赤壁の戦いが三国志の世界に与えた意義

赤壁の戦いが三国志の世界に与えた意義

三国志演義最大の見せ場と言えば赤壁の戦い。演義では多少誇張されているとはいえ、とても大切な戦いであったことは言うまでもありません。そこで、赤壁の戦いが三国志の歴史に与えた意義を様々な角度から検証してみるとしましょう。


「三国志」となった戦

「三国志」となった戦

「三国志」となった戦

赤壁の戦いは208年。官渡の戦いによって中原を制した曹操。中国大陸のために南下を進めるのですが、そこで最大の敵となったのが呉です。
呉と魏。この両者を比べれば魏の方が圧倒的な国力があったのは紛れもない事実ですし、魏とて「呉くらい簡単に攻められる」と思っていたでしょう。ですが現実的には大敗。これにより、曹操は対・呉に関して考えを改めなければならなくなってしまったのです。
そして劉備(玄徳)も健在。後述しますが蜀建国への流れと繋がりますので、この戦によって曹操が敗北したことにより、「三国志」となるのです。
もしもですが、ここで曹操が勝利していればその勢いで呉はあっという間に陥落していたことでしょう。すると、そもそも三国志という話ではなく、曹操の中国大陸統一の物語でしかないのです。
「三国志」などと名付けられるような展開になることもなかったでしょう。つまり、赤壁の戦いこそが「三国志」の基礎と言っても決して過言ではないのです。
もしも赤壁の戦いで呉・劉備(玄徳)の連合軍が勝利していなければ、桃園の誓いや関羽の逃避行、更には趙雲の長坂橋での獅子奮迅の活躍など、すべては明るみに出ることなく、歴史の流れに消えていたでしょう。
そもそも「三国志」という概念そのものが生まれていませんので、今日における三国志人気もなかったのではないでしょうか。

膠着状態への布石

膠着状態への布石

膠着状態への布石

赤壁の戦いによって曹操は大敗北を喫します。これにより、先に対・呉戦線を見直さなければならないとお話しましたが、それだけではありません。現実的に大打撃を被ったのです。
兵士も減りましたし、物資とて大きな損害を被りました。
これにより、曹操は立て直しを迫られたのです。それまでも曹操は決して連戦連勝を繰り返していた訳ではありません。時には自身の生命に関わるような危険な状況もあったでしょう。
ですが、まだまだそこまで曹操の精力そのものが大きい時ではありませんでしたので、立て直しも容易でした。ですが赤壁の戦いの時には曹操は既に中国大陸の半分を手に入れていたのです。
つまり、赤壁の戦いには全てではないにせよ「中国大陸の北半分の兵士」が投入されたと言っても過言ではないのです。それらが大打撃を受けたのです。
ちょっとやそっとではなかなか立て直しが出来なくなるのも頷けるでしょう。また、これによって曹操は呉に関しては国境を固めることにして漢中方面に繰り出すことになったのです。そこでも後に劉備(玄徳)に負けることになるのですが、赤壁の戦いはいわば三国鼎立のための膠着状態を生み出すきっかけになった戦いと言っても過言ではないでしょう。実際、この戦以降、三国鼎立の機運が高まるのですから。

蜀建国への流れ

蜀建国への流れ

蜀建国への流れ

赤壁の戦い当時、劉備(玄徳)はいわば流浪の身でした。劉表を頼ったものの、劉表も病死。これによって曹操軍が南下してくることになります。後に皇帝になるとはいえ、当時の劉備(玄徳)は今でいえばニートに近い状況だったのです。
ですが赤壁の戦いによって呉に協力したことによって劉備(玄徳)の名声が蜀にまで届くことになったのです。当時蜀を収めていたのは劉章。劉備(玄徳)とは遠い親戚とも言われていますが、お世辞にも有能な太守とは言えませんでした。そんな劉章に見切りを付けた家臣がいたのも、赤壁の戦いでの劉備(玄徳)の活躍を聞いたからこそ。劉備(玄徳)であれば蜀を預けても良いのではないか。そのような機運が高まったのです。
むしろニートだからこそ、「太守でもないのにあそこまで曹操と戦えるなら、この土地を預けたら曹操に屈する必要はない」と考える家臣たちが多かったのも納得出来るのではないでしょうか。
もしも赤壁の戦いで劉備(玄徳)が負けていたら、当時蜀を収めていた劉章の家臣たちも「劉備(玄徳)に任せよう」とは思わなかったのではないでしょうか。いわば劉備(玄徳)備が勝利したからこそ「この国を預けるべき人間なのではないか」となり、やがては三国鼎立の流れとなるのです。言うなれば劉備(玄徳)にとって赤壁の戦いは蜀奪取のための試験も兼ねていたと言っても大げさではないのです。

見せ場が出来たおかげで…

見せ場が出来たおかげで…

見せ場が出来たおかげで…

これは当時というよりもその後の展開ですが、三国志演義に於いて最大の見せ場であることからも分かるように、その後の三国志の象徴的な合戦となったのです。
それもそのはず、曹操の大群がやってくる。そこを迎え撃つ。しかも呉と、後に蜀となる劉備(玄徳)がタッグを組むのです。映画「レッドクリフ」でも見せ場となったように、三国志のいわば代名詞的な戦となっているのです。
もしもですが、赤壁の戦いで曹操が勝利していたら、先にもお伝えしたように、そもそも「三国志」という話そのものが生まれていたかも微妙ですし、更に言えば中原を制した曹操が南下して勢力を倒す。ドラマも何もありません。
大きい勢力が小さな勢力を併呑するだけの戦いでしかなくなっていたのですが、呉の勝利、つまりは小さい勢力側が勝利したことによってドラマとなったのです。
仮にですが、曹操が勝利していたら映画の題材になどなりません。
単純に曹操の天下統一のための戦の一つにしかなっていませんし、そもそも三国志が生まれたのかもわかりません。
ですが曹操にとっては痛手ではありますが大敗北を喫したことによって、現代人にも訴求出来るような話となったのです。商業的なことを考えると、仮に三国鼎立となっても赤壁の戦いがなければドラマもなく、そもそも三国志がここまで盛り上がっていたのかさえ分かりません。それを考えると、赤壁の戦いが現代人にとっても如何に貴重な物なのかが分かるのではないでしょうか。

まとめ

まとめ

まとめ

当時の人間たちにとってはもちろんですが、現代人にとっても赤壁の戦いがとても貴重なものであることが分かるのではないでしょうか。
赤壁の戦いは後に三国鼎立へと動くためにとても重要なものです。歴史的な意義はもちろんですが、今日では三国志のことをあまり知らない人にとっては代名詞的な存在としての存在感となっているのです。このように、現代社会に於いても大きな影響をもたらしているのです。赤壁の戦いが、様々な意味で有意義な戦であったという事実に反論出来る人はなかなかいないのではないでしょうか。





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