三国志最高の軍師・諸葛亮、その死因は…過労死!?
■ 三国志最高の軍師・諸葛亮、その死因は…過労死!?
三国志最高の軍師・諸葛亮、その死因は…過労死!?
たくさんの英雄や武将が登場する三国志ですが、中でもいちばん大きな存在感を放つのは、三国(魏・呉・蜀)の王である曹操・孫権・劉備(玄徳)よりもむしろ、劉備(玄徳)の部下で政務を一手に担った諸葛亮だと言っても過言ではないかと思います。筆者は、三国志の内容は知らなくても諸葛亮(孔明)という名前だけは子供の頃から知っていました。
ところで、諸葛孔明という呼び名を聞いたことがある方は多いと思いますが、諸葛亮とどこが違うのかというと、「亮」は字(呼び名)で、「孔明」が名前なんですね。なので、基本的に呼ぶときは「亮」と呼んだはずです。これは日本の戦国武将にも通じます。
日本人は働きすぎだとよく言われます。過労死という言葉も常に話題になりますね。
その過労死が、今から約1800年も前に、しかもこの諸葛亮に起きていたんです。そんなに働く必要があったんでしょうか。となれば、どうして?そんな疑問を、彼の人生と共に見ていきたいと思います。
生涯の主君・劉備(玄徳)との出会い
■ 生涯の主君・劉備(玄徳)との出会い
生涯の主君・劉備(玄徳)との出会い
諸葛亮を語る上で欠かせないのが、主君・劉備との出会いです。
荊州(湖北省)で悠々自適の生活を送っていた彼ですが、その知謀は大したものだという評判が立ち、「臥龍」と呼ばれていました。伏した龍、すなわちまだ才能を発揮していない人材ということです。
それを聞きつけた劉備は、当時、有能な人材が喉から手が出るほど欲しくてたまりませんでした。ライバルとなる曹操や孫権にはたくさんのブレーンがいましたが、劉備にはバックグラウンドとなる故郷もなく、人材不足だったんです。
さて、劉備は諸葛亮を部下にするべく、その庵をたずねました。しかし不在。次も不在。ようやく会うことができたのは、3回目の訪問でのことでした。
ここで諸葛亮は、劉備に「天下三分の計」を説きます。簡単に言えば、中国全土を三分割し、曹操・孫権・劉備で分けて、まずは孫権と組んで強い曹操に対抗するというものです。そしてやがては劉備が曹操を討って、漢王朝を再興するというものでした。
劉備は「なんとすごいアイディア!」と諸葛亮を即採用します。3回も主の方から訪問して迎えたこの故事が、「三顧の礼」というわけです。
「正史」と「演義」、諸葛亮の役割がちょっと違う
■ 「正史」と「演義」、諸葛亮の役割がちょっと違う
「正史」と「演義」、諸葛亮の役割がちょっと違う
さて、劉備(玄徳)の配下に加わった諸葛亮ですが、彼に関しては「政治家・外交官」という面と、「軍師」という面の2つが伝わっています。
どちらかといえばポピュラーなのは軍師という側面なのですが、実はこれは三国志演義によるところが大きいんですね。
三国志演義はあくまで史実に基づく創作なので、色々と有り得ないような話も出てきます。例えば曹操軍との赤壁の戦い、これは諸葛亮が風を吹かせて火を敵の船に燃え移らせて大勝したとなっていますが、これは史実ではありません。
また、諸葛亮が自分の寿命を延ばすために祈祷をしていたというのも、演義での話です。
演義での諸葛亮はほぼ主役の扱いなので、その力ももはや超人です。これを信じてしまうと、正史(歴史書として伝わっているもの)での彼の人物像とはちょっと違ってきてしまうんです。
政治家・諸葛亮のプロフェッショナルな仕事
■ 政治家・諸葛亮のプロフェッショナルな仕事
政治家・諸葛亮のプロフェッショナルな仕事
では、正史での諸葛亮はどうだったのでしょうか?
劉備(玄徳)に仕えるようになった彼は、まず孫権の呉と同盟を結ぶために自ら乗り込んでいきます。そこで立て板に水のごとき弁舌で孫権をうならせ、見事に同盟を成立させ、赤壁の戦いでは劉備(玄徳)・孫権連合軍が曹操を破ったのでした。
その後、劉備(玄徳)は益州(四川省)に領地を得て、蜀を建国します。ここで諸葛亮は丞相という官職に任命されますが、これはいわゆる首相ですね。
ところが、諸葛亮の仕事はこれにとどまりませんでした。彼はとても几帳面で公正な人だったので、どんなに小さな悪事も善事も見落とさず、賞罰を徹底したのです。なので、全部自分でチェックしないと気が済まない性質だったのです。だからどんどん仕事が増えていくわけなんです…。
それだけではなく、彼がやった仕事は、首相と法務大臣と外務大臣と財務大臣、時々防衛大臣みたいなものでした。ひとり内閣府だったのです。これでは寝る暇もありません。
私が蜀を守る!使命感に燃えまくる
■ 私が蜀を守る!使命感に燃えまくる
私が蜀を守る!使命感に燃えまくる
そんな中、劉備(玄徳)が志半ばで亡くなってしまいます。後を継いだ劉禅という息子は、出来が微妙だったために諸葛亮の負担はいっそう増しました。実務だけでなく、これから先この不出来な劉禅と蜀はどうなるのかという心労もあったでしょうね。
それでも、自分を取り立ててくれた亡き劉備(玄徳)の恩に報いるため、魏(この頃は曹操も亡くなっています)を討たねばという使命感に諸葛亮は燃えていました。そして、今度は自ら軍を率いて魏へと討って出たのです。これを北伐と言いますが、7年の間に5回も行っています。もちろん、戦へ出ていても政務も見ていたわけで、ワーカホリックを通り越してもはや怖いくらいですよね。
そんな戦いはことごとく失敗してしまいます。演義の諸葛亮は天才軍師ですが、どうも実際の彼は政治の天才ではあっても戦の天才ではなかったようです。
責任感ありすぎの天才だったがゆえに…すべてを背負いすぎた最期
■ 責任感ありすぎの天才だったがゆえに…すべてを背負いすぎた最期
責任感ありすぎの天才だったがゆえに…すべてを背負いすぎた最期
休む暇もない日々の中で、やがて諸葛亮は健康を害します。
彼の激務ぶりは、「早朝から夜中までずっと働き、食事は少ししか摂らず、小さな刑罰でも自分で裁いている」という記述からも推測でき、これを聞いた魏の敵将・司馬懿は、諸葛亮は長くないぞと予想したほどなんです。
そして司馬懿の予言は当たり、彼との戦を行った五丈原において諸葛亮は亡くなりました。54歳でした。
彼の死因については、これというものは伝わっていません。しかしどう見ても過労死じゃないかと思います。私たちの想像も及ばないストレスにもさらされ続けていたわけで、ストレスが健康をむしばむという実例だと思ってしまいますね。
ところで、演義での諸葛亮もまた、大筋では働きすぎというところではあります。しかしその割に、南方へ遠征して魔術で敵をやっつけ大活躍し、何だかとても生き生きとしています。そんなところがあるので、正史ほどの張りつめた悲壮感がないように思えるんですが、いかがでしょうか。
まとめ
■ まとめ
まとめ
有能すぎたがゆえに、何でも自分でできてしまった諸葛亮。そして何でもできるからこそ彼の仕事ぶりは常に最高であり、他の人に任すことはできなかったんでしょうね。完璧主義者の悲哀を感じます。みんなで分担しようなんて現代的な発想はなかったでしょうし、毎日が生きるか死ぬかの時代に、仕事のシステムまで考える余裕はなかったのだと思います。また、蜀の人材不足も残念な事実でしたので…。魏の人材をもう少し分けて!そんな思いに駆られてしまいます。