まるで吉田松陰? 門下生が活躍した人物鑑定家の司馬徽

まるで吉田松陰? 門下生が活躍した人物鑑定家の司馬徽

三国志の時代には学問を教えたり、思想を語り合うなどして、門下生を取っている人材もいました。人物鑑定家として名を残している司馬徽もその一人です。司馬徽はホウ統の才能を見抜き、徐庶や韓嵩、向朗、尹黙ら諸国で貢献した政治家を門下生として扱っています。そんな司馬徽やその門下生の活躍を見ていきましょう。


人物鑑定家のホウ徳公に学ぶ

もともと司馬徽は荊州でホウ徳公という人物鑑定家に師事を仰いでいました。このホウ徳は馬超や曹操(孟徳)の配下として活躍した武将のホウ徳(令明)とは別人です。人物鑑定家として名があったホウ徳公は、司馬徽を水鏡と称し、血縁でそばに仕えていた若いホウ統(士元)を鳳雛、荊州の襄陽でまだ無名の存在だった諸葛亮(孔明)を臥龍と呼んでいました。

三国志のストーリーを知っていれば、諸葛亮やホウ統が切れ者ということは分かりますが、人と直接対話することでしか情報を手に入れることができない時代に、ホウ徳公は彼らの実力を見抜いていました。

ホウ統の才能を見抜く

しばらくして、司馬徽も荊州で人物鑑定家としての名が挙がります。司馬徽はホウ統の隠れた才能をいち早く見抜き、天下に名を残す逸材であると考えます。荊州には諸葛亮を始め、まだまだ士官されていない若くて優秀な人材が多く揃い、高名になった司馬徽は広く門下生を募ります。

日本史において歴史的改革といえば明治維新が挙げられます。その維新に貢献した逸材たちを指導し、共に語り合ったのが松下村塾の塾長だった吉田松陰です。しかし、司馬徽も負けてはいません。次に司馬徽の門下生たちを見ていきましょう。

三顧の礼のきっかけとなった【徐庶】

三国志演義では名軍師として有名な徐庶ですが、正史では若かりし頃から剣の使い手でした。しかし、罪を犯してしまい、友人に助けられたことから名を変えて禅福と名乗り、学問に励むことになります。


中原で戦が頻繁に起こるようになると、徐庶は比較的穏やかだった荊州に移住します。徐庶は有名な司馬徽の下で学問を励むようになりました。徐庶と同じように学問に精を出していたのが、孟建や韓嵩、向朗らで、荊州に住んでいた諸葛亮(孔明)とも親交がありました。

居住地を持たない劉備(玄徳)が荊州に流れてきた頃、荊州を支配していた劉表は劉備(玄徳)を憐れに思い、家臣の反対を押し切って新野城の守備に就かせます。司馬徽は劉備(玄徳)と会話をする機会があり、天下の危機を脱するには臥龍・諸葛亮や鳳雛・ホウ統といった知略を持った人材を手に入れることが必要と教えました。

劉備(玄徳)が思い悩んでいる頃、徐庶は士官を求めて劉備(玄徳)と会見しています。劉備(玄徳)は徐庶を大いに評価し、まさに司馬徽の言った人物にふさわしいと思い重宝するようになっていきます。

徐庶は自分よりも優れているとして諸葛亮(孔明)を推薦します。劉備(玄徳)は司馬徽に言われたことを思い出し、徐庶の勧めとあって、諸葛亮を呼び寄せようとします。しかし、徐庶は諸葛亮(孔明)が簡単に動くような男ではないことを知っていたので、こちらから会いに行かない限りは、連れてくることはできないと劉備(玄徳)に告げます。

こうして三顧の礼を持って諸葛亮(孔明)と会談し、配下にすることができた劉備(玄徳)は天下三分の計を持って益州を支配することに成功します。

徐庶や司馬徽が推薦しなければ、劉備(玄徳)は曹操(孟徳)によって敗れており、赤壁の戦いもなかったかもしれません。三国志の時代を大いに動かした三顧の礼ですが、この二人の貢献は大きかったといえます。

ちなみに徐庶は母が曹操軍の捕虜となったことを受けて、劉備(玄徳)の元を離れて曹操(孟徳)に帰順します。三国志演義では曹操のために策を出さないと決めた徐庶でしたが、正史では政治家として順調に出世しています。

劉表配下で曹操に評価された【韓嵩】

黄巾の乱の影響もあり、荊州南部へと流れ着いた韓嵩は、人物鑑定家として名を残していた司馬徽に師事して、徐庶やホウ統らと交流していました。韓嵩は劉表配下として在籍するようになると、政治家として活躍していきます。

しかし、たびたび劉表を諌めるようになり、中心から遠ざけられるようになってしまいました。韓嵩が賢者として存在するのは、曹操と袁紹が戦った官渡の戦いです。

この両者は中央を制圧した曹操と河北一帯を統一した袁紹による直接対決でしたが、曹操には荊州を支配している劉表が後方の憂いとして残っていました。ところが、曹操軍の参謀として暗躍していた郭嘉が、劉表には決断力がなく、たとえ袁紹と戦っても後方から襲撃されることはないので、思う存分戦うべきと主張されており、劉表は曹操陣営から軽く見られていました。

曹操も郭嘉などの参謀の意見に同調し、袁紹との対決に集中して見事勝利します。韓嵩は官渡の戦いが起こると、両者が疲弊するころを狙って攻めるべきで、天下を狙うなら今が好機と進言します。仮に攻めないならば、曹操が勝つであろうことを推測して、曹操に帰順するべきと言い放ちます。この指摘はあとの歴史を見ると正解だったのですが、決断力に乏しい劉表は韓嵩に曹操の視察を命じるだけに終わります。

韓嵩は曹操からも評価され、献帝から零陵太守に任じられるなど、劉表の真意とは裏腹に帰国します。激怒した劉表によって捕えられますが、それでも曹操を称賛したので、一時期処刑されかねないほどでした。しかし、劉表の妻が弁護したために、処刑は免れました。これは、劉表の死後に長男と次男で後継者争いが起こることが間違いなく、次男だった己の息子を後継者にしたいがため、実力者だった韓嵩に恩を感じさせようとしたのかもしれません。

劉表が死去すると、後を継いだのは次男の劉琮であり、韓嵩は荊州を守るために曹操への降伏を進言しています。韓嵩は劉琮が降伏した後、曹操に仕えて荊州の人事を任されるようになりました。

蜀の政治家として活躍した【向朗】

向朗は若い頃、司馬徽に師事して学問を学び、徐庶やホウ統、韓嵩らとも親交がありました。荊州を支配していた劉表に士官し、その死後は劉備(玄徳)に仕えています。もともと事務型の政治家として能力が高く、劉備(玄徳)が奪取した荊州南部の内で4県の管理を任されていました。

劉備(玄徳)の入蜀後は各地の太守を歴任していました。劉備(玄徳)の死後は、諸葛亮(孔明)の補佐として中央の重職に就き、まだ若い劉禅をサポートしています。

諸葛亮の死後は政治の中心として活躍し、北伐で失った国力の回復に努めています。向朗は80歳まで長生きしたとされ、重職を辞職すると学問を教えるために多くの門下生が集まりました。

諸葛亮の死後も国が安定していたのは、向朗などの政治家が献身的に動いていたからといえます。

司馬徽のその他の門下生や影響を受けた人物も活躍

蜀に仕えて学問を指導した尹黙も司馬徽に師事していました。鳳雛といわれたホウ統は短命でしたが、劉備(玄徳)の軍師として入蜀に貢献しました。また、徐庶の同郷だった石トウは曹丕の時代に魏へと士官し、諸葛亮の友人だった孟建も魏へと仕えて政治家として共に活躍しています。

人材の多い魏で出世するのは難しく、徐庶を含めて二人を知る諸葛亮は、彼らが魏での高官として出世できていないことに驚いたといいます。

その諸葛亮は、三国志の史書では司馬徽の門下生となっている書物もあり、また遊学していたとした指摘もあり、真実は定かではありませんが、司馬徽が最も評価していた人物であったのは間違いありません。また、徐庶などの門下生たちは、そのほとんどが諸葛亮の友人であり、勉学をともにしていたとあるので、諸葛亮が司馬徽の影響を受けていたといってもおかしくはないでしょう。

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