群雄割拠の乱世を迎えた理由や事件

群雄割拠の乱世を迎えた理由や事件

三国志は後漢王朝が滅亡し、魏・呉・蜀の三つの国が興って晋に統一されるまでの物語です。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備(玄徳)は後漢末期に割拠した英雄たちの一部です。本記事では後漢王朝が自ら招いた乱世の要因や事件を書いていきます。


漢王朝の政治

漢王朝の政治

漢王朝の政治

漢王朝は劉備の祖先である高祖・劉邦が史上初の中華統一を果たした始皇帝の秦を打倒し、興した王朝です。途中、新という王朝をはさみますがそれ以前を前漢、そのあとを後漢と呼んで区別されています。漢の統治は前漢、後漢を合わせて約400年間も続きました。

国家の統治方法は中央集権制といい、簡単に言うと全国の領土・領民の所有権、財政の決済権、軍事の統率権は皇帝ただひとりが握る。そのため、官吏とよばれる職業は地方の小役人であっても、すべて国家公務員に該当します。
皇帝の意思を政治に直接反映させられます。これにより、諸侯王たちによる反乱が起きにくい反面、
政務の処理が遅くなったり、なかなか地方に目が向かないというケースが生じました。
漢の歴代皇帝の中には、匈奴を壊滅状態に追いやり半世紀にわたって国を統治した武帝・劉徹や地の底まで落ちた財政を立て直し残酷な死刑を廃止した文帝・劉桓、新を倒し漢王朝を再興した光武帝・劉秀など優れた皇帝がいましたが、反乱により禅譲または暗殺されたり傀儡化されたり、酒色におぼれて政務を放棄する皇帝もいました。
特に、後漢末期の政治は絶望的に荒れ果てていて、皇帝自らが官職を売買して私腹を肥やす始末。群雄が割拠し、漢王朝が自滅の一途をたどった原因は、外戚と宦官による腐敗した濁流政治にあります。

外戚による腐敗政治

外戚による腐敗政治

外戚による腐敗政治

外戚とは、皇帝からみて母方にあたる親戚のことを言います。日本でも藤原氏や蘇我氏のように自分の娘を天皇に嫁がせ、
その子供がある程度成長すると娘婿にあたる天皇を廃し、孫を天皇に擁立。それを補佐する名目で政権を握りました。それと同じことが古代中国の漢朝廷でもありました。
皇帝が崩御すると皇位継承者は皇太子になります。当時の平均寿命は30歳らしいので、20代~30代で早世する皇帝も少なくありません。
ピンチヒッターとして先帝の皇太子が成人するまで先帝の弟や従兄弟が代理の皇帝を務めるケースもありましたが、亡き先帝の約束を反故にして自分の子供に皇位を継承することもあったので、しばしば幼い皇帝が擁立されました。

皇族における序列の位置づけは皇帝→皇后→皇太子→諸侯王(皇帝・皇太子の兄弟)の順になっています。しかし、当時既に儒学が浸透しているので、皇帝でも逆らうことができない存在がいます。そうです、皇帝の母親である皇太后です。皇帝であってもママは絶対的信頼をよせる人物であり、親孝行を重んじる国の主が「孝」を尽くさないはずがありません。
8歳、10歳で擁立された皇帝もいたらしいので、小学生がいきなり国のトップになってしまうというケースが頻発しました。
文字や算術を覚えたばかりの子供が政治の舵をとることはとうてい無理なので、これに代わり朝廷の実権を掌握したのが皇太后でした。皇太后はお嫁さんの立場だったので、人間関係に不安があったのでしょう。
自分の父親や兄弟、親戚などの縁者をこぞって貴顕の地位に登用し執政を手伝わせました。当の皇帝は母親や祖父、叔父の言うがままに上奏を認可するので、事実上外戚が政治を牛耳りました。
この外戚が己の私利私欲に走って税率の引き上げる、自分よりも能力のある官吏を罷免するなど悪行の限りを尽くしたのが、外戚による腐敗政治です。

宦官による汚濁政治

宦官による汚濁政治

宦官による汚濁政治

幼い皇帝も成長し、大人になると「自分政治を動かしたい」という願望と外戚の横暴な振る舞いに不満を抱きます。皇帝の実権を取り戻すために皇帝が頼ったのは宦官でした。
宦官とは去勢を施された宮殿に仕える男性のことです。宮殿には、皇帝の正妻である皇后や側室、それに仕える女中が生活する後宮。皇太子をはじめとする子息、息女が生活する東宮があり、そこに仕える女性はすべて皇帝の愛人です。しかし、男手が必要な仕事もないわけではないので宦官を用いることで、万が一にも大事が起きないようにされていました。
なぜ皇帝が宦官を頼ったのかというと、皇帝にとって気心しれた身近な存在が宦官だからです。仕事で忙しい皇帝に代わって皇太子らの父親代わりとなったのが宦官です。また、少年の宦官は皇太子らの遊び相手や学友としていつも皇太子のそばに仕え、大人になってからは側近として重用されるようになります。

あなたも親にすら相談できない悩みごとを学校の先生や親友に相談したことはありませんか?
このころの皇帝たちに「誰がいちばん信頼できますか?」と質問すれば、迷うことなく宦官の名前を口にすることでしょう。それだけ、宦官の存在は大きなものでした。
後宮に出仕した女中や側室の中には、父親が朝廷の官吏だったり大商人であることが少なくありません。宦官たちは宮殿で生活し、仕事をする立場を利用して、多方面の官吏に根回しを行い、計画的なクーデターを決行しました。これによって宦官たちは、皇帝の功臣とされ重要なポストを得ることになります。
今度は宦官たちが皇帝の権威を笠に着て富める商人の罪をでっち上げて財産を没収、良家の婦女を奪いとって妻妾にする、壮麗を競って大邸宅を建設して贅沢をするなど私利私欲に走りました。宦官たちは自身の兄弟、甥などを県令などに取り立てそれらが住民たちから絞れるだけ絞りとる様子は盗賊となんら変わりがありませんでした。

皇帝による党人の排除

皇帝による党人の排除

皇帝による党人の排除

外戚・宦官による汚濁政治のつけは民衆に回ってきました。理不尽な年貢の徴収、悪徳官吏による虐待を受け心身ともにボロボロになっている彼らを見て、仁愛の儒教思想に基づき漢王朝の腐敗を論じ、宦官を排除しようと立ち上がる人々がいました。これらの名節の士君子は党人と呼ばれて当時の大学生や知識人から支持を得ていました。
ところが、官職を売買し臣下から賄賂を受け取って私服を肥やした皇帝の霊帝は、党人の批判の声が高まってくると宦官をたきつけてこれを排除しようとしました。
この事件が「党錮の禁」です。「党錮の禁」は2回ありました。1回目は党人を捕らえて短期間の投獄に留まりましたが、2回目は拷問、処刑によって党人を死に至らしめました。
この事件を運よく免れた知識人は山野に隠居し私塾を作って後世の知識人を育成しました。諸葛孔明の師匠の水鏡先生こと司馬徽や劉備(玄徳)、公孫讃の師匠である櫨植がそうです。
また、武力を持つ者は朝廷を見限り地方に散って私兵を育成し、所轄の土地の統治を行いました。

農民による黄巾党の乱

農民による黄巾党の乱

農民による黄巾党の乱

ついに虐げられてきた農民たちが反乱を起こします。
その反乱は「蒼天すでに死せり、黄天まさに立つべし」を合言葉に黄色の頭巾を被って農民たちが決起しました。各地で起こったこの反乱はとても手の付けられない勢いだったらしく官軍だけでは機能できなかったそうです。黄巾軍は県の責任者を殺戮し、村や町を奪取しました。この火が燃え広がるような勢いを聞いて首都洛陽は騒然としました。この後も10年に及んで黄巾党は朝廷を揺らし続けました。

まとめ

まとめ

まとめ

以上のことから、漢王朝は民主、知識人、有能な文武の士から完全に見限られてしまいました。曹操、孫権、劉備(玄徳)が台頭し、その下に優秀な人材があつまった理由には荒廃しきった漢王朝の政治がありました。いわゆる漢王朝は自ら滅亡の要因を作ってしまい、取り返しのつかなくなる事態に陥ってもそれに気付くことなくのほほんと過ごして最終的に魏にとって代わられてしまったのです。

いかがでしたか。戦争は決して褒められたことではありませんが、この乱れた世の中を変えるための革命として英雄たちが立ち上がり、魏・呉・蜀に淘汰されたわけであります。三国時代に突入した理由をお分かりいただけたでしょうか。





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