曹家一族
■ 曹家一族
曹家一族
まずは曹操の先祖についてですが、曹参(そうしん)が先祖と言われています。
では、曹参とはどんな人物だったのでしょうか?
曹参は秦末から前漢初期にかけて活躍した人物です。
曹参は劉邦(りゅうほう)が挙兵した時に従軍し反秦連合の一員として秦と戦いました。
秦に勝利した後は、劉邦と共に中国平定の為に各地で転戦、数々の戦いで勝利を挙げていき中国を平定します。この期間の政権争いを楚漢戦争と呼び、楚漢戦争での一番の功労者は曹参であると言われるほど大活躍しました。
漢王朝を建てた劉邦は、功績の多さと評価の高さから曹参を斉国の相国に任命、その後丞相となります。そして、漢国の相国まで上り詰めました。(丞相・相国は内閣総理大臣のような役職です)
(余談ですが、秦末から前漢初期のころは三国志と同じように群雄割拠する戦乱の時代でした。この時代を描いた物語があり「項羽と劉邦」として小説や中国ドラマになっているので興味があったら見てみてください)
このような偉大な先祖をもち、また叔父、父も官僚という名門の一族になります。
名門の一族に生まれた曹操が、黄巾の乱で挙兵、反董卓連合軍への参加。そして中国統一に向けて、劉備(玄徳)、孫権(そんけん)など数多の武将と死闘を繰り広げます。
そして中国北部の平定をおこない、他を圧倒する国を作ります。
曹操は魏の皇帝にはなれませんでしたが、魏国の基礎を作り上げました。
そして、後を引き継いだ曹丕が魏国を建国、魏の初代皇帝になります。
曹操が作り上げた基礎をもとにより強固な政権になっていくかと思いきや
在位7年と短く曹丕は死去します。
第2代皇帝曹叡の時代には数度にわたって宮殿の造営(公共事業)などを行います。その費用により財政は大きく傾き始めます。また34歳という若さで曹叡が死去します。
このあたりからだんだん魏国はおかしくなっていきます。
第3代皇帝曹芳はわずか8歳で皇帝に付きました。当然この歳では国を動かす力もありません。このころから曹爽と司馬懿の権力争いが繰り広げられています
司馬懿がクーデターを起こして曹爽派を追放・誅殺により、司馬懿が実権を握ります。
第4代皇帝曹髦の時代は曹家の力はなく司馬家に実権を握られています。
しかし、曹髦は権力を取り戻すために、司馬家の討伐に立ち上がりますが、返り討ちに合い20歳という若さで死去します。
遂に来てしまいました。
第5代皇帝曹奐、そして魏最後の皇帝になります。
司馬炎(しばえん) が、曹奐から帝位を譲られます。
これで魏の時代は終わり、晋の時代へと移っていきます。
曹家は表舞台から去っていきます。
もし、曹丕の政権が長かったならば曹家は長期政権になり魏国は安泰だったかもしれません。
曹操と5人の皇帝
■ 曹操と5人の皇帝
曹操と5人の皇帝
曹操(そうそう)
■ 曹操(そうそう)
曹操(そうそう)
曹操の先祖は前漢の丞相であった曹参(そうしん)と言われています。また、父曹嵩(そうすう)は夏侯氏の出であるため、挙兵時から共に戦った夏侯惇(かこうとん)、夏侯淵(かこうえん)は従兄弟に当たるようです。
黄巾の乱から始まり反董卓連合軍への参加。そして中国統一に向けて戦乱の世を走りぬけました。劉備(玄徳)、孫権(そんけん)など数多の武将と死闘を繰り広げます。そして中国北部の平定をおこない、他を圧倒する国を作ります。
心半ばで死去してしまった為、魏の皇帝にはなれませんでしたが、魏の基礎を作り上げました。
また、曹操は才能豊かで政治家、詩人、兵法家としても業績を残しました。
曹丕(そうひ)
■ 曹丕(そうひ)
曹丕(そうひ)
魏の初代皇帝です。曹丕は曹操の子供になります。
8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とし、文武両道の才能を持っていました。
曹操逝去により丞相職を受け継、その後、漢の献帝に禅譲を迫って皇帝の座に就きます。これにより漢は滅び曹丕が魏の初代皇帝となります。
曹丕の時代は、曹操が地盤固めをしていたため国も安定しており、呉・蜀とも大きな戦いはありませんでした。曹丕は内政に力を入れより国の安定を図りました。有名な制度は安定九品官人法(きゅうひんかんじんほう)になります。
曹丕の在位は7年と短く、王朝として確固たる基盤造りが不充分だったため、魏の寿命を縮めたとも言われています。
曹叡(そうえい)
■ 曹叡(そうえい)
曹叡(そうえい)
魏の第2代皇帝です。
曹叡は曹丕の子供で曹操(そうそう)の孫になります。
母の甄氏は父曹丕に殺され、また長男であるのに曹丕からは好まれておらず曹叡ではなく曹礼(そうれい)を跡継ぎに考えられていました。
あるとき、曹丕と狩猟に行ったとき、曹丕が母鹿を射殺し、曹叡に子鹿を射させようとしたところ、曹叡は拒否して、「陛下はすでにその母のほうを殺しておしまいになりました。私はこのうえその子を殺すに忍びません」と言い、涙を流したというエピソードがあります。これをきっかけに曹叡は高く評価されることになり、曹丕死後は、曹叡が皇帝を継ぐことになります。
曹芳(そうほう)
■ 曹芳(そうほう)
曹芳(そうほう)
魏の第3代皇帝です。
曹叡の養子というだけで父母が誰なのか不明です。
曹芳はわずか8歳で皇帝に即位したこともあり、補佐に曹爽(そうそう)と司馬懿(しばい)が付きました。
曹芳の時代は、曹爽と司馬懿の権力争いが繰り広げられています。
当然、曹芳はわずか8歳で皇帝になったのでお飾りでしかありません。
司馬懿がクーデターを起こして曹爽派を追放・誅殺により、司馬懿が実権を握ります。
司馬師(しばし)の策略により、曹芳が23歳とき廃位に追い込まれ、皇帝の座から退きます。
余談ですが、邪馬台国女王卑弥呼が魏に使者を送ったのが曹芳が皇帝の時と言われています。
曹髦(そうぼう)
■ 曹髦(そうぼう)
曹髦(そうぼう)
魏の第4代皇帝です。
曹髦は曹霖(そうりん)の子供で曹丕(そうひ)の孫になります。
鍾会(しょうかい)が「才能は曹植(そうしょく)と同じ、武勇は曹操に似ている」と評するほど、曹髦は幼少の頃より他よりも才能が抜きに出ていた存在でした。
曹家の力は衰退しており司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)が実際には権力を握っていたので曹髦はお飾りの皇帝でしかありませんでした。
権力を取り戻すために、司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)の討伐に立ち上がりますが、王業(おうぎょう)・王沈(おうしん)の密告により返り討ちに合い志し半ば20歳という若さでこの世を去ります。
曹奐(そうかん)
■ 曹奐(そうかん)
曹奐(そうかん)
魏の第5代皇帝です。そして魏最後の皇帝になります。
曹奐は曹宇(そうう)の子供で曹操(そうそう)の孫になります。
曹奐の時代になると、曹家の力は全くありません。司馬昭(しばしょう)が実際には権力を握っているので曹奐はお飾りの皇帝でしかありませんでした。
この時点では司馬家が帝位を奪うのも時間の問題でした。
時代は繰り返されます。曹操が献帝から「魏王」に任命されたのと同じパターンで、曹奐は司馬昭を「晋王」 とします。
誰もが、司馬昭が帝位に就くと思われるやさき司馬昭は病死。
その後、司馬昭の子である司馬炎(しばえん) が、曹奐から帝位を譲られます。
これで魏の時代は終わり、晋の時代へと移っていきます。