三国志 ー司馬懿の逆襲、そして晋へー

三国志 ー司馬懿の逆襲、そして晋へー

曹操に強引に出仕させられたのに、天才的な才能を警戒され重職に就けなかった司馬懿。今、司馬懿の逆襲が始まる。そして晋へ。


司馬氏とは

司馬氏とは

司馬氏とは

まずはじめに司馬氏(しばし)とは、中国の氏(うじ)のひとつです。
司馬とは元々軍事をつかさどる官職のことだったようです。
この司馬の職に就いた子孫が司馬の氏を使うことが多いようです。
有名なのは司馬錯(しばさく)と司馬卭(しばごう)の2つの一族です。
司馬錯は中国戦国時代に活躍した秦の将軍です。
司馬錯は恵文王(けいぶんおう)・武王(ぶおう)・昭襄王(しょうじょうおう)の3代に仕えました。
蜀(古蜀)との併合や統治に貢献、また楚や魏との戦いで功績を挙げなど、秦の勢力拡大に尽力した人物です。
司馬卭は、秦末から楚漢戦争期にかけて活躍した武将です。
今回ご紹介する、三国志で活躍した、司馬懿(しばい)、司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)、司馬炎(しばえん)は司馬卭の子孫と称しています。

司馬氏の逆襲

司馬氏の逆襲

司馬氏の逆襲

建安6年(201年)、曹操(そうそう)は上計掾(じょうけいえん、役職名)に推挙された司馬懿の才能に目をつけ出仕を求めました。
司馬懿は「曹操はあくまで漢王朝に仕えているだけ、そして漢王朝の勢いが衰えている」と知り、出仕を断りました。
その後曹操が丞相になると「捕らえてでも連れてくるように」と命令をしたため、司馬懿はやむを得ず出仕しました。
曹操に強引に出仕させられた司馬懿、実は「狼顧の相 ※1」の持ち主であり曹操から「大志と野望を持つ男」と称され、そして天才的な才能を警戒されたため重職には就かしてもらえない不遇の時を過ごしました。
しかし、その裏では曹丕との親交を深め、師匠と弟子のような関係を築き、曹丕の絶大な信頼を築いていきました。

建安25年(220年)、曹操が死去。曹操の後継者となった曹丕が献帝から皇位を禅譲され魏王に即位したのをきっかけに重職を与えられ、魏での影響力を拡大させていきました。

黄初7年(226年)、曹丕が死去。曹叡(そうえい)が皇帝に即位しました。司馬懿は曹丕が死ぬ際に曹叡の補佐を託されるとともに、数々の武功を上げていき遂に大将軍(最上位の役職)の地位に上り詰めました。
その後、諸葛亮(しょかつりょう)率いる蜀の北伐が開始され、幾度となく戦闘が繰り広げられついに五丈原での勝利で蜀を退けます。また公孫淵(こうそんえん)が起こした反乱の討伐にも勝利します。

司馬懿の体制は盤石かと思われた矢先、景初3年(239年)曹叡が死去。曹叡の後を曹芳(そうほう)が継ぎました。そして、曹爽(そうそう)と司馬懿の2人に曹芳の補佐が託されます。
ここから泥沼の権力闘争の始まりです。
権力独占を狙う曹爽により、司馬懿は名誉職に転任させられてしまいます。ただし、当初は曹爽が年長の司馬懿を立てていたため、曹爽が内政、司馬懿が軍事を分け合う形になり大きな混乱は見られませんでした。
正始2年(241年)、呉の朱然らが樊城を包囲すると、司馬懿は自ら兵を率いて救援に駆けつけ朱然を退け、243年には呉の諸葛恪を撤退させました。
これに対して、曹爽は蜀出兵に失敗し、多大な犠牲を出すことになりました。
司馬懿は失敗すると予想していたため蜀出兵に反対していた為、これ以降両者の対立が表面化し、事ある毎に曹爽は司馬懿と衝突するようになっていきました。
そして、ついにチャンスが訪れました。

司馬氏の逆襲の始まりです。
正始10年(249年)曹爽が曹芳の供をして曹叡の墓参りに行くため洛陽を留守にした機会を見計らって、司馬懿はクーデターを起こします。司馬懿は郭太后(かくこうごう)に曹爽の官職解任を要求。そして司馬懿は司馬師(しばし)に洛陽を制圧させ、郭太后の令を用いて高柔(こうじゅう)・王観(おうかん)に洛陽の曹爽の陣営を制圧させます。司馬懿は曹爽を説得して、戦わずして降伏させました。
はじめは曹爽やその一族に対して監視下において軟禁していましたが、曹爽らに謀反の疑いがあるとして一族を皆殺しにしました。
嘉平3年(251年)には王淩(おうりょう)らの企てた、曹彪(そうひょう)を擁立して曹氏の実権を取り戻さんとするクーデターが発生しましたが失敗。この事件の後、魏の皇族をすべて鄴に軟禁しました。
こうして司馬懿は魏における全権を握りましたが同年に死去。
咸熙元年(264年)に司馬昭(しばしょう)は晋王の爵位を授かる。
司馬昭の死後、265年に司馬昭の息子司馬炎(しばえん)は曹奐(そうかん)より禅譲を受けて晋を興しました。
そして曹操から数えて6代で曹氏の時代は終わります。

晋によって中国が統一され、司馬氏の時代が訪れました。

※1 狼顧の相:「狼が背後を顧みるが如く用心深いさま」という意味

三国志での主な登場人物

三国志での主な登場人物

三国志での主な登場人物

司馬懿(しばい)

司馬懿(しばい)

司馬懿(しばい)

司馬懿は司馬防(しばぼう)の次男で、兄に司馬朗(しばろう)伯達、弟に司馬孚(しばふ)叔達、司馬馗(しばき)季達、司馬恂(しばじゅん)顕達、司馬進(しばしん)恵達、司馬通(しばとう)雅達、司馬敏(しばびん)幼達の8人兄弟です。
8人の字に全て「達」が付くことから、「司馬八達」と呼ばれました。
息子には司馬師、司馬昭らがいます。
始めは曹操に仕え、その後、曹丕・曹叡・曹芳と4代に仕えました。
諸葛亮に匹敵する才能の持ち主で、よく諸葛亮(しょかつりょう)と比べられることが多いです。諸葛亮と戦った五丈原の戦いが有名です。
曹芳の時代、クーデターを起し魏の実権を握る。
晋の礎を築いた人物で、死後高祖宣帝と呼ばれます。

司馬師(しばし)

司馬師(しばし)

司馬師(しばし)

司馬師の父親は司馬懿、弟に司馬昭らがいます。
若いときから評判が高く、容姿は上品でまた沈着冷静で先見の明に長けていたと言われます。
曹芳の時代に司馬懿らと共にクーデターを起こします。
司馬懿が亡くなると、司馬懿の後を引き継ぎ、魏の実権を握ります。

司馬昭(しばしょう)

司馬昭(しばしょう)

司馬昭(しばしょう)

司馬昭の父親は司馬懿、兄に司馬師らがいます。
曹芳の時代に司馬懿らと共にクーデターを起こします。
司馬師が亡くなると、司馬師の後を引き継ぎ、魏の実権を握ります。
たびたび起こる内乱の鎮圧と、蜀討伐の軍を興し蜀を滅ぼしました。

司馬炎(しばえん)

司馬炎(しばえん)

司馬炎(しばえん)

司馬炎は司馬昭の息子です。
才能に恵まれ、司馬懿や司馬師の就いた官職を歴任しました。
司馬昭が死亡すると、司馬昭の後を引き継ぎます。
司馬炎(しばえん)は曹奐(そうかん)より禅譲を受けて晋を興し、晋の初代皇帝となります。
呉討伐をおこない呉が滅亡。呉の滅亡により晋による中国統一を達成しました。
余談ですが、
司馬炎は毎夜、羊の車が止まった女性のもとで、一夜をともにしたらしいです。
そこで、宮女たちは自分のところに来させようと、自室の前に竹の葉に塩を盛っておいたようです。なぜかというと羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからだそうです。
この塩を盛るという行為が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われているらしいです。


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