「関羽 最後」樊城の戦いの概略
■ 「関羽 最後」樊城の戦いの概略
「関羽 最後」樊城の戦いの概略
樊城の戦いは、三国志時代の重要な戦闘の一つです。この戦いは、蜀の関羽が魏と呉の連合軍と対峙したものです。関羽は、荊州を確保していましたが、魏の曹操が反撃を開始する中、呉もまた動きを見せました。これにより、関羽は多方面からの攻撃を受ける形となり、樊城において戦いを繰り広げることとなりました。
徐晃は、魏の武将で、曹操の部下として数々の戦場で活躍しました。元々は劉備の配下であったが、関羽との関係が悪化し、後に曹操の下へと移った。彼は策略よりも勇猛さで知られ、関羽とは何度も戦場で激突しています。
呂蒙は、呉の重要な武将及び策士で、孫権の信任が厚い将軍でした。子明は彼の字であり、彼は知略と武勇を兼ね備えた人物として知られています。関羽が荊州を占領している時、呂蒙は孫権の命を受けて、関羽を撃退するための策略を練った。彼の巧妙な策略は、関羽と蜀軍を困らせ、関羽は、樊城から、関羽は麋竺とともに逃走を試みますが、呉の追撃により彼らは追い詰められ、最終的に処刑されました。関羽の首は曹操へと送られることとなり、彼の壮絶な人生は終わりを迎えました。
呂蒙子明が関羽雲長の呪いで死んだと言われている理由
■ 呂蒙子明が関羽雲長の呪いで死んだと言われている理由
呂蒙子明が関羽雲長の呪いで死んだと言われている理由
実は三国志演義と呼ばれる小説で出てくるエピソードです。ですので実際に呪いがあったかどうかと問われると全くの作り話といっても過言ではありません。219年の樊城の戦いで敗走した関羽雲長は孫権軍に退路を阻まれ、捕えられて斬首に処せられました。
関羽雲長の処刑後、祝宴が行われたのですが、この席で呂蒙子明は第一の功労者として盃を授けられます。しかし、突然人が変わったように地面にそれを叩き付けると孫権仲謀の胸倉を掴み、「わしが誰かわかるか」と言った後、「我こそは関雲長なり」と叫びます。
そして呂蒙子明は倒れ、血を噴き出して死んでしまうという話です。この場面があまりにもインパクトが大きかったことから、小説の中のお話ですが、実際呪いで死んでしまったという噂が流れてしまったと言われています。
呂蒙子明の死因
■ 呂蒙子明の死因
呂蒙子明の死因
病気とは言われているものの実際どういった病気かという情報が一切ないのが不思議です。42歳の若さで亡くなっている点も考えるとかなり進行の早い突発性の病気だったと考えられます。体中から血を噴き出して死んだかどうかという点に確証はありませんが、もしも血を噴き出して死んだという点が噂ではなく事実だったとするとエボラ出血熱だったのではないかとも考えられます。
でも果たしてこの時代にこういった感染症があったかどうかを問われるとはっきりしたことはわかりません。陸遜伯言も同じく病死していることから感染症の疑いはちょっとはずせませんよね。真相はわかりませんが彼らの死因には何か因果関係がありそうです。
関羽雲長と戦う前から病気だった説
■ 関羽雲長と戦う前から病気だった説
関羽雲長と戦う前から病気だった説
関羽雲長の呪いで死んだという噂があるのはわかるのですが、それを否定してしまう説として関羽雲長と戦う前から病気だったのではないかという説があります。というのも関羽雲長と戦う前に病気を理由に後継者の陸遜伯言に役目を交代しているという事実があるのです。
ちなみに関羽雲長の呪いと言われるに至る経緯の中では呂蒙子明の病気が関羽雲長と戦った後に容態が悪くなってしまったことがあります。
もしかすると呂蒙子明は自身が死ぬことを既に予期していたのではないでしょうか?その証拠に早いうちに役目を交代することを申し出ています。また、腹の内はわかりませんが、関羽雲長の配下のものを丁重に扱っていたという説もあります。死ぬ前に良い人になるなんてことは良くある話なので死を覚悟していたと考えても良いのではないでしょうか?
とはいえ表向き関羽雲長と友好的な関係を築いているふりをしながらも裏切ったことは事実で
病気で死んだのは罰があたったと言われても仕方がないのかもしれません。
日本でも不治の病だった結核が直接的な死因となった説
■ 日本でも不治の病だった結核が直接的な死因となった説
日本でも不治の病だった結核が直接的な死因となった説
何の病気であったかと言われる中でもっとも説として可能性が高いとされているのが労咳(結核)です。今でこそ死ぬほどの病ではない結核ですが、当時は不治の病だと言われていました。血を全身から噴き出すというのは血を吐くを誇張して表現しているからかもしれませんよね。
ちなみに呂蒙子明が結核であったと言われる理由には、それ以前に亡くなっている周瑜公瑾が結核で亡くなったと考えられているからです。その周瑜公瑾の後継者は魯粛子敬だったわけですが、彼の死因は自然死と言われています。
そのまた後継者であぅた呂蒙子明に結核が伝染するのならば魯粛子敬もそうであってもおかしくないとは思うのですが、どうやらそうではないようですね。ちなみに魯粛子敬は呂蒙子明を後継者として指名したような伝記は残っておらず、どうやら孫権の意向が強いようです。
呂蒙子明の遺言~後継者に指名したのは陸遜伯言ではなかった~
■ 呂蒙子明の遺言~後継者に指名したのは陸遜伯言ではなかった~
呂蒙子明の遺言~後継者に指名したのは陸遜伯言ではなかった~
死を悟っていたのか、病気がしんどかったのかは定かではありませんが生きているうちに後継者を指名した呂蒙子明。孫権がある日こう尋ねました。
「卿が起てなくなるようなら、誰を代わりにすればよいだろう」
この問いかけに対して呂蒙子明は暫く考えてからこう提言します。
「朱然の胆力と実行力は有り余るほどです愚考しますに私の後を託すに充分でしょう」
なんと呂蒙子明が後継者に指名したのは朱然義封だったのです。関羽討伐の際も配下として関羽を捕縛する功績を残したので呂蒙子明はこのとき彼を褒め称えたといいます。傍で共に戦った者であるからして贔屓したと見られても仕方ないですが、それだけ信頼が厚かったのではないかと思います。
結局は陸遜伯言の活躍によって後継者となったのは陸遜伯言だったというわけですが、実際に呂蒙子明が後継者として望んだのは彼だったのかもしれませんよね。ちなみに朱然義封も晩年は病床に伏せて最期は病死しています。この際も孫権は呂蒙子明の時と同様、見舞いに何度も訪れていることから孫権との関係も良好であったのではないかと思われます。
呉には何かと呪いの類の話が多い
■ 呉には何かと呪いの類の話が多い
呉には何かと呪いの類の話が多い
実は呂蒙子明が関羽雲長に呪い殺されたという話以外も孫策伯符もまた呪いによって傷口が広がって亡くなったなどと言われています。于吉という仙人の呪いだと言われていますが、これもまた実は三国志演義の中の話。小説による着色って怖いですよね。とはいえ亡くなったのが26の時ですから病気であることはほぼ間違いなさそうです。
また、大将軍たる諸葛瑾の長子、諸葛恪も同格の孫峻に殺されてしまいます。しかし、その後、孫峻は夢の中で諸葛恪に殴られる夢を見て目を覚ましますがそのまま心臓病で亡くなってしまうというエピソードがあるのです。にわかには信じがたいことですが、もしかすると呪いって存在するのかもしれません。惨いことしちゃいけませんよ。
まとめ
■ まとめ
まとめ
呂蒙子明の死因や呪いとの因果関係、そしてその最期について紹介してきましたがいかがでしたでしょうか?もし、本当に関羽雲長の呪いなのだとしたら恐ろしいですよね。この時代に戦の最中に亡くなって討ち取られた武将の霊が討ち取った武将を呪い殺していたらキリがありません。
真相はわかりませんが結果的には呪いという説は薄いような気はします。恐らく関羽雲長の支持者や蜀好きの方々が着色したのではないでしょうか?本当に呪いがあるのだとしたらこんなこと書いている私も呪われてしまいますね。怖い怖い。