将軍 魯粛 三国志
■ 将軍 魯粛 三国志
将軍 魯粛 三国志
魯粛は小説や漫画やゲームでは 三国志 時代、呉の国の政治家のように書かれることが多いです。孫権や周瑜に献策はするけど、自分では剣や槍を持って兵を率いたりはしていないイメージが強いです。ですが、史実の魯粛は「奮武校尉」という軍事上の役職についています。そして、自ら一万人の兵を江陵から陸攻に移したりしています。自分で軍を率いて、指揮をとり、戦争となれば先頭切って敵軍を迎え撃つ将軍職についていたのです。戦争となれば外交の問題は必ずついてくるので、政治家の面ももちろんあったのですが、我々の強く持つイメージ「文官」よりも「武官」の側面のほうがずっと強い人物なのです。
周瑜へ倉一つをまるごと寄付
■ 周瑜へ倉一つをまるごと寄付
周瑜へ倉一つをまるごと寄付
魯粛の特徴の一つとしてあげられるのは、彼は非常に金持ちの生まれでありました。正史にも「非常に裕福な豪族のもとに生まれた」とあります。そして、魯粛は「施しを盛んにし、財産をなげうってまで困っている人を助け、人々と交わりを結んだ」となっています。この辺りも演義で良い人と書かれることにつながっているのかもしれません。若い頃の魯粛にとんでもないエピソードが一つあります。周瑜が県長をやっていた時、魯粛の元に挨拶に行き、食料や軍需物質の援助を求めました。そうしたら魯粛はポンと持っている二つの倉の内、一つを与えたそうです。それ以降周瑜は魯粛を認め、親交を結んだそうです。金持ちなだけでなく、たいそう気前の良い人物であったのですね。
見る目のあった主君選び 魯粛 三国志
■ 見る目のあった主君選び 魯粛 三国志
見る目のあった主君選び 魯粛 三国志
魯粛は名声が高まると袁術に請われて配下に加わりました。ところが、正史でも演義でもワースト3に入りそうな君主袁術の元にいつまでも魯粛がいるわけがありません。すぐに出ていきます。正史にも「支離滅裂な袁術の行状に見切りをつけて」とあるくらいです。魯粛は出ていった後、一族の者たちを引き連れて周瑜の元に行きます。そして、長江を渡り、孫策の元にたどり着くのです。孫策もまた魯粛の才能や人柄を気に入りすぐに取り立て、重用しました。
その後、魯粛の祖母が死去し、母親を迎えに行ったりしていると同じ頃に孫策が暗殺されてしまいました。その頃に友人の劉曄から手紙が来て「鄭宝」という人物の元に行くように進められました。魯粛自身も一度はそうしようとしましたが、今度は周瑜から連絡が入り、孫策の後を継いだ孫権も大人物だと説得を受け、孫権に仕えることにしました。
間もなく滅ぼされる偽帝袁術や小豪族ではなく、後に皇帝にまでなる孫権の元で仕えるようになった、非常に先見の明が魯粛に備わっていたと言えます。
劉備(玄徳)との同盟〜赤壁の戦い
■ 劉備(玄徳)との同盟〜赤壁の戦い
劉備(玄徳)との同盟〜赤壁の戦い
魯粛や周瑜が孫権のサポートをして江東で勢力を伸ばしている間、曹操が中国全土の十三の内十の州(司隷/幽州/冀州/并州/青州/徐州/兗州/予州/涼州/荊州)を勢力下に置きました。そして、次のターゲットとして孫権が本拠地としている揚州に狙いをつけました。戦争の基本、まずは降伏勧告を孫権に対して送ります。揚州は大変な騒ぎになります。
・孫策から引き継がれてきた江東(揚州)の地をむざむざと曹操にわたしてなるものか。断固抵抗だ。
・でも、曹操軍は強いし、戦争になれば民が犠牲になる。それよりかは降伏しよう。
どちらももっともな意見であり、決着はつきません。ただ、降伏論のほうが強かったようです。そんな中、魯粛は周瑜とともに曹操との戦争を主張します。その時に魯粛は次のように言っています。
「我々家臣は曹操に降伏しても今と同じ地位をもらって、同じ生活が出来るでしょう。ですが、主君であるあなたはそうはいきません。降伏を主張している者たちはあなたのことを考えてではなく自分のことだけを考えているのです。」
孫権が納得していることから、これは当時の普通の考え方だったのでしょう。つまり魯粛は自分の立場より主君の立場を考えて、意見を出していたのです。
そして、劉備軍の諸葛亮と親交を結び、孫権・劉備(玄徳)の同盟軍を結成し、曹操軍と相対することになったのです。赤壁の戦いの開幕です。残念ながら史実のこの戦いには黄蓋の苦肉の策も龐統の連環の計も大掛かりな火計も出てきません。「疫病が流行ったので曹操軍は都に退却した」とあるのみです。ですが、魯粛が周瑜・程普とともに軍勢を統率し、曹操に長江を渡らせず、魯粛が作り上げた孫権・劉備(玄徳)の同盟が曹操軍を牽制していたのは間違いありません。
戦いの後、孫権が魯粛に対してねぎらいの言葉を送ろうとすると
「不十分です。あなたが天下統一し、皇帝になって初めて私は報われるのです。」
と言いました。一つの勝利に決しておごらない素晴らしい言葉です。
外交勝負 荊州攻防戦
■ 外交勝負 荊州攻防戦
外交勝負 荊州攻防戦
赤壁の戦いの後、劉備(玄徳)は零陵/桂陽/武陵/長沙/南郡と言った荊州南部の土地をどんどん攻め取っていきます。このことに対して、周瑜は劉備(玄徳)を倒して荊州を自分たちのものにするように主張します。対して魯粛は曹操という大敵を倒すために、劉備(玄徳)にある程度力を与えて、共同戦線を張る形を取るべきだと主張します。どちらが良いかは比べようがありませんが、孫権は魯粛の主張を採用し、劉備(玄徳)に荊州を貸し与えるという形をとります。周瑜の意見を退けてまで魯粛の意見が通ったということはいかに魯粛が信頼されていたかということです。
間もなく周瑜が死去します。意見の違いなどがありましたが、周瑜は遺言ですべてを魯粛に任せると伝え、孫権もその通りにします。やがて、劉備(玄徳)は益州に攻め入り、手に入れると、孫権は劉備(玄徳)に荊州を返せと迫ります。その時の交渉役、今で言う外交官が魯粛でした。演義では諸葛亮に翻弄され、関羽に恫喝されどうにもこうにも出来ない姿が印象的でした。しかし、実際には関羽と一対一で堂々と相対して、交渉によって長沙と桂陽の二郡を取り返します。魯粛は有能な外交官でもあったのです。
やっぱり本当は良い人 魯粛 三国志
■ やっぱり本当は良い人 魯粛 三国志
やっぱり本当は良い人 魯粛 三国志
魯粛の武勇や知略について語ってきましたが、魯粛は本当に良い人だったようです。
「魯粛は自分を飾ったりすることを好まず、質素であり、流行などには興味がなかった。軍を指揮する時は公正で、規律をよく守った」
と正史にあります。
また、孫策・孫権・周瑜・諸葛亮など三国志の英雄たちが皆、魯粛の才能だけでなく、人柄をも気に入り、彼と語るのを好みました。魯粛の葬式には孫権自ら参加し、諸葛亮も喪に服したとのことです。このような人柄の良さが演義での損な役割につながっていったのかも知れませんね。