合肥の戦いで孫権を守り抜く
■ 合肥の戦いで孫権を守り抜く
合肥の戦いで孫権を守り抜く
劉備(玄徳)と孫権が共同戦線を張ることで、曹操へのプレッシャーとなっていきます。現に曹操は漢中へと進軍を検討しているとき、呉と対峙することになる合肥に張遼・李典・楽進を配しています。この3名は魏においても主力の将軍たちであり、戦力を割いてまでも孫権へのけん制を怠っていなかったといえます。ただし、3名に与えられた兵はわずか7,000名ほどであり、しかもこの3将軍は仲違いをしていました。
もとより呂布の武将だった張遼は、李典の親族を殺害している経緯もあるなど、お互いを敵視しているほどでした。曹操は念のために目付け役の監視として信頼をおく役人の薛悌を残していきます。
孫権は曹操が西方へと進軍したのを受けて、10万もの大軍で北上し、合肥に侵攻していきます。当然ながら合肥では籠城策が取られ、本国からの援軍を待とうという気配が成り立っていきます。
このとき、呉軍には楽勝で安堵の思いが漂っていました。逆に殺気立っていた合肥城では、目付け役の薛悌からすでに預かっていたという曹操の命令書を開封していました。そこには、張遼と李典は城から迎撃し、楽進は薛悌を守って戦ってはならないと記されていました。
7千対10万という桁違いの戦力差に打って出るという選択は意外ですが、張遼は曹操の意図を汲み、ここで自分たちが退いたら西方の進軍も危ぶみ、本国も助からないとして、決心を促します。過去のいきさつを忘れて一丸となった3将軍は、団結して孫権に立ち向かう決意を固めます。
猛将・張遼の前に大苦戦
■ 猛将・張遼の前に大苦戦
猛将・張遼の前に大苦戦
合肥城に近づくにつれて、呉の将兵には楽観モードとなっていました。さすがの呂蒙や呉の将軍たちも、この戦力差では打って出ることはないだろうと推測してしまいます。張遼は出鼻をくじくために、決死隊を募り、800名を集めました。兵たちに肉と酒を振る舞い、明け方に自ら先頭となって呉の大軍めがけて突撃をしていきます。
いきなりの突撃に呉は大混乱になってしまいます。だれもが優勢のときには命を惜しんで必死に戦おうとしませんが、逆の立場になると、生きて帰るにはとにかく目前の敵を一人でも切りつけるほかありません。怯みきった呉の大軍は、張遼たちを包囲しますが、それを抑えることができずにいました。
呉の武将である陳武が討ち死に、徐盛が重傷を負い、呉軍は張遼に突破されていきます。張遼は孫権の本陣にたどり着き、呂蒙たちは決死となって陣の立て直しに躍起となってしまいます。孫権は自ら武器を持って応戦しますが、張遼が近づくと慌てて退散しています。
張遼は目立つ格好をした将を見つけますが、それが孫権とは気づかずに取り逃がしてしまいました。この張遼の猛攻撃にさすがの孫権たちも後退せざるを得ず、張遼は意気揚々と引き揚げていきました。
これで士気が上がった合肥城に対し、孫権陣営は意気消沈してしまいます。孫権は合肥城を包囲し、力攻めで落とそうと試みます。しかし、今度は懸命に守り抜き、孫権陣営に疫病が流行しだしたことを受け、開戦から10日後に撤退を決意しています。
孫権は退却時、なぜか殿の位置にまで来ていました。よほど悔しかったといえます。張遼はこの機をおいて呉軍を追い詰めようと、追撃していきます。孫権を守るのは1000名ばかりの近衛兵と呂蒙や甘寧、凌統といった歴戦の将軍たちでした。
呂蒙は張遼軍を凌ぎますが、勢いは抑えきれず、孫権は退路の橋も焼かれていました。たちまち追いつかれそうになりますが、呂蒙や凌統らが身を挺して守り抜き、孫権が愛馬とともに谷を飛び越えて何とか脱出することに成功しています。
濡須口の戦いで曹操軍を破る
■ 濡須口の戦いで曹操軍を破る
濡須口の戦いで曹操軍を破る
漢中を支配した曹操は、夏侯淵や張コウに後を任せ、孫権討伐のために一旦帰参します。曹操は許昌で体制を整え、217年に自ら大軍を率いて濡須に進出しました。先の戦いで功績のあった張遼を筆頭に、今度は逆の立場で戦うこととなっています。
曹操軍の急襲を受けて、孫権は慌てて軍を編成します。しかし、間に合わずに曹操軍の圧勝に終わり、濡須口まで進出されてしまいます。この間に孫権は呂蒙を総大将として迎え打たせます。曹操は軍のみではなく、東の山越族まで動かし、孫権をけん制していきます。
この計略は成功したかに見えましたが、まだ若き陸遜によって、山越族は撃退されています。曹操軍の先鋒隊が到着すると、そこには張遼の姿がありました。先の戦いでその恐ろしさをまざまざと見せつけられた呉軍でしたが、今度は呂蒙が作戦として保塁の上に強力な弩兵を1万構えており、一斉射撃をすることで張遼を防いでいます。
天候が大雨にとなり、大軍を率いている曹操は進撃するか否かで悩みますが、即座に退却を決断しています。これは雨による疫病の心配と、呂蒙に出鼻をくじかれたので、他の計略を警戒していることが挙げられます。
呂蒙はこの雨で曹操の本陣が退却していることに気付き、先鋒隊めがけて突撃をしていきます。しかし、事前に曹操の決断を把握していた張遼らによって追撃することが叶いませんでした。この戦いを経て、孫権は一時曹操と手を組み、降伏の意思を示しています。これは荊州奪取の算段でもありました。
仲間を思いやり、礼節を重んじた呂蒙
■ 仲間を思いやり、礼節を重んじた呂蒙
仲間を思いやり、礼節を重んじた呂蒙
呂蒙は自らが出世することもあって、時にはあらぬ理由で密告されることもありました。孫権の耳にそれが入り、問いただされますが、一向に気に留めず、逆に仕事熱心だった密告者を取り立てて太守に推薦する気配りも見せています。たとえ自分の不利に陥ることがあっても、呉のためなら一向に気に留めない呂蒙の器の大きさに感嘆したといいます。
また、孫権軍において甘寧と凌統の険悪さは問題となっていました。呂蒙は間に入って仲裁することがあり、特に甘寧にいたっては家族ぐるみの付き合いをしていました。甘寧は粗暴を働き、しばしば孫権から怒られることがあったといいますが、そのたびに呂蒙が間に入ったので、甘寧は頭が上がらなかったといえます。
魯粛の後継者となって関羽と激突していく
■ 魯粛の後継者となって関羽と激突していく
魯粛の後継者となって関羽と激突していく
呉の大都督を歴任していた魯粛が亡くなると、呂蒙が推薦されます。孫権は学者の厳畯を陸口に赴任させようとしていましたが、自ら辞退したこと経緯もあり、呂蒙の名を挙げます。もとより魯粛は自らの後任として呂蒙を挙げていたといいます。呂蒙は魯粛の将兵を自らの配下とし、1万の軍を独自で持つことになりました。
劉備(玄徳)穏健派の魯粛が亡くなったことを受け、事態は急速に変化していきます。呂蒙は荊州の関羽に照準を定め、計略を練っていくことになります。