三国志・奇想天外なアイディアマン、革命児・魯粛の絶大な功績とは!?

三国志・奇想天外なアイディアマン、革命児・魯粛の絶大な功績とは!?

三国志演義では単なるお人よしに描かれている魯粛。しかし正史に記されている魯粛は才能あふれる英雄です。今回は魯粛の功績について触れていきましょう。


革命児・魯粛誕生

魯粛、字は子敬。徐州臨淮郡で172年に誕生しました。孫策や周瑜よりも三つほど年上ということになります。家は資産家で、困窮した士を養うために惜しげもなく家財を使い、田畑まで売り払ったことから瞬く間に評判になりました。
魯粛は体格も良く、志も高く、剣術や弓術、馬術にも優れ、近隣の子供たちを集めてはよく軍事訓練を行っていました。天下が乱れ、これから先は軍事力が重視されることを見抜いていたのです。しかし地元の年長者は魯粛の行動に異を唱え、魯氏もこんな狂児が誕生したらおしまいだと嘆いていたそうです。
三国志「呉書」でのこの辺りの魯粛の描かれ方は、日本の戦国武将・織田信長を彷彿させるものがあります。

周瑜との親交

魯粛の名声を聞きつけ、居巣の県長である周瑜が食糧の提供を求めて訪れます。
気前のいい魯粛は屋敷にある二つの米倉のうち、一つを周瑜に差し出しました。三千石です。さすがに驚いた周瑜は以後、魯粛と親しく交わるようになりました。
袁術も魯粛に興味を持ち、東城の県長に起用しています。袁術は皇帝を称した人物で三国志でもよく書かれることはなく、魯粛は早々と袁術に見切りをつけて周瑜を頼ったと記されています。
しかし、袁術は四世三公を輩出した名士の中の名士であり、魯粛同様に革新的な人物ですので、むしろ魯粛は気に入って傍に仕えたのではないかとも考えられます。
後に魯粛は孫権に帝位に昇ることを勧めて驚かれますが、実は袁術に帝位に就くことを進言したのも魯粛なのかもしれません。

劉曄との親交

曹操の配下として重用されることになる劉曄とも魯粛は親交がありました。
この場面の後世への伝わり方はまちまちですが、揚州の地で鄭宝という人物が地元の民1万あまりを率いており、王族である劉曄を担ぎ上げようとしていました。魯粛は劉曄に鄭宝の危険性を手紙で知らせており、劉曄は謀をもって鄭宝を殺害し、その軍勢を手に入れたと伝わっています。
呉書では、劉曄が鄭宝に仕えるべきだと勧めたのを、周瑜に説得されて思いとどまっています。そして孫権に仕えることを周瑜に勧められるのです。
魏書と呉書では、この出来事の起こった時期も大幅にずれており、どちらが正しいのか判断がつきませんが、劉曄と魯粛に親交があったのは間違いないようです。

孫権への驚きの提案

やがて魯粛は孫権に仕えることになります。
孫権は魯粛と二人、差し向かいで腹をわって話をしたそうです。
孫権は「漢王朝を救うために斉の桓公や晋の文公のような働きがしたいが、どうすればいいか」と魯粛に問いかけます。
魯粛は地元の徐州を曹操によって踏み荒らされていました。世にいう「徐州の大虐殺」です。魯粛の曹操への憎しみは想像以上だったのではないでしょうか。このときも、
「曹操がいるかぎり、桓公や文公のように働こうと思っても必ず妨害されます。漢王朝の復興も望めず、曹操も排除できない今、将来のことを考えて荊州を奪い、帝位に昇るべきです」と提案します。孫権は苦笑しましたが、ここから魯粛を重用するようになったと伝わっています。
皇族でもない孫権が皇帝となり、天下を二分するという奇想天外なアイディアがこのとき初めて示されたのです。

劉表の軍勢の吸収作戦

孫権は予定通りに荊州の黄祖を攻略するものの、劉表が病没し、そこに曹操が侵攻してきます。魯粛はいち早く孫権に進言し、荊州に向いました。劉表亡き後の荊州の軍勢を味方につけるためです。
しかし劉表の跡を継いだ劉琮があっさりと曹操に降伏し、荊州のほとんどが曹操の領地になってしまいます。
対抗策として魯粛は劉琮と家督を巡って争った劉表の長子・劉琦を孫権側に引き込み、勢力の拡大を目論みました。当時の劉琦の後ろ盾は客将である劉備(玄徳)です。魯粛は当陽県長坂でようやく劉備(玄徳)に遭遇します。劉備(玄徳)は曹操の追撃にあって南へ落ち延びている最中だったのです。
魯粛が提案する同盟を劉備(玄徳)は喜んで受け入れました。そして軍師たる諸葛亮を孫権のもとに派遣することを決めるのです。
こうして「赤壁の戦い」に向けた準備が進んでいきます。

曹操への驚愕の一手

曹操軍の侵攻に対して帰順を求める臣が多い中で、魯粛はあくまでも徹底抗戦を主張します。曹操への私怨も少なからず含まれているものだと推測されます。魯粛の朋友である周瑜も曹操との決戦に賛同しました。
そして孫権軍は見事に赤壁の戦いで曹操軍を破るのです。凱旋した魯粛を孫権は立ち上がってねぎらいました。
しかし魯粛の視線は次の展開に向いています。魯粛は曹操の勢力拡大を封じるために荊州の一部を劉備(玄徳)に貸し与えることを提案します。自領をわざわざ他人に貸し与えるなど考えられない戦略です。
この報告を聞いた曹操は愕然として、手にしていた筆を落としたといいます。まさに会心の一手だったのです。

関羽との単刀赴会

益州を占領した後は荊州を孫権に返すと約束していた劉備(玄徳)でしたが、益州を落としても荊州を返す素振りがありません。怒った孫権は呂蒙に命じて荊州を攻めて一部を奪い返します。それに対して荊州の総司令官であった関羽も怒って出陣しました。
互いに一触即発の状態の中で、リーダー同士の話し合いの場が設けられるのです。それが世にいう「単刀赴会」です。兵と馬を百歩離れたところに布陣させて、魯粛と関羽の二人だけで会見するというものでした。
こちらの描かれ方も「呉書」と「三国志演義」では真逆になっています。呉書によると魯粛は、劉備軍に大義がないことを追求し、関羽は一言も切り返せなかったと記されています。
この会見によって荊州は孫権領と劉備領に分割されることになったのです。

まとめ・魯粛の先見の明

劉備(玄徳)軍が力をつけたことによって曹操は二方向を警戒しなければならなくなり、勢力の拡大が難しくなりました。こうして天下は三分され、本格的な「三国志」に突入していくことになるのです。
魯粛は217年に46歳で病没しますが、魯粛の提案に従い、229年に孫権は皇帝に即位しました。そのとき孫権は「魯粛はまさに先見の明があった」と述べたそうです。
三国志の立役者・魯粛。彼の奇想天外なアイディアがあればこそ、三国時代を迎えることができたのかもしれません。

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