とんでもない弓の名手
■ とんでもない弓の名手
とんでもない弓の名手
太史慈(子義)は身の丈が七尺七寸(約177センチ)という高身長で三国志の中でも相当強いとされている武将の一人です。呂布(奉先)とまではいかないまでも、関羽(雲長)、張飛(翼徳)に匹敵するのではないかというほどの戦闘力がありました。その中でも最も得意とされていたのが弓矢です。太史慈(子義)は超がつくほどの弓の名手で弓を扱えば百発百中と言われているほどでした。
その中でも最も有名なエピソードは砦の上から太史慈(子義)に対して挑発した賊に向けられた矢です。諸説様々ありますが、一説ではその族が手を掴んでいた木ごと射貫いたことがあると言われています。
それほど矢の名手だったので敵としてみたら距離を置いても驚異と考えるほかなかったことだと思います。距離をとっても矢で射られる、近くで戦っても武力があって斬られてしまう。そんな太史慈(子義)とは戦いたくないと思った武将が多かったことでしょう。
太史慈(子義)が名を馳せた訳
■ 太史慈(子義)が名を馳せた訳
太史慈(子義)が名を馳せた訳
太史慈(子義)が名を馳せたのは自分の母親の面倒を見てくれた孔融(文挙)が黄巾賊の残党に責められた時です。彼の恩に報いるため救援に向かいました。その際に場外で弓の練習をして敵兵から注目を集めるようになったのです。しかし毎日弓の練習しかしない為敵からしてみたら「今日も練習をしているのだろう」と思う訳です。そして相手が油断しているところに単騎で乗り込み敵陣を突破することが出来ました。その後劉備(玄徳)に救援要請し、敵軍を倒すことに成功したのです。
この一連の流れは彼にただ単に弓が凄いだけという考えられ方から作戦をきちんと立て単騎で斬り込むことが出来るということを証明しました。
その際の実力と武勇がいわば都市伝説化し、彼の武力が三国随一だと思われたのでしょう。
孫策(伯符)とのバトル
■ 孫策(伯符)とのバトル
孫策(伯符)とのバトル
太史慈(子義)のバトルにおいて切っても切り離せないのが孫策(伯符)との一騎打ちです。偵察任務を行っていた際に孫策(伯符)にばったりと出くわしてしまい、一騎打ちを挑みました。本来孫策(伯符)は総大将という立場なので一騎打ちを受ける訳がないと思われていました。しかし腕っぷしに自信がある孫策(伯符)は一騎打ちで負け時のデメリットも考えず一騎打ちを果たしてしまったのでした。お互い武力が強く結局勝負はつきませんでした。
三国志でよく一騎打ちをしたという話はよく聞きますが、実際に一騎打ちをしたという記述は正史にはあまりありません。しかし太史慈(子義)と孫策(伯符)の一騎打ちは実際行われていたとされています。
このレア中のレアな戦いは後の三国志において大きな影響を表すことになったと言っても過言ではないでしょう。
孫策(伯符)に仕える
■ 孫策(伯符)に仕える
孫策(伯符)に仕える
孫策(伯符)と一騎打ちを行った太史慈(子義)はその後自ら小さな軍閥を作ることになります。しかし小さい軍だったのですぐに捉えられてしまいました。その軍を捉えたのが孫策(伯符)の軍でした。孫策(伯符)は太史慈(子義)と一騎打ちをしたことを覚えており、「あの時自分があなた(=太史慈(子義))に捕らえられていたら同じことをしていただろう」と言ってなんと太史慈(子義)の縄をほどいてしまったのです。
この時の孫策(伯符)の行動はあっぱれというしかありませんが、太史慈(子義)も彼の心意気に惚れ孫策(伯符)に忠誠を誓うのでした。
太史慈(子義)はどんな些細なことでも受けた恩は必ず返すという清々しい男だったので人望もありました。そんな太史慈(子義)だから孫策(伯符)もすぐに彼を将軍に任命し、兵を預けることが出来たのです。
孫権(仲謀)に仕える
■ 孫権(仲謀)に仕える
孫権(仲謀)に仕える
さて、この太史慈(子義)ですが、あまりにも評判が良かったため曹操(孟徳)がヘッドハンティングしようと手紙を送るほどでした。しかし孫策(伯符)亡き後も呉の総大将である孫権(仲謀)に仕え主に南方の抑えとしてなくてはならない存在として君臨していたのです。
戦闘力が突出していて、人望があり、忠誠心も問題ない。こんな条件を兼ねそろえた人物はなかなかいなかったことでしょう。孫策(伯符)が孫権(仲謀)に対して残した最高の軍師が周瑜(公瑾)であるのであれば同じく最強の将軍は太史慈(子義)と言えるかもしれません。
受けた恩義を返すためなら命を捨てるという精神は男でも惚れてしまうことでしょう。
正史と三国志演義の違い
■ 正史と三国志演義の違い
正史と三国志演義の違い
さて、正史と三国志演義には大きな違いがあることをご存知でしょうか?三国志演義は小説なのでいろいろな事が誇張して書かれている面が多くあります。そしてこの太史慈(子義)についても正史と三国志演義には違いがいくつかあります。その中でも決定的な違いは赤壁の戦いの際の記述です。
太史慈(子義)が亡くなったのは206年とされています。つまり208年に赤壁の戦いが勃発した際にはもうすでにこの世にいないということになります。しかし、三国志演義では赤壁の戦いで大いに活躍したとされています。
赤壁の戦いの翌年、合肥の戦いで張遼と闘い、そこで傷を負い死去しています。これは日本の吉川英治が手掛けた小説『三国志』でも同じように書かれていますが正史とは違うのです。
恐らく太史慈(子義)が生きていたらという想像で赤壁の戦いを表したく、さらに死に際も太史慈(子義)に匹敵する戦闘力の持ち主張遼(分遠)にやられるのがベストな引き際だと思われたのではないでしょうか?
いずれにせよ死に際を変えたくなるほど魅力のある将軍だったということだと思います。彼は41歳でなくなりましたが、もしもうちょっと生き延びていて赤壁の戦いに参加し、合肥の戦いにも出陣したとなれば持ち前の弓能力で張遼(文遠)を射貫いていた可能性もあります。そうなれば歴史は大きく動き三国を統一していたのは呉だったのかもしれませんね。
まとめ
■ まとめ
まとめ
以上太史慈(子義)についてまとめましたが彼の生き様が伝わったでしょうか?恩を必ず返す。それも10倍にしてという感じで是非とも部下にしたいこと間違いなしですよね。こういった恩義に対し命を懸けて返すほどの忠誠心というのはいつ見ても気持ちのいいものです。
この記事を読んでいただき、「三国志の将軍の中で太史慈(子義)が一番好き!」という人が一人でも増えたら大変うれしく思います。