曹操の最初の正室「劉夫人」
■ 曹操の最初の正室「劉夫人」
曹操の最初の正室「劉夫人」
三国志に登場する数々の英雄たちの中でも抜きんでた器量を誇る曹操は、政治や戦争だけでなく芸術面でもマルチな才能を発揮しています。
はたして、そんな曹操が選んだ女性とはどのような人だったのでしょうか。
曹操の最初の正室は「劉夫人」だと記されています。
子供にも恵まれおり、「曹昂」がそのひとりです。曹昂は曹操に従軍していましたが、197年に降伏した張繍の裏切りにあって戦死しています。曹昂は、20歳で孝廉に推挙されたといいますから、彼が生まれたのは177年以前ということになります。曹操は155年生まれですので、22歳には正室を迎えていたことになりますね。黄巾の乱が起こる前になりますので、頓丘県令を務めている頃かもしれません。
劉夫人がどのような人物だったのか不明です。姓から推測するに、皇族や王族の血筋だった可能性があります。曹昂の他にも息子、娘を産んでいます。おそらく曹操にかなり愛されていたのではないでしょうか。しかし劉夫人は早くに亡くなってしまいます。そのとき、曹操はどれほど悲しんだことでしょうか。
曹操の二番目の正室「丁夫人」
■ 曹操の二番目の正室「丁夫人」
曹操の二番目の正室「丁夫人」
劉夫人が早くに亡くなったために、次の正室に選ばれたのが「丁夫人」になります。どのような身分であったのかは不明です。残念ながら曹操との間には子供ができませんでした。丁夫人は前妻の子である曹昂を我が子だと思って可愛がって育てたそうです。曹操が選んだだけのことはあり、かなり芯のしっかりした女性だったと思われます。
197年に曹操に従軍した曹昂が戦死しますが、このとき曹操は降伏した張繍の族父の未亡人を妾にし、油断した隙を突かれたのです。曹昂は父である曹操に馬を譲り、曹操を逃がすために自分の命を犠牲にしました。曹操はハニートラップに見事に引っかかり、大事な嫡男を失うことになってしまうのです。
理由も理由だけに、丁夫人は号泣し、私の子を殺したと曹操を罵り、曹操のもとを去ります。曹操としては扱いに困り果て、親元に丁夫人を帰したわけです。別居状態ですね。その後、曹操は自らの非を認め謝罪に訪れましたが、丁夫人はそんな曹操を完全にシカトしたといいます。そして正室としての立場を捨てるのです。とにかく、絶対に曹操だけは許さないという主張が伝わってきますね。
曹操の三番目の正室「卞夫人」
■ 曹操の三番目の正室「卞夫人」
曹操の三番目の正室「卞夫人」
劉夫人が早くに亡くなり、丁夫人が離婚したことによって正室の座が空きます。ここに指名されたのが早くから寵愛を受けていた「卞夫人」でした。
曹操の妻としてもっとも有名なのが彼女でしょう。この後、曹操が没するときまで正室の座を守り続けました。魏の皇帝に即位する曹丕の母親でもあります。他にも猛将として畏れられた曹彰や詩聖として名を馳せる曹植の母親です。子供たちの能力がそれぞれ高かったことから卞夫人もかなりの器量だったことがうかがえます。
しかし卞夫人はかなり身分が低い出身だったようです。もともとは歌妓で、曹操の目に留まり179年から側室となっています。当時は20歳でした。もしかすると劉夫人を失ったショックを和らげてくれたのが卞夫人の奏でる音色や舞いだったのかもしれません。
歌妓の立場から曹操の側室となり、やがて正室に、そして曹操が魏王となるや王后となり、息子が皇帝となると皇太后となっています。三国志に登場する女性の中でもっとも出世したのが卞夫人なのです。諡号は「武宣皇后」です。
卞夫人の器量を物語るエピソード
■ 卞夫人の器量を物語るエピソード
卞夫人の器量を物語るエピソード
出自が歌妓ということで派手でイケイケなイメージのある卞夫人ですが、実は真逆なタイプで、非常に倹約家で、とても礼儀正しく、賢かったと記されています。
客を招待しても肉や魚といった料理を出すことはなく、野菜や粟飯でもてなしました。曹操は序盤に多くの戦を繰り返し行っていますが、常に兵糧不足の危機に瀕しています。倹約することは生き残るために欠かせぬ心構えだったのではないでしょうか。卞夫人はそれを忠実に実行することができました。
曹操は珍しい宝物を手に入れるとひとつだけ卞夫人に選ばせましたが、卞夫人は必ず中級品を選びました。欲深い女と曹操に思われることを避け、かといってわざとらしく価値の低い物を選ぶのも疑いを招く恐れがあったためです。リスク管理ができるかなり用心深い女性だったことがわかります。
さらに卞夫人の株を上げたのは、追い出された丁夫人への対応です。卞夫人は正室となった後も丁夫人を尊重しています。曹操の不在時には時折招待していますが、上座に丁夫人を座らせました。以前は身分の卑しい卞夫人に対し意地悪が多かった丁夫人ですが、卞夫人の変わらぬ待遇に感動し、感謝するようになりました。丁夫人が亡くなった際には卞夫人が埋葬の許可を曹操に願い出ています。
自分が産んだ子以外も平等に養育し、曹丕が正式に太子に選ばれた際にも特別喜ぶことなく、周囲からの祝いの言葉に対しても、ただ年長だからだときっぱりと答えたそうです。冷酷な曹丕もこの母親にだけは逆らうことができなかったようで、曹植を処刑しようとした際には母である卞夫人に止められて断念しています。
ちなみに曹丕の没後も健在で、孫である曹叡が皇帝に即位した際には太皇太合となりました。
まとめ・曹操と魏を支えた卞夫人
■ まとめ・曹操と魏を支えた卞夫人
まとめ・曹操と魏を支えた卞夫人
苦難の連続であった序盤の頃の曹操を支え、曹家を皇帝になるまでに盛り上げたのが卞夫人でした。まさに魏の屋台骨であり、魏の建国に貢献した英雄のひとりといえるでしょう。
想像するにかなりの美貌だったと思われますが、曹操はその容姿以上に卞夫人の人柄や能力に惚れていたのではないでしょうか。人の能力を見抜く力がずば抜けていた曹操に長く認められていたわけですから相当な器量の持ち主です。
女性の立場で語られる三国志があるとすれば、主役は間違いなく彼女でしょう。
ただし卞夫人ほどの女性をもってしても、息子夫婦である曹丕と甄夫人の仲を修復することはできませんでした。この影響が卞夫人没後の曹叡(明帝)の暴走に繋がっていくことになります。そして曹家の力は、司馬懿の一族によって次第に弱められていくのです。
卞夫人の跡を継げるほどの女性がいれば、魏は滅亡することがなかったかもしれませんね。