三国志時代 皇帝の結婚

三国志時代 皇帝の結婚

結婚は、男女共通で人生の大きなターニングポイントです。三国志でもストーリー上で武将や皇帝の結婚に関する記述がちらほらと見られ、大国の君主たる皇帝の結婚はそれはそれは盛大に執り行われました。本記事では、皇帝の結婚にまつわるお話をさせていただきます。


漢帝の結婚

漢帝の結婚

漢帝の結婚

結婚は、男女共通の人生の大きなターニングポイントです。地球上に存在する数多くの男性と女性が、それぞれ最愛の異性と出会うという奇跡的な人の営みです。
それは、農民や商人だけでなく大国の君主である皇帝も例外なく経験してきました。しかし、皇帝は通称国の父「国父(こくふ)」とも言われ、全国民の父親(見本)となることを義務づけられていました。そのため、皇帝の場合は一般の人々とはまた違った制約やしきたりに従って結婚をしていました。

皇后(皇太子妃)の選抜

皇后(皇太子妃)の選抜

皇后(皇太子妃)の選抜

皇帝の正妻のことを皇后と言います。夫である皇帝が「国父」と呼ばれるのに対し、皇后は国の母「国母(こくぼ)」とも呼ばれました。皇帝と皇后は全国民の両親になると同時に夫婦のよき鏡として国民に夫婦のあるべき姿を示す必要がありました。そのため、皇后は皇帝の独断で決めることができず、国母に相応しい身分、教養の高さ、品格や功徳(くどく)の高さなどあらゆる観点で計りにかけられました。
特に漢は儒学の思想を政治に取り入れていたため、孝行が重視されます。皇帝の母親の皇太后、祖母の太皇太后や先帝から使える名のある大臣などもたびたび皇帝の結婚について干渉してきたので、皇帝でさえ逆らうことができず、好意のない女性を皇后に迎えるケースもありました。
また、通常皇帝は立太子にて先帝から皇太子に任命された皇子が即位します。そのため、皇太子が皇太子妃を娶るときにも皇太子妃は将来皇后になっても問題とならない女性を選ばなくてはなりません。皇帝と皇太子が結婚する場合には、皇太后、太皇太后、高官の大臣らが会議を開催して、慎重に相応な女性を選抜していました。

皇帝(皇太子)と皇后(皇太子妃)の結婚式

皇帝(皇太子)と皇后(皇太子妃)の結婚式

皇帝(皇太子)と皇后(皇太子妃)の結婚式

皇帝(皇太子)と皇后(皇太子妃)の結婚式はそれはそれは豪華なものでした。皇帝は黒色の袍、赤い前掛け、黒に金色の縁取りと龍の刺繍を施した上着を着用し、九旈の王冠を被り、大きな花が着いたたすきを胸の前にかけます。対して皇后は赤い袍に青、緑、金などの糸で刺繍が施された上着を着用し、鳳凰をかたどった簪と王冠を被ります。

石段と石畳には赤い敷物が敷かれ、宮殿の屋根から城壁までの間を赤、青、白、黄、黒の布で飾りました。先ほどの5色は五行思想の木火土金水(もっかどごんすい)を表す色で、この世の森羅万象の元となっていると考えられていた属性の色です。
その場所には文武百官が立ち並び、左右には近衛軍と地方から選抜された精鋭隊の兵士が儀仗しました。

宮殿の最上段には皇帝または皇太后が鎮座し、その前にはお供え物や線香、酒を置くための祭壇が設置されました。
新郎新婦は祭壇の前で両親と中国で縁を司る最高神の女媧様に誓いの詔と結髪(新郎新婦の髪の毛を少量切り取って束ね赤い紐で縛る儀式)を行って天地、文武百官、人民に布告することで結婚式を締めくくりました。

側室の妃嬪(きびん)たち

側室の妃嬪(きびん)たち

側室の妃嬪(きびん)たち

皇帝の義務の中には子孫繁栄もあります。皇帝以外の士族でも身分の高い者は跡取りとなる子供を確実に残すために側妻を娶る制度がありました。
側室の妃嬪(きびん)にはランクづけがされており、前漢ごろは、昭儀(しょうぎ)、婕妤(じょうよ)、娙娥(しょうが)、容華(ようか)、美人(びじん)、八子(はっし)、充衣(じゅうい)、七子(しちし)、良人(りょうにん)、長使(ちょうし)、少使(しょうし)、五官(ごかん)、順常(じゅんじょう)、無涓(むけい)、共和(きょうわ)、娯霊(ごれい)、保林(ほりん)、良使(りょうし)、夜者(やしゃ)と細分化されていましたが、光武帝が節約を理由に貴人(きじん)、美人(びじん)、宮人(ぐうじん)、采女(さいじょ)に簡素化しました。

側室は国家が潤っていれば潤っているほど多く迎えられ、朝廷に仕える大臣や将軍の娘、地方の権力者や豪商の娘、一般庶民から美貌を見初められて入裏した娘などたくさんの女性たちが嫁ぎました。しかし、皇帝と結婚式を挙げられるのは皇后ただ一人で、多くの側室の妃嬪たちは花嫁衣裳を着たまま後宮へと連れて行かれました。

離縁や廃皇后

離縁や廃皇后

離縁や廃皇后

皇帝には皇后廃したり、側室と離縁する権限がありました。皇后が廃止されるのはごく稀なことですが、皇后の側室に対するイジメがあまりにも酷い場合や皇后の親兄弟が罪を犯したとき、皇后に皇帝が愛想を尽かせたときには皇后を廃することがありました。皇后を廃する場合はそれ相応の理由や大義名分が必要で、やすやすと離婚できるわけではなかったそうです。
前漢の武帝の最初の皇后はとても嫉妬深く高飛車な女性だったらしく、当時は武帝に対して偉そうな態度をとったり側室をイジメては優越感に浸るような皇后でした。ある時、武帝に最も寵愛された当時側室の衛皇后に巫蟲の術(呪い)で殺害しようと企てたのですが、それが武帝にバレてしまい廃皇后の悲劇に遭遇しました。三国志でも悲劇の皇后がいます。献帝の最初の皇后である伏皇后(ふくこうごう)です。
献帝は曹操(孟徳)誅殺の計画を相談し協力を得ようと考えましたが、なかなか心を許せる相手がいませんでした。そして自身の岳父にあたる伏皇后の父親が信頼でき、かつ後宮を出入りしても怪しまれにくい人物であると判断しました。そして伏皇后へ自身が書いた密書を玉帯(ぎょくたい)に縫い付けるように指示をし、後日褒美と称して岳父に密書入りの玉帯を贈りました。
献帝はバレないだろうとたかをくくっていたのですが、その場に居合わせていた抜け目のない曹操(孟徳)は「玉帯に何か仕掛けがあるのでは…?」と勘づきました。そして堂々と伏皇后の父親に玉帯を見せてほしいと頼み込み玉帯に仕掛けがあることを確認した曹操(孟徳)はついに伏皇后の父親を処刑し、さらに伏皇后を献帝の目の前で絞殺しました。臣下が皇后を廃することは特例中の特例で曹操(孟徳)がどれだけ朝廷で権威を奮っていたのかがわかります。

さらに側室の件ですが、皇后と比較すると簡単に離縁することができたようで、国家が財政難に陥ってしまったときには側室と離縁して後宮から解放し、第二の人生を歩ませるということもしていました。されど、もしそのような事態になったときは国家の都合なので好き勝手に離縁することは人倫にもとります。そのため、この強攻策をとる場合は事前に側室たちに後宮に残留したいのか、それとも社会に出たいのかを選ぶことのできる権利が与えられました。

まとめ

まとめ

まとめ

今回は三国志の時代に該当する漢代の皇帝たちの結婚について紹介させていただきましたが、いかがだったでしょう?
皇帝なのだから、妻の一人や二人好き勝手にできるのであろうと考えていたのですが、母親やお祖母さん、人生の臣下のおじさんたちに邪魔されて恋愛結婚ができなかったというのですから、大変皮肉な話です。生まれ変わったら自分の本当に好きな人と結婚できることをお祈りします。





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