馬氏五常、白眉最良」~兄弟の中で最も優れた者~

馬氏五常、白眉最良」~兄弟の中で最も優れた者~

中国三国時代、馬氏5人兄弟は、みんな優秀な人物でした。その中で蜀の馬良が、最も才能があったそうです。そして、眉に白い毛が混じっていたことから「白眉」とあだ名され、「馬氏の五常、白眉最もよし」と称えられて、故事になりました。どうして、それほど優秀だったのでしょう? エピソードを見てみましょう。


馬良の白眉は、優れた人の象徴

馬良の白眉は、優れた人の象徴

馬良の白眉は、優れた人の象徴

「白眉」という言葉をご存知でしょうか。実はこの言葉、中国三国時代の一人の人物から生まれた故事成語なのです。その人物こそが、今回ご紹介する馬良(ばりょう)。蜀の名参謀として劉備と諸葛亮を支え、外交や内政で大活躍した人物です。
そんな馬良の人となりと功績が分かる、選りすぐりのエピソードを5つご紹介します。これを読めば、なぜ「白眉」が優れた人の代名詞となったのか、きっとご理解いただけるはずです。

馬氏の五常、白眉最もよし ~兄弟の中で最も輝いた星

馬氏の五常、白眉最もよし ~兄弟の中で最も輝いた星

馬氏の五常、白眉最もよし ~兄弟の中で最も輝いた星

後漢末期の荊州襄陽。名門・馬家には五人兄弟がいました。長男から五男まで、全員の字(あざな)に「常」の字が入っていたため、世間では「馬氏の五常(ばしのごしょう)」と呼ばれていました。
五人とも優秀でしたが、四男の馬良(字は季常)は格別でした。彼の最大の特徴は、眉の中に混じる白い毛。この珍しい容貌と、その卓越した才能から、人々はこう評しました。

「馬氏五常、白眉最良」(馬家の五兄弟の中で、白い眉の馬良が最も優れている)
単に「兄弟一番」というだけでなく、もともとハイレベルな集団の中で、さらに抜きん出ていることを示す最高の賛辞。この故事から、同類の中で特に優れた人や物を「白眉」と呼ぶようになったのです。
ちなみに末弟の馬謖(ばしょく)は、後に「泣いて馬謖を斬る」の故事で有名になりますが、それはまた別の話…。

諸葛亮を「尊兄」と呼んだ唯一の人物

諸葛亮を「尊兄」と呼んだ唯一の人物

諸葛亮を「尊兄」と呼んだ唯一の人物

馬良と諸葛亮(孔明)の関係は、単なる同僚を超えた特別なものでした。
劉備が益州(四川)攻略を進めていた頃、荊州に残っていた馬良は、雒城(らくじょう)陥落の知らせを聞き、諸葛亮に祝いの手紙を送りました。その手紙の中で、馬良は諸葛亮のことを「尊兄(そんけい)」と呼んでいます。

これは目上の人に対して「兄貴」のような親しみを込めた呼び方。通常、天才軍師・諸葛亮に対してこんな親密な呼び方をする人はいませんでした。しかし諸葛亮は一切不快を示さず、むしろ喜んだといいます。

歴史家の裴松之は、二人が義兄弟の契りを結んでいたのではないかと推測しています。冷静沈着な諸葛亮がここまで心を許した人物は、他にほとんどいません。諸葛亮は馬良を「私の右腕となってほしい」とまで言っていたそうです。

孫権を魅了した外交の達人

孫権を魅了した外交の達人

孫権を魅了した外交の達人

建安年間、蜀と呉の同盟関係を強化するため、馬良は呉の孫権への使者として派遣されました。
当時、荊州の領有を巡って蜀と呉の関係は微妙でした。一歩間違えれば戦争になりかねない緊張状態。そんな中での外交任務は、まさに針の穴を通すような難しさでした。

しかし馬良は、その洗練された礼儀と教養、そして誠実な人柄で孫権の心を掴みます。明晰な頭脳で蜀の立場を説明し、同盟の重要性を理解させ、見事に任務を成功させました。

孫権は馬良の人物を高く評価し、「このような人材を持つ劉備は侮れない」と改めて認識したといいます。単なる学者ではなく、実践的な交渉力と政治力を兼ね備えた人材だったのです。

異民族を味方につけた先見の明

異民族を味方につけた先見の明

異民族を味方につけた先見の明

劉備が関羽の仇討ちのため呉に向かう「夷陵の戦い」(222年)。馬良はここで重要な進言をします。
「この地域には武陵蛮という異民族がいます。私は以前から彼らと交流があります。彼らを味方に引き入れれば、戦いを有利に進められるでしょう」
劉備はこれを認め、馬良は見事に異民族の説得に成功。彼らは劉備軍に協力し、呉軍に対して奮戦しました。

このエピソードから分かるのは、馬良が単に中央政府の視点だけでなく、地方の実情や異民族の動向まで把握していたこと。そして彼らとの信頼関係を築く人間力を持っていたことです。現代でいえば、グローバルな視点を持つ国際派エリート官僚といったところでしょうか。

夷陵での壮絶な最期 ~忠節を貫いた文人の死

夷陵での壮絶な最期 ~忠節を貫いた文人の死

夷陵での壮絶な最期 ~忠節を貫いた文人の死

夷陵の戦いは、陸遜の火計により蜀軍の大敗に終わりました。劉備軍は総崩れとなり、混乱の中で撤退を余儀なくされます。

馬良は文官でありながら、最後まで戦場に留まり、敗走する味方部隊をまとめようと奮闘しました。しかし、呉軍に包囲され、ついに戦死。享年わずか36歳でした。

彼は逃げることもできたはずです。文官として後方に下がることも許されたでしょう。しかし馬良は、最後まで劉備への忠節を貫き、武将のように戦場で散ったのです。

もし馬良が生き延びていれば、その後の蜀の苦難の時代に、諸葛亮の右腕として内政・外交の両面で大きく活躍したことは間違いありません。彼の死は、蜀にとって計り知れない損失となりました。

なぜ馬良は「白眉」と呼ばれるにふさわしかったのか

なぜ馬良は「白眉」と呼ばれるにふさわしかったのか

なぜ馬良は「白眉」と呼ばれるにふさわしかったのか

馬良のエピソードを振り返ると、彼がなぜ「白眉」の代名詞となったのかがよく分かります。

人格者:誠実で教養があり、誰からも信頼される人柄
知性と教養:学識が深く、物事を深く洞察する力
実務能力:外交交渉や異民族対策など、理論だけでない実践力
人間関係構築力:諸葛亮から異民族まで、幅広い層から信頼を得る力
忠節:最後まで主君への忠義を貫く高潔な精神

「白眉」という言葉は、単に「兄弟で一番優秀」という意味を超えて、多方面で卓越した能力を持ち、人格的にも優れた理想の人物像を表す言葉となりました。

現代でも、組織やチームの中で最も優れた人を「白眉」と呼ぶことがあります。それは2000年前の馬良という一人の優れた人物の記憶が、今も私たちの言葉の中に生き続けているということ。歴史の重みと言葉の美しさを改めて感じさせてくれる、素晴らしい故事成語ですね。

馬良の「白眉」は、単なる容姿の特徴ではなく、その人物の内面の輝きを表す象徴でした。私たちも、外見だけでなく内面を磨き、真の「白眉」を目指したいものです。





この記事の三国志ライター

古代の雑学を発信

関連する投稿


馬氏の五常とまで呼ばれた馬良(季常)が目立たないワケ

優れて優秀な人物のことを「白眉」と呼ぶことがあります。この白眉というのは三国志に登場する馬良(季常)が由来だったことをご存知でしょうか。馬良(季常)は5兄弟の四男で「馬氏の五常、白眉もっとも良し」と言われた英才でした。しかし、現在では末弟の馬謖(幼常)のほうが良くも悪くも名前を知られていますよね。なぜでしょうか?


白眉

白眉は最も優れたものを表す言葉です。 正しく使って、相手が知っていれば、きっと賞賛の気持ちが伝わるでしょう。 例えば「君の仕事は、我が社でこなした数ある案件で白眉の出来だ!」とか?


今でも使う!?三国志が元となった故事成語

昔の中国でおこった出来事を元にしたことわざである「故事成語」。今でも多く使われています。これらの中には三国志中の出来事が元になったものもたくさんあります。それらを紹介していきます。


最新の投稿


長坂坡の橋で一喝 - 単騎、敵軍を睨み据える

三国志の数ある名場面の中でも、ファンに強烈な印象を残すのが「長坂坡(ちょうはんは)の戦い」での張飛のエピソードです。 「我こそは燕人張飛である!」――たった一人の叫びが、数万の曹操軍を押しとどめたと言われています。


錦の袋の三つの計 ― 周瑜の包囲を破る諸葛亮の知略

周瑜の罠に落ち、孤立無援の劉備軍。だが趙雲の懐には、諸葛亮が託した「錦の袋」があった。三つの計略が、絶体絶命の状況を逆転へと導く。


関羽・麦城に散る~義将の最期と孫権の裏切り

219年、関羽は北伐中に孫権の裏切りに遭い、荊州を失陥。麦城に追い込まれたが、援軍は届かず、脱出を試みるも捕縛される。孫権は処刑を決断し、関羽は義を貫いて散った。その死は劉備の復讐戦(夷陵の戦い)を招き、後世では「忠義の神」として信仰される。孤高の英雄の最期を描く三国志屈指の悲劇。


関羽の忠義と武勇を象徴する 関羽の千里行「千里走単騎」

三国時代、曹操の厚遇を受けながらも義兄・劉備への忠節を貫く関羽。劉備の居場所を知った関羽は、五つの関所を突破する千里の旅に出る。青龍偃月刀を振るい、様々な敵と戦いながらも「義」とは何かを問い続ける英雄の物語。現代にも通じる普遍的テーマですね。


空城の計 - 孔明最大の賭け 

三国志の名軍師・諸葛亮孔明が、街亭の戦いで敗れた後、追撃する魏の大軍を迎え撃つため、城門を開け放ち、悠然と琴を弾いて伏兵ありと見せかけた奇策が「空城の計」。敵将・司馬懿は疑心暗鬼に陥り退却したが実際は兵がおらず、虚勢で危機を脱した故事。『三国志演義』の創作だが、兵法三十六計の一つとして有名。フィクションでお楽しみ下さい