呉の軍師、周瑜「美周郎」はなぜ36歳でこの世を去ったのか?

呉の軍師、周瑜「美周郎」はなぜ36歳でこの世を去ったのか?

周瑜の死は、過酷な戦乱の時代を反映していると言えます。彼の早すぎる死が、三国志という物語に悲劇的な輝きを与え、私たちを1800年後の今も惹きつけてやまないのです。「美周郎」と呼ばれた天才将軍の最期は、現代に生きる私たちにも、健康の大切さと人生の儚さを静かに訴えかけているようです。


序章:琴音が途絶えた日

序章:琴音が途絶えた日

序章:琴音が途絶えた日

建安十五年、冬。

長江の流れが凍てつく風に震える頃、呉の大都督・周瑜は巴丘の陣営で息を引き取った。享年三十六。赤壁の炎がまだ人々の記憶に新しい、その僅か二年後のことである。

彼の死を最も近くで見届けたのは、妻・小喬であった。

第一章:病床の声

第一章:病床の声

第一章:病床の声

「益州を……取らねば……」

かすれた声が、薄暗い陣幕の中に響く。

小喬は夫の額に当てた布巾を絞り直しながら、その言葉を黙って聞いていた。もう何度目になるだろう。目を覚ますたびに、公瑾は同じことを繰り返す。孫権主公への進言を、天下三分の策を、益州攻略の重要性を――。

「もう、お休みくださいませ」

小喬の声は静かだったが、その奥には十五年分の想いが込められていた。

周瑜の瞳が、わずかに彼女の方を向く。高熱に侵された目は焦点が定まらないが、それでもなお、そこには揺るがぬ意志の光があった。

あの日、廬江の地で初めて出会った時と、同じ光――。

第二章:琴音の記憶

第二章:琴音の記憶

第二章:琴音の記憶

あれは、小喬が十五歳の春だった。

「誤りなど、私には分かりませぬ」

演奏が終わった後、小喬は頬を赤らめながらそう答えた。周瑜の琴はあまりにも完璧で、どこに間違いがあったのか、彼女には分からなかったのだ。

「お嬢様はお優しい。しかし、戦場では一音の狂いが命取りになる」

そう言って、周瑜は再び弦を弾き始めた。

その指は武人とは思えないほど繊細で、けれど一つ一つの音には、刃のような鋭さがあった。小喬は息をするのも忘れて、その姿に見入った。

「私の琴は、天下を治めるためのもの」

彼はそう言い切ったが、小喬にはその音色が、どこまでも寂しく聞こえた。

まるで、彼自身が奏でる音楽に、追いつけないでいるかのように。


婚礼の夜、周瑜は彼女のために『長河吟』という曲を作ると約束した。

「長江の流れのように、永遠に続く愛を込めて」

彼はそう言って微笑んだが、その笑みには、どこか悲しみの影があった。

「でも、完成させられるかは分かりません」

「どうしてですか?」

「私には、時間が足りないかもしれないから」

小喬はその言葉の意味を、あの時は理解できなかった。

第三章:赤壁の傷痕

第三章:赤壁の傷痕

第三章:赤壁の傷痕

「小喬……」

現実に引き戻されたのは、夫の呼ぶ声だった。

しかし、周瑜の次の言葉は、また戦略についてだった。

「荊州と益州を……繋げば……」

「はい、分かっております」

小喬は涙を堪えて頷き、彼の手を握りしめた。その手は、かつてないほど冷たかった。

陣幕の外で、医師が首を横に振るのが見えた。

傷が深すぎる。赤壁の矢が、内に入り込んでいる

医師の言葉が、小喬の胸を突き刺した。



建安十三年、赤壁の戦い。

曹操の百万の軍を前に、周瑜は火攻めの策を用いた。東南の風が吹いた夜、長江は業火に包まれ、北方の覇者は敗走した。

呉軍は勝利に沸いた。

しかし、その喧騒の中で、小喬だけが気づいていた。

夫の顔色が青白いこと。

鎧の下、胸元がわずかに赤く染まっていること。

「公瑾さま、お怪我を……」

「かすり傷です。それより、追撃の準備を」

周瑜は笑って答えたが、小喬にはその笑顔が痛々しかった。

後に知ったことだが、彼は戦いの最中、曹操軍の流れ矢を受けていた。それも、肺に達するほどの深手を。

それでも周瑜は戦い続け、勝利を掴み、そして誰にも傷を悟らせなかった。

「大都督が倒れれば、軍の士気が下がる」

彼はそれだけを理由に、傷を隠し通したのだ。

第四章:最後の琴音

第四章:最後の琴音

第四章:最後の琴音

「小喬……」

再び呼ばれた声は、もう殆ど聞き取れないほど弱々しかった。

小喬は顔を近づけ、夫の唇に耳を寄せた。

「私の琴を……持ってきてくれないか……」

小喬の目から、涙が溢れた。

ようやく――ようやく彼が、天下から私の元へ、戦場から音楽へと戻ってきてくれた。

侍女が琴を運んでくる。小喬は夫の身体を支え、その指が弦に触れるのを助けた。

音は、ほとんど出ない。

それでも周瑜は、満足そうに微笑んだ。

「長河吟……完成させられなかった……すまない」

「とんでもございません」

小喬は涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。

「あなた様の音楽は、いつも完璧です」

周瑜はかすかに首を振った。

「君は……あの日と同じ……優しいままだ……」

そして、彼の最後の言葉。

「小喬……来世でも……私の琴を……聴いてほしい……」

琴を抱いたまま、周瑜は静かに目を閉じた。

長江を照らした天才の、その最期は、彼が愛した音楽のように――美しく、哀しく、完璧な終止符だった。

第五章:葬送の日

第五章:葬送の日

第五章:葬送の日

孫権は慟哭した。

「公瑾がいなければ、この孫権に今日はなかった……」

将軍たちは皆、涙を流した。

民は悲しみに暮れた。

しかし、小喬だけは涙を見せなかった。

彼女は夫の愛した琴を抱きしめ、長江のほとりに立っていた。

「あなた様の音楽は、決して絶えません」

小風が吹き、長江の水面が揺れた。

「長江の流れが止まないように、あなた様の志も、琴の音も、永遠に響き続けます」

小喬は琴を胸に抱き、静かに微笑んだ。

夫が作れなかった『長河吟』を、いつか自分が完成させよう。

そう心に誓った。

【史実編】周瑜の死因を医学と歴史から解明する

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「既生瑜、何生亮(天が周瑜を生んだのに、なぜ諸葛亮をも生んだのか)」
 三国志演義における周瑜の最期の言葉

しかし、これは創作である。

史実の周瑜は、嫉妬に狂って死んだ小人物などではない。彼は度量が広く、才能ある者を認め、天下のために尽くした真の名将だった。
では、なぜ彼は三十六歳という若さで、この世を去らねばならなかったのか?

一、周瑜という人物

周瑜(175年-210年)、字は公瑾。

廬江郡出身の名門の子として生まれ、幼少期から孫策と深い友情で結ばれた。容姿端麗で音楽の才に恵まれ、「美周郎」と称された。

しかし、彼の真価は戦場にあった。

- 赤壁の戦い(208年):三十三歳で大都督として曹操の大軍を撃破
- 荊州攻略:南郡を制圧し、呉の領土を拡大
- 益州進出計画:劉備に先んじて蜀を取る構想を立案

孫権は彼を「兄」と呼び、呉の柱石として頼りにしていた。

二、周瑜最期の記録

『三国志』呉書・周瑜伝によれば:

建安十四年(209年)、周瑜は孫権に益州攻略を進言。自ら大軍を率いて出陣する準備を開始。

建安十五年(210年)、巴丘へ向かう途中、突如として重病に倒れる。

病状は急速に悪化し、数日のうちに死去。享年三十六。

三、死因の諸説

説1:戦傷の悪化

最も有力な説である。

周瑜は赤壁の戦いの前年、江陵攻防戦で流れ矢を受けて負傷している。『三国志』には「周瑜が矢に中(あた)る」と明記されている。

当時の医療水準では:
- 矢の摘出が不完全だった可能性
- 傷口からの細菌感染
- 慢性的な内部出血や化膿

これらが二年後に再発し、致命傷となったと考えられる。

特に、遠征という身体への負担が、傷の悪化を招いた可能性が高い。

『三国志演義』と史実の違い

『三国志演義』と史実の違い

『三国志演義』と史実の違い

羅貫中の『三国志演義』では、周瑜は諸葛亮への嫉妬で吐血して死ぬ。

しかし、『三国志』正史には:
- 周瑜と諸葛亮の直接対決の記録はない
- 周瑜は諸葛亮を「才人」と評価していた
- 嫉妬による死という記述は一切ない

演義の描写は、物語を劇的にするための創作であり、周瑜の人格を貶める誤解を生んだ。

史実の周瑜は:
- 孫権から絶大な信頼を受けた
- 部下からも慕われた
- 魯粛など優秀な人材を推薦した
- 大局を見据えた戦略家だった

「既生瑜、何生亮」という言葉は、後世の創作に過ぎない。

長江に響く琴の音

長江に響く琴の音

長江に響く琴の音

「美周郎」と呼ばれた天才は、なぜ三十六歳で逝かねばならなかったのか。

答えは、時代そのものにある。

戦乱、疫病、医療の限界、過酷な軍務――それらが重なり合い、一人の輝かしい命を奪った。

しかし、周瑜の死は無駄ではなかった。

彼の築いた呉の基盤は、その後も続いた。

彼の戦略思想は、後世の軍師たちに学ばれた。

そして、彼の愛した琴の音は――今も長江のほとりで、風に乗って響いている。

小喬は、夫の死後も長く生き、その琴を守り続けたという。

未完の『長河吟』は、いつか彼女の手で完成されたのかもしれない。

あるいは、完成しないままであることこそが、周瑜という人物の本質なのかもしれない。

――永遠に続く旋律のように、彼の志は時を超えて、今も私たちの心に響き続ける。

長江の流れは今日も悠々と続き、かつて美周郎が見た景色を、変わらず映し出している。





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