反骨の可能性を持った魏延
■ 反骨の可能性を持った魏延
反骨の可能性を持った魏延
呂布以外の裏切り者で真っ先に思い浮かぶのは、誰ですか?
なかでも蜀の魏延は、諸葛亮から「自分の死後に裏切る」と予測されていた人物です。その予測は、五丈原の戦いで実現しました。
武芸を得意とする魏延は、才のある楊儀と日ごろから対立していました。あまりに血気盛んな人物だったため、最終的には刀で楊儀を脅すほどの問題に発展したそうです。
諸葛亮の死後も楊儀に従わなかった魏延。楊儀ら蜀軍が撤退する際、魏延は彼らの退路を断つように橋を切り落としました。
「『俺を殺せる奴はいるか』と3回言えば、漢中の城をくれてやる」と言う楊儀。魏延が額面通りに叫ぶ最中、馬岱に斬り殺されました。
楊儀と錦の袋
■ 楊儀と錦の袋
楊儀と錦の袋
諸葛亮の死後、錦の袋が楊儀の手元に渡りました。
袋の中に入った紙には、先ほどの言葉と計略が書かれていました。楊儀が「叫べば城をあげる」と言ったことや馬岱による不意打ちは、すべて諸葛亮の策だったのです。
魏延の死を目の当たりにした楊儀は、涼しい顔をしました。
直情的な魏延に対し、楊儀はどういう人物だったのでしょうか?
前述通り、楊儀は知略に長けていましたが、すぐ思い上がる傾向にあったそうです。その性格ゆえに諸葛亮の後継者になれず、あまりのショックで自ら命を絶ちました。諸葛亮から錦の袋を受け取ったとき、勘違いをしたのかもしれません。
魏延の功績
■ 魏延の功績
魏延の功績
魏延が孤立の途をたどっても、彼の功績が消えることはありません。高齢の武将・黄忠と功を競ったほか、かつての軍師であるホウ統からも暗殺を任されたほどの腕前です。
魏と蜀が定軍山で戦った際、魏延はわざと敗走します。ところが、突如向きを変えたとたん、曹操の顔に向けて矢を放ったのです。その矢は曹操の前歯を2本折りました。
劉備(玄徳)亡き後も手柄を立てた魏延。蜀が南中を攻略するときも、魏延は祝融(孟獲の妻)を罵倒することでおびき寄せることに成功しました。ここでは、馬岱と協力して祝融を生け捕りにしています。
五丈原では主燈(※)を倒してしまったこともありましたが、長く頼られていた人物なのです。
※諸葛亮の延命を祈るための灯り
糜芳(びほう)の裏切り
■ 糜芳(びほう)の裏切り
糜芳(びほう)の裏切り
糜芳の妹は糜氏で、劉備(玄徳)に嫁いでいます。糜芳は呉(&魏)と蜀による「樊城の戦い」で、呉に寝返りました。
関羽軍の先鋒となった糜芳ですが、ただ支援に回るだけで先頭に立とうとしませんでした。そして、出陣直前に火事が発生。処罰として棒で叩かれた糜芳は、関羽を恐れて呉の孫権に降伏しました。処罰後から降伏前は江陵(地域)の守備を任されましたが、結局身に入らなかったのです。
やがて、劉備(玄徳)が関羽の仇討ちとして呉に乗り込みます。糜芳は同じ呉の人間であるはずの馬忠を殺し、首を持ったまま蜀に戻ろうとするのです。当然ながら劉備(玄徳)の怒りはそれで収まるはずがなく、糜芳は劉備(玄徳)に殺されました。
関羽からの不当な扱い
■ 関羽からの不当な扱い
関羽からの不当な扱い
糜芳は、かねてより関羽から不当な扱いを受けていたそうです。誰もが嫌な扱いを受ければ、恩義を尽くす気がなくなるもの。関羽といえば誰に対しても義理堅い人物で有名なので、信じがたいですよね。孫権に相談するのも無理もないでしょう。
呉に降伏したあと、なぜ馬忠を殺したのでしょうか?それは馬忠が関羽殺害に関わっていたからです。「馬忠が関羽殿を殺したんだ。ひどいよねぇ」と他人事のようにアピールしたかった糜芳ですが、劉備(玄徳)の前では無力でした。
3度裏切った孟達
■ 3度裏切った孟達
3度裏切った孟達
かつて劉璋の配下でしたが、不満があったため劉備(玄徳)を益州で歓迎します。劉璋は民を思う優しい人物だったものの、決断力に欠けるところがありました。そういう理由から劉備(玄徳)と共に劉璋を倒し、蜀を建国します。
しかし、劉備(玄徳)の配下になった後も、劉封と共犯であるまじき行為を行ったのです。
それは、糜芳のときと同じく「樊城の戦い」で起こりました。
呉に包囲された関羽は、孟達らに援軍を要請します。彼らがこれを拒否したことで劉備(玄徳)の怒りを買ったため、孟達は魏に降伏したのです。
劉封も関羽に不満があった?
■ 劉封も関羽に不満があった?
劉封も関羽に不満があった?
孟達と劉封が関羽を見殺しにした背景には、ある出来事に対する不満があったように見えます。
劉封は、劉備(玄徳)の養子です。武芸と精神力を兼ね備えていたため、劉備(玄徳)から姓を授かることとなりました。
しかし、この頃は実の息子である劉禅が生まれたばかりです。これに対し関羽は、「劉禅殿がいるのに養子を取れば、権力争いに繋がるのではないか?」と懸念していたのです。
劉封が蜀の君主になりたかったかはわかりません。しかし、まるで「自分のせいで蜀が乱れる」かのような物言いに腹が立ったのは間違いないでしょう。
のちの樊城では孟達が「(関羽からの救援要請を)ほっとけ」と指示したため、関羽を見殺しにしてしまったのです。
孟達、3度目の裏切り
■ 孟達、3度目の裏切り
孟達、3度目の裏切り
劉備(玄徳)の怒りと劉封への不満(後述)から逃れた孟達は、魏の配下に。皇帝の曹丕は孟達をかわいがりましたが、司馬懿は孟達をあまり良く思っていませんでした。
曹丕の死後、孟達は蜀の復興や友人の存在がきっかけで戻ることを決意。しかし、計画がすべて司馬懿に発覚して処刑されたのです。
一方、劉封は魏にいる孟達から投降を勧められますが、これを拒否。劉封はまさに、劉備(玄徳)の怒りによって打ち首となりました。
共犯であったにも関わらず、孟達と劉封はなぜ対立していたのでしょう?
それは、劉封が孟達の軍楽隊を没収したことにあります。孟達は(復讐として)劉封を支配したかったのかもしれません。
特定の人物に対する不満
■ 特定の人物に対する不満
特定の人物に対する不満
裏切り者と聞くと、ちょっと怖いですよね。
でも魏延・糜芳・孟達の件に共通して言えることは、特定の人物に対し不満があったことです。特に樊城の戦いでは、関羽を裏切った武将が続出しました。関羽は、彼らに対しどのような感情を抱いていたのでしょうか?伝説の人物なだけに、誰に非があるのかは謎のままです。
呂布や司馬懿までにはいかずとも、主を裏切る行為は内部を揺るがすきっかけにもなります。それだけに、穏便な対応がより重要ではないでしょうか。
孟達の場合、関羽に不満があったのは劉封となります。孟達はとにかく劉封の人生を滅茶苦茶にしたかったはずです。
ただ、もし孟達が生きて蜀に戻ったとしても、誰にも信じてもらえなかったでしょうね。