

曹操が多くの戦いに連れて行った武将の中で、曹仁が最も貢献したといっても過言ではありません。曹仁は若くして乱暴者として扱われていましたが、従兄弟の曹操が挙兵するころには落ち着きをもって将兵に接するようになっています。

曹仁は袁術や呂布との戦いで功績を挙げ、黄巾賊の残党を制圧するのも武功を立てていきました。曹仁は曹操軍の騎兵の中で突出した攻撃力を見せてその隊長格となっていきます。曹操が中央を支配し、袁紹との対決が迫ったころ、曹仁は袁紹軍を大いに破る活躍を見せています。さらに、袁紹の元へと身を潜めていた劉備(玄徳)の軍を破るなど、その指揮官としての能力は高く、曹操からも評価されていました。

208年の赤壁の戦いでは曹操軍が惨敗を喫する中、曹仁は守備部隊として荊州の残り、周瑜ら孫権軍と激戦を繰り広げました。しかし、周瑜・呂蒙といったハイレベルの将軍が相手とあって、さすがの曹仁も敗退しています。それでも周瑜に矢傷を負わせており、その傷が原因となって、周瑜は2年後に病死したといわれています。

曹仁は漢中争奪戦で馬超とも戦っており、その後は再び荊州へと赴任して劉備(玄徳)軍の関羽と対決します。関羽は凄まじい強さで曹仁を圧倒していき、樊城に籠城して一時壊滅状態に陥りますが、援軍の徐晃の活躍もあって形成が逆転。曹仁は城から打って出て、関羽を追い込み、遂には退却させることに成功しています。曹操亡き後は、その息子曹丕によって大将軍の地位に就いており、親子2代に渡って絶大な信頼を受けていました。

我が子房なりと絶賛された政治家【荀彧】

子房とは前漢を興した高祖(劉邦)の三傑といわれる軍師張良のことで、曹操は荀彧の智謀が自身にとっての張良であると考えていたのです。荀彧はもともと宮廷に仕え、都の混乱が増してきたときに袁紹の元へと向かっています。しかし、袁紹と会談すると、あまりにも小人物と感じてしまったので、荀彧は袁紹の元を去ってしまいます。荀彧は当時評判の良かった曹操との会談を経て、その人望に魅入られて仕えるようになっています。

荀彧は曹操に対して数々の進言・献策を行い、頭角を現していきます。呂布との戦いや献帝を迎え入れる案など、曹操は荀彧の進言通りに動いて勢力を拡大していきました。曹操は中原を支配するまでに多くの戦いで自らが指揮官となって戦地に赴いていましたが、そのとき、留守を任されるのは決まって荀彧でした。軍事面・政治面で重宝されていき、曹操配下の中でも突出した功績を挙げていきます。

優れた眼力で人物評価

荀彧は優れた人物眼を持っていました。荀彧が曹操に推挙した人物は、荀攸・郭嘉・鍾ヨウ・戯志才・陳羣・司馬懿・華キンといった魏の中枢を担う人材がいました。また、袁紹との一大決戦となる官渡の戦いにおいて、荀彧は袁紹陣営の武将たちの弱点を的確に諭しています。

序盤は袁紹軍が押していましたが、次第に荀彧の指摘通りに袁紹軍が崩壊し、曹操軍が盛り返していきました。戦況がこう着状態となったとき、曹操は退却を考えますが、荀彧は兵糧戦となれば必ず自軍に奇策が用いるときが来ると曹操を励まし続けており、遂には奇襲が成功して曹操軍が大勝利を収めました。

荀彧はこの後、曹操によって多大な評価を受けて恩賞が下りますが、戦地に赴いていないとしてこれを断ろうとしたほど野心はなく、武官との折り合いを上手に付けていました。

晩年は曹操の魏王就任へ頑なに反対し、とうとう二人には溝ができたまま212年に死去してしまいます。後に魏の実権を握り、晋の基礎を築いた司馬懿は、荀彧の才能はここ百年をみても誰も敵わないと評価しています。

まとめ

魏の基礎を築いたのは曹操といえますが、その挙兵時から付き従った同族の英雄は夏候惇と曹仁が飛び抜けていたといえます。また、文官ではやはり多くの献策と人物推挙で貢献した荀彧が挙げられます。しかし、魏にはまだ張遼や李典などの将軍、郭嘉や荀攸、司馬懿といった天才肌の文官が揃っていますので、今後紹介していきます。

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