赤壁の戦いの真実

赤壁の戦いの真実

三国志の中で最大の合戦と言われる「赤壁の戦い」。演義では諸葛亮の圧倒的な才覚の前に周瑜や魯粛もタジタジで曹操がコテンパンにやられます。ですが、東南の風を人為的に起こしたり関羽が曹操を見逃すのを見越したりと流石に現実的にはちょっと・・・というシーンも多々あります。正史の赤壁の戦いは一体どうだったのでしょうか?


演義での赤壁の戦い

演義では袁紹ら袁一族を滅ぼし、華北を制圧した曹操がいよいよ江南を征服しようと南下してきます。その最初の障害になるであろう荊州の劉表は病死し、後継ぎである劉琮は戦わずに曹操に降伏します。劉表の客将であった劉備(玄徳)は曹操軍の追撃を張飛・趙雲らの奮戦で辛くも振り切り、劉表の遺児である劉琦のいる夏口へ逃げのびます。江東の孫権は曹操軍から降伏勧告を突きつけられ、どうするか迷っていると、劉備(玄徳)の軍師である諸葛亮を魯粛が連れてきます。諸葛亮によって、孫権とその軍師である周瑜が説得されて孫権軍は劉備(玄徳)軍と手を結び曹操軍と戦うことになります。
80万の曹操軍に対し、孫権軍は10万足らず、諸葛亮と周瑜は知恵を振り絞って曹操軍との戦略を練ります。その結果
1.偽書を利用して、曹操軍の水軍提督である蔡瑁・張允を罠に嵌めて謀殺 by 周瑜
2.悪天候と船を利用して、曹操軍から10万本の矢を強奪 by 諸葛亮
3.宿将である黄蓋を鞭打ちの刑にし、曹操に信じさせ、偽装降伏をさせる(苦肉の計) by 周瑜
4.曹操軍の船を鎖で繋がせ、一箇所にまとめさせる(連環の計) by 龐統
5.祭壇で祈り、火計に必須の東南の風を呼び寄せる by 諸葛亮
と何重にも策を積み重ねて曹操軍との決戦に挑みます。

戦いの結果

最終的に苦肉の計で偽装降伏をした黄蓋が、連環の計によって一まとめにされた曹操軍の船団に向かって火矢を放ち曹操全軍は火につつまれます。そして、呉軍の甘寧・太史慈に追われ、荊州の方へ向かってほうほうの体で逃げていきます。呉軍からなんとか逃げたと思いきや、続いて劉備(玄徳)軍の趙雲、そして張飛にも追われ、味方は次々と討ち取られていきます。そして、最後にもうこれ以上は動けないと、体力の限界が来たところで関羽軍に出会います。曹操の絶体絶命の危機でしたが、関羽は以前、曹操が自分や劉備(玄徳)の奥方を厚遇してくれたことを思い出し、曹操を切ることが出来ず見逃します。曹操は命からがら一族の曹仁たちが守る荊州へ逃げることが出来ました。一方、関羽は曹操を見逃したということで諸葛亮に処刑を宣告されますが、劉備(玄徳)のとりなしで事なきを得ます。

孫権軍の方針

正史の赤壁の戦いでも開戦に至るまでの大まかな流れは共通しています。華北を制圧した曹操が、荊州の劉琮を降伏させ、劉備は江夏へ脱出します。曹操は大軍を孫権に見せつけます。それによって孫権軍は抗戦論と降伏論で2つに別れます。当時の孫権は会稽郡の太守に過ぎず、揚州の刺史として全体を支配していたわけではありません。にも関わらず、その孫権を武力で脅したということは、南方で孫権が相当の実力を持っていたということでしょう。
抗戦派の筆頭は将軍である魯粛でした。魯粛はまず、周瑜を呼び寄せて共に孫権に抗戦を説きます。説得内容は演義とほぼ同じです。
「曹操軍は水上での戦いに慣れていません。こちらの地方の気候にも慣れていないでしょうから、疲れて病気になる兵士も増えるでしょう。また、水軍の主力である旧荊州軍や兵の大半を占める、旧袁紹軍は曹操に仕えて日が浅く、団結力があるとは思えません。」
周瑜が孫権の説得のキーマンになったのは演義と同じですが、正史では周瑜は最初からガチの抗戦派でした。
続いて魯粛は劉表の弔問という名目で、曹操軍と戦い続けてきた荊州の劉備(玄徳)の元へ出向きます。劉備(玄徳)も孫権と同盟を結んで曹操に対抗しようと考えていたので、両者の思惑は一致しました。そして魯粛は、劉備(玄徳)の軍師である諸葛亮を伴って孫権の元へ帰ります。孫権と劉備(玄徳)は同盟を結び曹操と対抗することになったのです。
残念ながら、名シーンの一つである孫権が机をぶった切って
「これより先、降伏を唱えたものはこの机と同じ運命になる」
と宣言するのは演義のオリジナルです。

合戦の推移

孫権・劉備(玄徳)連合軍の中心となった将軍は周瑜・程普・劉備(玄徳)です。古参である程普は周瑜を若造と侮って最初は関係が良くなかったようですが、周瑜の人間の大きさに打たれて協力するようになりました。この辺りは、演義で黄蓋が周瑜に反抗する(演技をする)ことのモデルになっているのかもしれません。
一方、曹操軍は周瑜が見破った通り、風土の違いに悩まされ、疫病が流行っていました。そして、連環の計はありませんでしたが、曹操軍の船は密集しておりました。それを見た黄蓋が周瑜に火計で船を焼き払うことを進言します。そして、偽装投降を曹操に対して仕掛け、強風の中で燃やした船を突撃させ、曹操軍の船団を焼き尽くします。周瑜・劉備(玄徳)は水陸両面から、曹操軍を追撃し、散々に打ち破りました。曹操軍は荊州の南郡まで退却しました。そして、曹操は曹仁・楽進らに荊州を任せると自分は北方の都へ帰っていきました。
その後、周瑜・劉備(玄徳)に荊州の南部を攻め落とされ、曹操の荊州支配も北部までのものとなります。

曹操軍が敗退した原因は?

正史は人物を基準に書く「本紀」「列伝」で成り立っています。赤壁の戦いは大勢の者が関わっていた出来事ですので、様々な人物の視点から書かれております。そのため、多くのことが記載され必ずしも、全部が矛盾しないということはありません。それを踏まえて赤壁の戦いを読んでいきます。
曹操軍の最大の敗因は「疫病」です。慣れない土地、慣れない水上ということで体調を崩す者が出てもおかしくありません。衛生観念や医療技術の発展していない当時のことですから、それが大勢に広まってしまうことも十分にありえます。
続いての敗因は周瑜率いる孫権軍の水軍の質の高さです。
「周瑜が船で素早く長江を渡り、夜襲を仕掛けた」
「黄蓋が火のついた船を曹操軍の船団に突っ込ませた」
「周瑜が水陸両方から曹操軍を追撃した」
などなど、周瑜の軍勢が非常に質の高い戦い方をしています。周瑜は孫権に
「曹操軍は曹操に仕えて日が浅く、全体がまとまっていない」
進言しましたが、孫権軍はまさにその逆でした。ちなみに、演義で孫権軍として活躍する太史慈は既にこの時、死亡しており、闞沢はまだ孫権に仕えておりません。正史では周瑜・魯粛・程普・黄蓋が中心です。

演義では、火計が全ての決め手で、それを決めるために様々な準備をしましたが、正史での赤壁の戦いにおいては、火計はあくまで曹操の敗因の一つで、それ以外にもたくさんの負ける要素がありました。様々な要素が絡み合って決着がつく、大規模な戦争になればなるほどそうなっていくようです。

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