虎豹騎の誕生
■ 虎豹騎の誕生
虎豹騎の誕生
曹操の親衛隊の中で騎兵部隊のことを「虎豹騎」と呼びます。虎豹騎の兵には、かなりの手練れしか選出されなかったようです。まさに曹操軍の精鋭の中の精鋭です。いつごろ誕生したのかは不明です。少なくとも205年には存在していたことが記されています。もともとは曹操自身が率いていたようです。指揮官とは別に隊長は百人の将校の中から選ばれたともいわれています。200年の官渡の戦いで、敵の兵糧庫である烏巣を襲撃したのは、三国志正史によると曹操率いる五千の歩兵とありますが、もしかすると曹操が直接率いた虎豹騎だったかもしれません。袁紹軍の兵糧庫を守る淳于瓊の守備隊と、援軍に来た軽騎兵隊を倒したわけですから並みの部隊ではなかったはずです。それが虎豹騎であれば納得ですね。
虎士の誕生
■ 虎士の誕生
虎士の誕生
曹操の親衛隊の中で歩兵部隊を「虎士」と呼びました。近衛兵ですね。もともと曹操の警護役は怪力で有名な典韋が務めていましたが、197年に降伏した張繍が反乱を起こし、典韋はこのとっきに命がけで曹操を逃がして戦死しました。その後、警護役を継いだのが許褚になります。三国志演義では典韋と許褚は一騎打ちで引き分けています。典韋同様に武勇に優れていたのが許褚なのです。許褚はよく「虎痴」と呼ばれ、その怪力無双を恐れられていましたが、その異名から近衛兵を虎士と呼んだのかもしれません。虎士の隊長は許褚が務めていました。典韋に従っていた近衛兵も許褚がそのまま引き継いだようです。そう考えると200年の烏巣襲撃の主役はこの虎士なのかもしれませんね。ちなみにこの虎士のうち数十人がその後、将軍となり、百人以上が都尉や校尉になったそうです。虎士になることは曹操軍の中ではエリート街道だった可能性もあります。
名将・曹純
■ 名将・曹純
名将・曹純
虎豹騎を語るうえで忘れてはいけないのが、曹純、字は子和です。曹操の従弟にあたります。曹仁の実の弟です。豫州沛国の出身で、14歳にして兄・曹仁の代わりに家督を継いでいます。曹操に仕えるようになったのは20歳になってからです。家に出入りする数百人の食客や召使をうまく統率し、学問を好んだために多くの学者も曹純の家に集まったと記されています。若くして有能の士と評判だったようですね。才能を愛する曹操のことですから、親族の曹純はなおさら可愛がられたのではないでしょうか。武勇について特筆すべき点はありませんが、その統率力、カリスマを認められて曹純が虎豹騎の指揮官となりました。曹操にとってはやや苦渋の決断だったと記されています。
曹純の虎豹騎指揮官としての活躍
■ 曹純の虎豹騎指揮官としての活躍
曹純の虎豹騎指揮官としての活躍
205年、河北に覇を唱えた袁紹はすでに亡く、子の袁譚と袁尚が後継の座を巡って争っている最中でした。曹操は南皮の袁譚を攻めます。袁譚の抵抗は激しく、曹操は撤退を覚悟しますが、曹純は諦めずに攻め続けることを進言しました。曹操はその意見を取り入れます。一度は敗れた曹操軍でしたが、再び盛り返し、袁譚は南皮を落ちていきました。それを追撃したのが曹純率いる虎豹騎なのです。追撃されている袁譚は曹純を懐柔しようと試みますが失敗。捕まって斬首されました。曹純と虎豹騎は敵国の総大将を討ち取るという大成果をあげたのです。
曹操軍はさらに北へと進軍していきます。河北の制圧を目指したのです。袁紹の遺児である袁熙と袁尚もいます。さらに袁氏と結んでいる異民族も健在でした。207年には曹操は北の烏丸制圧のために出陣します。易県を拠点にすると、軍師である郭嘉の進言に従い騎兵を先行させ敵の虚を突きます。張遼が先鋒として敵の陣を崩し、曹純は虎豹騎を率いて烏丸の単于である蹋頓を襲撃、これを捕縛して斬首しています。烏丸は総崩れとなり、二十万に及ぶ兵が捕虜となっています。曹純はまたも敵の総大将を討ったのです。曹純はその武功を認められ、高陵亭侯に封じられました。
次の標的は荊州の劉備(玄徳)
■ 次の標的は荊州の劉備(玄徳)
次の標的は荊州の劉備(玄徳)
河北をようやく制圧した曹操は目標を南の荊州に定めます。荊州の牧である劉表は208年8月に病没しており、後継の劉琮は9月には全面降伏します。曹操は戦わずして荊州を手に入れたのです。荊州の最前線で曹操と対峙していた劉備(玄徳)は、この事態を知ってひたすら南へと逃避しました。これを猛烈なスピードで追撃したのが曹純率いる虎豹騎です。長坂で追いつかれた劉備(玄徳)は妻子を捨てて落ち延びます。このとき劉備(玄徳)の男子である劉禅は、趙雲によって救出されています。しかし劉備(玄徳)の二人の娘は、虎豹騎に捕らえられています。多くの捕虜を獲得した曹純は、さらに南を目指し、荊州水軍の拠点である江陵を陥落させました。水軍を手に入れた曹操は喜んだでしょう。曹操VS孫権の「赤壁の戦い」が行われたのもこの年のことになります。
曹純の死
■ 曹純の死
曹純の死
210年に曹純は亡くなりました。曹操は曹純ほどの適任の指揮官は他にいないと判断し、直接の指揮は曹操自らが執ることを決断します。211年には関中八部と共に馬超、韓遂が曹操の領土に攻め寄せました。「潼関の戦い」です。勇猛な馬超に手を焼く曹操でしたが、軍師である賈詡の進言を受け入れて離間の計を成功させ、馬超と韓遂の仲を裂きました。そのタイミングで曹操は歩兵と虎豹騎を指揮して関中八部を撃退。豪族である成宜と李湛を討ち取りました。おそらくこのときの虎豹騎の中には曹真がいたと思われます。曹真はその武勇を認められ、虎豹騎の隊長を歴任しています。乗馬しながら振り向きざまの一矢で虎を仕留めたこともあるそうです。
まとめ・虎豹騎の指揮官
■ まとめ・虎豹騎の指揮官
まとめ・虎豹騎の指揮官
曹純が亡くなった後は曹操が指揮をとりましたが、実質部隊を指揮していたのは隊長の曹真や曹休だったようです。もしかすると218年の下弁の戦いで、曹休が張飛や馬超を破ったときも虎豹騎を率いていたかもしれません。
無敵の部隊でしたが、曹操の死と共に歴史の表舞台から姿を消していきます。曹丕(文帝)の時代に虎豹騎が健在し、活躍していたのかどうかはよくわかっていません。
結論として曹操軍最強の精鋭部隊「虎豹騎」の指揮官は、曹操と曹純の二人ということになるのではないでしょうか。(曹真と曹休は隊長だったのではないでしょうか)