トホホな大将軍・何進、無念の死の背景―――何進を再考する(3)

トホホな大将軍・何進、無念の死の背景―――何進を再考する(3)

三国志の冒頭でキーパーソンとなる武将、何進(かしん)。黄巾の乱を鎮圧し、大将軍として朝廷に君臨します。しかしその後、皇帝に近侍する宦官(かんがん)に討たれ、あっけなく生涯を終えました。大将軍ともあろう者が、どうして宦官などに首を討たれたのか? 黄巾の乱の鎮圧後、彼の人生が辿った軌跡を振り返ります。


後漢時代の宦官―――金と権力の亡者(もうじゃ)

後漢時代の宦官―――金と権力の亡者(もうじゃ)

後漢時代の宦官―――金と権力の亡者(もうじゃ)

宦官(かんがん)は本来、皇帝一家の身の回りの世話をするのが仕事のはずですが……蹇碩(けんせき/何進の過去記事を参照)などは政治の表舞台で、なかなか派手に権力闘争をやっていますね。
そう。後漢時代の宦官は特に権力欲・金銭欲が強く、しばしば政治に介入して利権をむさぼってきました。

その代表格が、霊帝時代の宦官で最高実力者だった、張譲(ちょうじょう)でしょう。
彼は霊帝の信任をいいことに、政治介入を通じて私腹を肥やしてきました。
「身内を各地の長官に任命し、税金をしぼり取ってもうける」
「だれかを高い位につけてやる代わりに、ワイロをもらう」
……などなど、ひとたび宦官が政治に介入するや、汚い金もうけの方法はいくらでもあったのです。
これは張譲だけの話ではありません。
後漢時代は、高位の宦官が、皇帝の寵愛をいいことに政治を私物化し、私腹を肥やすことが一般的になっていたのです。

中央では、宦官にワイロを送った人間ばかりが、エラくなり……
地方では、民衆がますます税金をしぼりとられる……。
こんな話がまかり通ると、まともな政治が行われるはずもありません。
そう。後漢の世の中がメチャクチャになったのは、宦官による政治の私物化と金もうけが、最大の原因だったのです。
彼らの横暴が、黄巾の乱を招いたといっても過言ではありません。
(さらに言うと、張譲をはじめとする有力な宦官たちの多くが、黄巾党と内通していたのです)

政治に介入するも、世の中を良くしようとは考えず、民衆の苦しみをかえりみることなく、ただひたすらに私腹を肥やす……。
こんな宦官たちの好き勝手な振る舞いは、人々の怒りを買いました。
中央でも地方でも、「これ以上、宦官の横暴を許すな!」という声が高まります。

宦官打倒を決意も、何太后が許さず

宦官打倒を決意も、何太后が許さず

宦官打倒を決意も、何太后が許さず

「宦官打倒」の世論が高まることは、何進の政権にとってもやっかいな事態でした。
もともと何一族は、中国の外戚としてはめずらしく、宦官と協調して権力の座についた一族でした。何太后が後宮に入る際も、宦官の力を借りています。
しかしながら、何進は宦官が国と政治を混乱させることを、よく理解していました。宦官の蹇碩に繰り返し命をねらわれたこともあり、ついに宦官の打倒を決意します。

このとき何進の側近のひとりだったのが、後に三国志の有力な群雄となる袁紹(えんしょう)でした。彼は宦官を全滅させるべきだと説いた上で、何進にこう進言します。
「宦官にいかなるたくらみがあるか知れません。閣下は軽々しく宮中に入るべきではありません」
何進はこの進言を容れ、しばらく参内をひかえることとしました。
なにしろ以前、宦官の蹇碩に暗殺されそうになっていますからね。もっともな対処でしょう。

こうして何進は、袁紹らと宦官倒滅の作戦をねったうえで、何太后に伝えます。ところが何太后は
「宦官が宮中を取り仕切るのは王朝古来の制度であって、宦官を廃することはできません」
と、この案に反対しました。

困ったのは何進でした。妹とはいえ何太后は皇帝の母親であり、その権威は絶大なものです。兄で、なおかつ大将軍である何進といえど、その意にそむくのは難しいことでした。

そもそも何太后は、なぜここまで宦官を擁護したのでしょうか。
皇后になれたのも、霊帝の怒りを買ったときに助けてくれたのも、すべて宦官でした。彼女と宦官は、利害で深く結びついていたのです。
また、何進の義理の弟である何苗(かびょう)も、宦官からたびたびワイロをもらっていたため、宦官打倒作戦に反対しました。

優柔不断? 妹に頭が上がらない?

優柔不断? 妹に頭が上がらない?

優柔不断? 妹に頭が上がらない?

何太后の反対により、宦官倒滅は足ぶみ状態となります。
この状況を憂えたのは、何進の側近である袁紹でした。
名門出身の袁紹は、身近な人が宦官によって粛清されるのを目の当たりにしており、何進以上に宦官の横暴(おうぼう)を憎む人物だったのです。

「大将軍・何進に、なんとしても宦官を全滅させてもらわねばならない!」
そう考えた袁紹は、なんともスケールの大きい策を思いつきます。
中国各地の武将と軍勢を首都に呼び集め、その武力でもって何太后をおどそうと考えたのです。
何進はこの進言をいれ、各地の将を呼び集めます。後に政権をにぎる董卓などが、軍勢を率いてやってきたのです。
この露骨なおどしで、何太后は大いに恐れました。しかし宦官はしたたかで、しぶとい相手。何太后を巧みにコントロールして、自分たちの地位を守ります。

あくまで宦官を擁護する何太后。
彼女とのせめぎ合いが続き、何進は宦官の打倒にふみきれぬまま、ずるずると時を過ごしてしまいます。
これは戦いにおいて、最悪のやり方だと言わざるをえません。
何進の周囲では、宦官倒滅の作戦が毎日話し合われています。決行せずに時間ばかりかけていては、相手側に情報がもれますし、対処する時間も与えてしまいます。

宦官のワナ! 不用意に飛び込んじゃった…

宦官のワナ! 不用意に飛び込んじゃった…

宦官のワナ! 不用意に飛び込んじゃった…

何進が決断できずもたついている間に、宦官打倒の作戦が相手側にもれてしまいました。
「殺られる前に、殺るしかない」
宦官の最高実力者・張譲(ちょうじょう)は、ついに何進暗殺を決意します。
過去にも同じ宦官の蹇碩が、何進暗殺をくわだてて失敗しましたが、今度は状況がちがいます。このままでは、何進によって宦官が全滅させられかねないのです。蹇碩の時のように、宦官からの裏切りは出ない状況でした。

宦官が有力者を殺すには、相手を軍隊から引きはなす必要があります。
宮中におびき出せば、そこは宦官の独壇場(どくだんじょう)。あとはどうにでもできます。
張譲は何進をおびき寄せてから殺すことに決めました。もちろん、ただ呼び出しても出てくる相手ではありません。
そこで張譲は、何太后の詔(みことのり/注1)を偽造し、何進を呼び出すことにしました。

(注1)詔(みことのり)……皇帝からの命令書。皇后・皇太后からのものも指す。

かつて袁紹が「軽々しく宮中に入ってはなりません」と忠告したのを、忘れていたのでしょうか……。
謀略だとも気づかずに、何進は参内してしまいます。
待っていたのは、何進を討ち果たすべく控えていた宦官と、その手勢でした。

何進を討ち果たす前に、張譲は彼をこう罵倒したといいます。
「何太后が先帝(霊帝)の怒りを買ったとき、我々がとりなしてやったことを忘れたか。
閣下(何進)は宦官を穢(けが)れているというが、あのとき閣下の一族を助けてやったのは、我々宦官ではないか」

かくして大将軍・何進は、ついに首を討たれたのでした。

何進死後の歴史、何一族のその後

何進死後の歴史、何一族のその後

何進死後の歴史、何一族のその後

何進の死後、情勢は一変します。
袁紹・袁術、および何進に仕えていた将兵は、宮中へ一斉に乱入し、宦官のほとんどを皆殺しにします(何進がこれだけ思い切ったことをできれば、彼の運命も変わっていたのですが……)。
しかもこの混乱の中、宦官と親しかった何進の義弟・何苗(かびょう)まで、殺されてしまいます。

宦官の最高実力者・張譲は、少帝・劉弁(何進の甥)と、その異母弟・劉協を連れて、宮中から逃げ出します。しかしあっという間に追っ手に迫られてしまい、張譲は川に飛び込んで自殺してしまいました。

この大混乱を収拾し、政権をにぎったのは、「三国志の魔王」董卓でした。
何進の呼びかけで軍を率いてきていた彼は、この混乱を収め、政権をにぎります。
この董卓、何進や何太后の想像を超える、恐ろしい男でした。
彼は何の罪もない少年皇帝(少帝・劉弁)を退位させ、その異母弟・劉協を即位させました(これが後漢のラストエンペラー・献帝です)。
そして少帝も、母の何太后も、董卓によって殺されてしまったのです。

こうして何氏一族は、完全に力を無くしてしまいます。
後に曹魏の時代になって、何進の孫である何晏(かあん)が学者として名をあげます。しかし結局は政治の舞台で権力争いに敗れ、祖父と同じく、非業の死をとげるのです。

何進の評価―――「理念」ある政治家だった?

何進の評価―――「理念」ある政治家だった?

何進の評価―――「理念」ある政治家だった?

宦官に討たれるまでの経緯から、何進がとても情けない人物として語られています。
彼は宦官倒滅の策をねりながら、決行に踏み切れませんでした。相手に情報をもらしたうえ、反撃のチャンスを与えてしまったのですから、この優柔不断さは非常なマイナスポイントです。
何太后の反対があったとはいえ、自分の一族すらまとめられないようでは、とても天下を取る器ではなかったのでしょう。
ましてや(袁紹の忠告も忘れ)軽々しく宮中に入り、宦官に討たれてしまうのですから、危機管理もまるでダメだったわけです。

逆に、何進の評価できる点も挙げてみましょう。
詳しくは、何進の過去記事をご参照いただきたいのですが……
以下のような点が挙げられるでしょう。

・首都防衛の任務はソツなくこなした
・美人の妹を、抜け目なく活用した
・出自のハンデを克服し、勢力を伸ばした
・名門出身の有力者・知識人も従わせていた
・配下の将兵の心をつかんでいた

最後にもうひとつ付け加えるなら、何進はそれなりに「理念」を持って政治に臨んでいたと考えられる点です。
何進と何太后は、宦官と手を組むことで、権勢を手にしました。
よって、権力を安定させるだけなら、(蹇碩の打倒後は)引き続き宦官との協調路線を歩んでいればよかったはずです。事実、蹇碩の死後、張譲ら宦官の主流派は、何一族との連携で時局を乗り切ろうとしていたのです。

それでも何進が宦官打倒の意思を持ったのは、やはり宦官による政治の乱れを放置しておけないと考えたからでしょう。何進なりに、宦官の悪をとりのぞき、後漢王朝に正しい政治を取り戻そうとしていたのは、たしかだと思うのです。

結果としては、あまりにも情けない形で、宦官に討たれてしまいましたが……
何進は政治に対して、それなりの「理念」や「志」を持っていた人物なのかもしれません。





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