徐州の物流を一手に担い、陶謙(恭祖)に厚遇を受けた笮融
■ 徐州の物流を一手に担い、陶謙(恭祖)に厚遇を受けた笮融
徐州の物流を一手に担い、陶謙(恭祖)に厚遇を受けた笮融
仕えた主を裏切り、殺害を繰り返して主を次々と替えた武将として悪名高い呂布(奉先)ですが、実は同じような人生を送り、「北の呂布、南の笮融」とまで言われた裏切り武将がいたのです。当時は群雄割拠で、厚遇を条件に武将が君主を選ぶ時代ではありましたが、後世まで裏切り者として名を残すというのは余程のことです。いったい、この笮融とは、どのような人物だったのでしょうか。
笮融の名が三国志演義に登場するのは、徐州の刺史・陶謙(恭祖)配下の一武将としてです。もともと地方の豪族として、有力な武将のために兵站を担当する家系に生まれました。その後、江南から徐州へ移り、陶謙(恭祖)を頼り、身を寄せたと言われています。陶謙(恭祖)は笮融を歓迎し、広陵、下邳、彭城の3郡の兵站を一任します。ちなみに、兵站とは前線の部隊に軍需品や兵糧、軍馬などを供給・補充したり、後方の連絡線を確保するといった任務のことを指します。
しかし笮融は、そんな陶謙(恭祖)の信頼を裏切る行為に走ります。なんと、3郡の兵糧や収入すべてを自分の懐に入れてしまったのです。主に米穀といった税収を主である陶謙(恭祖)に送らず、着服したということになります。笮融は、この当時、曹操(孟徳)に敵対する陶謙(恭祖)が長くは持たないと考え、このような行動を起こしたのです。
仏教徒でもあった笮融だが、仏教すら人集めの道具に利用した
■ 仏教徒でもあった笮融だが、仏教すら人集めの道具に利用した
仏教徒でもあった笮融だが、仏教すら人集めの道具に利用した
陶謙(恭祖)の信頼を裏切り、兵糧を我が物にして蓄えた財を使い、笮融は寺院を建て、仏像を作りました。そして、集まってきた仏教徒に読経を課し、ほうぼうの仏教徒を5,000戸ほどを招いて飲食をふるまったといいます。そして、笮融は満を持して仏教徒らを率い、乱を避けるように広陵の太守・趙昱(元達)を頼ります。その際に引き連れていった仏教徒は数万の大群だったそうです。
趙昱(元達)は仏教信者の頭領としてその名が知られる笮融を丁重にもてなし、酒宴を開いて歓迎しました。しかし、なんと笮融はあろうことか、その酒席で趙昱(元達)を殺してしまう暴挙に出るのです。なぜ、手厚くもてなしてくれた恩人の趙昱(元達)を殺してしまったのでしょうか。そこには、笮融の身勝手な欲望がありました。思いのほか栄えている広陵を我が物にしようと企んだからだったのです。
とても仏教信者とは思えない笮融のふるまい。当時の仏教における考え方は、謀反をせず、殺人などもってのほかという教えです。つまり、殺人や略奪、謀反を平気で犯す笮融は、真の仏教徒ではなかったのでしょう。
3度目の裏切り。そして笮融はついに独立する
■ 3度目の裏切り。そして笮融はついに独立する
3度目の裏切り。そして笮融はついに独立する
趙昱(元達)を亡き者にし、まんまと広陵を手に入れ……ることをせず、笮融は広陵の街に自らの兵を放ち、略奪狼藉の限りを尽くした挙句、それらを手土産に長江を渡り、揚州牧である実力者の劉繇(正礼)を頼ります。しかし、さすがに笮融のふるまいについての情報は劉繇(正礼)の配下の耳にも入っていました。劉繇(正礼)のもとに身を寄せていた許劭(子将)は、笮融を傘下に加えることに反対し、このように進言したのです。
「北の呂布、南の笮融といいます。必ずあなたを裏切ることでしょう」
この許劭(子将)という人物は、かつて曹操(孟徳)に「子治世之能臣亂世之奸雄(君は治世では能臣だが、乱世では奸雄となるだろう)」と告げた人物批評家として有名な人物です。しかし、そんな讒言を聞いても、劉繇(正礼)は数万の戦力を持つ笮融を受け入れることにします。なぜならその当時、劉繇(正礼)は寿春の袁術(公路)と敵対しており、その配下にいた猛将・孫策(伯符)の攻撃を受けていたからです。
笮融を傘下に加えた劉繇(正礼)は、孫策(伯符)の攻撃を防がせるために駐屯させます。しかし、さすが孫策(伯符)の精兵はあっさりと笮融の軍を攻め破ります。ほうほうの体で劉繇(正礼)の元へと逃げ帰った笮融は、本拠地を失って逃走する劉繇(正礼)に付き従いましたが、その途中でまたも主君を裏切ってしまうのです。
劉繇(正礼)は、配下の朱皓(文明)を豫州太守に任命し、赴任するよう指示をしていました。ところが、この豫州には荊州刺史の劉表(景升)も太守として、諸葛玄(字は不明)という人物を太守として任命していたのです。先に豫州城に入ったのは諸葛玄でした。それを知り、困り果てた朱皓(文明)は主君の劉繇(正礼)に相談したところ、援軍として笮融が送られたのです。
朱皓(文明)の軍に加え、笮融の援軍まで来たことを知った諸葛玄は豫州城から逃げ出し、戦うことなく朱皓(文明)と笮融は入城しました。ところが、ここで何を思ったか笮融は朱皓(文明)を殺害、豫州城の主となることを宣言したのです。つまり、事実上の独立と言っていいでしょう。
裏切り行為を続けてきた果ての哀れな最期
■ 裏切り行為を続けてきた果ての哀れな最期
裏切り行為を続けてきた果ての哀れな最期
豫州城に入ったとたん朱皓(文明)を殺した笮融に対し、主君の劉繇(正礼)は烈火の如く激怒します。すぐに討伐軍を派遣し、激戦の末に笮融を敗走させることに成功するのです。
ここからはさまざまな説があり、笮融の最期についてはほとんど分からないといった状況ではあるのですが、その中に面白いエピソードがあるのでご紹介します。
劉繇(正礼)の軍に敗れた笮融は、再度仏教徒を集めて捲土重来を企てていました。そんな折、笮融は自ら追い出した豫州城の前の太守・諸葛玄の甥という少年を自分の前に引き出して尋問するのですが、その生意気な態度に腹を立てて殺害しようとします。しかし、周囲にいた笮融の部下である仏教徒たちが、彼を殺してしまうのです。仏教信者にあるまじき掠奪や殺戮を行う笮融に対し、次第に不信感を募らせていた部下たちが、ついに今後予想される笮融の暴虐ぶりに不安を覚え、亡きものにしようと考えたのでした。
なお、その諸葛玄の甥という少年こそ、諸葛亮(孔明)であったと言われています。
まとめ
■ まとめ
まとめ
「因果応報」というのは仏教由来の言葉です。非道な行いをすれば、必ずその報いが訪れるものです。皮肉にも、仏教信者として名を馳せた笮融が、仏教用語の因果応報を身をもって受けることになるとは思ってもみなかったでしょう。
ただ、単純に笮融が考えなしの裏切り武将だと決めつけるのは早計です。彼の裏切りは、実は冷静な状況判断に基づき、その時々で最善の行動を選択していたに過ぎないのです。ただし、その手段が殺戮と掠奪という下策だったため、最期は部下によって処されてしまうということになりました。