呉の存在感の薄さ
■ 呉の存在感の薄さ
呉の存在感の薄さ
三国志とは今更説明するまでもなく、魏・呉・蜀の話です。三国時代は三国志演義と史実の三国志で微妙にずれますが、一般的には後漢末期から晋に繋ぐ時代になります。
三国志の肝となるのはいわゆる魏と蜀、もっと言えば曹操と劉備(玄徳)、諸葛亮の争いの物語と言っても過言ではありません。
曹操は自分自身の覇道、つまりは「人の上に立ちたい」という思いからのもので勢力を拡大。一方の劉備(玄徳)はそのような曹操の圧力のおかげで衰退する漢王朝の再興を目指していたのです。
この二国だけでも十分にドラマは組み立てられるのですが、実際の所、呉は何を考えていたのか。赤壁の戦いや荊州争奪戦など、話の節目に於いて存在感を発揮する呉ですが、何を目的としていたのかを模索してみるとしましょう。
孫堅って?
■ 孫堅って?
孫堅って?
読み方は同じですが字が異なるのが孫堅です。呉の皇帝となる孫権の父親ですが、元々孫堅はいわゆる呉のエリアで評判の良い人間でした。各地で起こっていた反乱を鎮圧するなど、あくまでも漢王朝に仕える武人として評判が良かったのです。
様々な県に赴任するも、行く先々で評判が良く、民衆だけではなく役人からの評価も高かったのです。いわゆる「名将」と言っても良いでしょう。
その武名から董卓討伐軍に加わります。董卓軍の配下である華雄を打ち破った程。その勢いはすさまじく、董卓は孫堅に恐れを抱いて洛陽を焼き払って長安へと離脱した程。
ですがその後袁紹と袁術の仲違いで討伐軍は瓦解。その後袁術の策略もあり、劉表と一戦を交えることになったのですが戦の最中に射殺されてしまいます。享年37。
この後を継ぐのは長男でもある孫策です。
孫策って?
■ 孫策って?
孫策って?
三国志が好きな人にとっては呉といえば孫権よりも孫策を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
「江東の小覇王」という格好良い異名を持ち、呉の礎を築いたと言っても過言ではないのが孫堅の長男にして孫権の兄にあたる孫策です。ちなみに奥さんは周瑜の奥さんの姉になりますので周瑜とは義兄弟になります。
父である孫堅が亡くなった際、孫堅の軍勢は袁術に吸収されました。いわば孫堅の上司的な位置に居たのが袁術なだけに、これはごく自然な流れでした。その後袁術に対し、自分の父親の配下たちを返して欲しいと願い出て認められると袁術からの自立の機会を探ったのです。
その間、人材を積極的に採用。後の呉の中核を担う人材を確保したことにより、孫策の軍勢は質量ともにレベルアップしていったのです。
そして地盤を確保すると、遂には袁術からの独立を宣言。地方の領主としての座に就くことになります。いわばこれが呉の第一歩と言っても良いでしょう。
一方で性格はとても苛烈なもので、恨みを抱かれることもありました。そのため、結局は郎党に襲われて死亡することになりました。
ですが跡継ぎには長男ではなく、弟の孫権を指名。外交の問題は周瑜に、内政の問題は張昭を頼るよう遺言し、ここに孫権が棟梁となったのです。
呉の実情
■ 呉の実情
呉の実情
孫権が呉を収めることになると、まずは内政面を充実させます。
孫策から「攻めるのは俺の方が上だが国を治めるのはお前の方が上」とも言われていたように、孫策が残した旧臣たちと共に呉を安定させていくのです。
ですがこの時はまだまだいわば「地方の一領主」でしかありませんでした。まだまだ三国時代には遠く、各地に孫権同様、領主が多々いたのですが、次第に曹操の力が強まっていくと曹操に倒されたり基準するなど、中国大陸の北半分はほぼ曹操のものとなってしまったのです。
そして有名な赤壁の戦いを迎えます。他の領主同様、曹操に下るか、あるいは抗戦するのか。
赤壁の戦いがどのような戦いなのかはわざわざ説明するまでもない程有名かと思いますが、赤壁の戦いの後、呉は少々迷走することになります。
なぜなら劉備(玄徳)とは同盟関係にあったものの、結局赤壁では呉の戦果はなかったのです。赤壁の戦いはいわば防衛線。勝利したからといって何かを得られる戦いではありませんでした。
一方、その間隙を縫うかのように劉備(玄徳)は益州を奪取。ここにいわゆる三国状態が築かれることになるのです。
日和見主義に見える呉ですが…
■ 日和見主義に見える呉ですが…
日和見主義に見える呉ですが…
三国志が基本的に劉備(玄徳)や蜀を中心に展開している以上仕方ないことではありますが、呉はどうしても「どちらに付くのか」という点ばかりがクローズアップされがちです。
赤壁の戦いでは劉備(玄徳)と共に曹操と戦ったものの、その後は荊州を奪うために曹操と組んで関羽を撃退。かと思えば再び劉備(玄徳)と同盟したり…といったように、呉はいわば魏や蜀のような大義名分が見えてこないだけに、「何をしたかったのか」と疑問に思っている人も多いことでしょう。
ですが呉には呉の問題もあったのです。まずは山越と呼ばれる非漢民族。これらに長年悩まされていたのです。そのため、思うように兵を動員してどこかに攻めることが出来なかったのです。
山越族に関しては234年にようやく討伐することが出来たのですが、それまでは長らく悩まされていたのです。
何が目的だったのか
■ 何が目的だったのか
何が目的だったのか
では呉は何が目的だったのか。疑問に思う人が多いのも無理からぬ話ではありますが、答えは単純で「生き残りたかった」のでしょう。
大きな国力を持つ魏。大義名分を持つ蜀。これらに隠れてどうしても日和見的な存在に見える呉ですが、そもそも歴史を見ればすべての国が何かしらの大義名分を持っていた訳ではありません。
時の流れの中でいつしか建国していた国など珍しくありません。
呉はいわば生き残ったからこそ、最終的には三国鼎立の一つの国にまで至ったのです。魏を倒したい気持ちも多少はあったでしょう。ですがそれ以上に「生き残りたい」気持ちがあったのです。
また、実際問題魏とは幾度となく戦闘行為が繰り広げられていますので、思われている程日和見主義ではないのです。
まとめ
■ まとめ
まとめ
どうしても呉に対して「どっちつかず」な印象を持つ人も多いかもしれませんが、荒れた時代を生き抜くためには様々な知略が必要だったのです。
その点では孫権の外交術は目立たないものの、曹操や劉備(玄徳)と並び称されるだけの人物であるのは確かでしょう。
最も晩年は国ではなく、可愛い息子だけを見てしまっていたようですが…。
ちなみに「 魏 呉 蜀 読み方 」は、「ギ、ゴ、ショク」 です。