三国志・呉が建国されたときには曹操・曹丕・劉備(玄徳)はすでに没していた

三国志・呉が建国されたときには曹操・曹丕・劉備(玄徳)はすでに没していた

三人の皇帝が並び立った異例の時代「三国志」。しかし皇帝が三人揃ったのはずいぶんと後のことでした。それぞれの国の建国についてお伝えしていきます。


三国志に登場する三国とは

三国志に登場する三国とは

三国志に登場する三国とは

三国志が指す三国とは「魏」「蜀」「呉」のことです。このとき中国には三人の皇帝が存在していたことになるのです。そして天下統一を目指して戦いを繰り広げていきます。
一般的に208年に行われた「赤壁の戦い」はこの三勢力がぶつかり合ったものでしたが、魏・蜀・呉のいずれの国も存在していません。ですから赤壁の戦いは「曹操勢力VS孫権・劉備(玄徳)同盟軍」の戦いという扱いです。

では、いったいいつごろから三国は成立したことになるのでしょうか?
今回は三国の成り立ちについてお伝えしていきます。

魏の誕生

魏の誕生

魏の誕生

曹操の勢力=「魏」というのが共通認識ですね。確かに曹操は213年に「魏公」となり、216年に「魏王」となっています。この時点で魏という国は成立しています。しかし曹操は皇帝には即位していません。曹操は魏王のまま病没してしまうのです。ですから後漢王朝はここまで存続していたことになります。

後継者の曹丕は献帝からの禅譲を受けて220年に皇帝に即位しています。もちろん元号も変わり、「建安25年」が「黄初元年」となるわけです。五行思想によると後漢のテーマカラーである「赤」の次は「黄」です。ですから黄初という元号になったのでしょう。

ここで後漢王朝は滅んでいます。

蜀の誕生

蜀の誕生

蜀の誕生

劉備(玄徳)の勢力=「蜀」というのが共通認識ですね。劉備(玄徳)はライバルの曹操とは異なり、皇帝に即位しています。221年のことです。劉備(玄徳)は皇族の血筋にあたり、後漢王朝の存続を願っていたわけですから、それを簒奪した魏を認めることができず、「蜀漢」として後漢王朝を引き継ぎました。このあたりは完全に自称です。

正式な手順で王朝を引き継いだのは魏になりますので、蜀漢の正当性は低いといえます。しかし劉備(玄徳)や諸葛亮は後漢王朝の再興という「志」のもとに戦い続けるのです。ここでポイントになるのは、蜀が建国されたときには曹操はすでに亡くなっていたということです。曹丕の代に対抗するために建国されたのが蜀であり、黄初の元号を認めず、「章武」という元号を新しく用いています。221年が章武元年にあたるわけです。テーマカラーは後漢同様に赤ですから、元号に黄の文字は使用していません。

呉の年号

呉の年号

呉の年号

孫権の勢力=「呉」というのが共通認識です。しかし正式に呉が建国されたのはかなり後になるのです。孫権はとても微妙な立場に立っていました。それは関羽を倒すために、孫権が曹操に臣従したためです。もちろん一時しのぎ的な意味合いが強かったとは思いますが、曹丕が魏を建国して皇帝に即位したタイミングでは、孫権はその配下だったことになります。

では孫権は魏の新しい元号を使用していたのでしょうか?
ここでもやはり孫権の微妙な立場が見て取れます。孫権の勢力内では建安の年号が使い続けられていました。「建安27年と記された走馬楼木簡」が出土しています。蜀ですらこの時期には建安の元号を使用していないのです。
しかし対外向けに輸出される鏡には黄初の年号が使用されていました。魏に臣従しているという証明を外向けにはしていたのです。
このときに孫権は呉王となっていますので、呉という国が成立したことにはなるのでしょう。

孫権が独自の年号を使用し始めたのは、曹丕が孫権の曖昧な姿勢に腹を立てて攻め込んできたときです。ここから孫権は自領にて「黄武」という年号を使い始めました。その直前に陸遜が「夷陵の戦い」で蜀の劉備(玄徳)の大軍を撃退しています。独立勢力としてやっていけるという自信がこのときに孫権に芽生えたのかもしれません。

しかし皇帝には即位していません。なぜなら皇帝に即位する名目がなかったからです。曹丕には正式に禅譲を受けたという大義名分がありますし、劉備(玄徳)にも皇族として後漢王朝を復興するという名目があります。しかし何ら関係のない孫権がいきなり皇帝になるのはおかしな話です。

呉の誕生

呉の誕生

呉の誕生

孫権は呉王として魏の黄初の「黄」と、蜀の章武の「武」をとった「黄武」の年号を使い続けます。黄の文字を使用しているあたりは、後漢王朝に取って代わるという意思ははっきりしていますね。
これが229年まで続くことになるのです。魏では初代皇帝の曹丕(文帝)はすでに亡くなり、二代目には曹叡(明帝)が即位していました。蜀でも初代皇帝の劉備(玄徳)は亡くなり、二代目には劉禅が即位しています。そして蜀の丞相・諸葛亮によって第一次北伐から第三次北伐まで進められたタイミングです。陸遜が「石亭の戦い」で魏の曹休を撃破した直後のことです。魏に対抗できるという自信がついたのでしょう。

孫権はここでようやく皇帝に即位します。そして元号を「黄龍」と定めました。
ついに三国の皇帝が並び立ったわけです。しかしこの時点では多くの英雄がすでにこの世を去っていました。魏では曹操・曹丕・荀彧・夏侯惇・張遼・賈詡などはもういません。蜀でも劉備(玄徳)の他、五虎大将は全員この世を去っています。龐統や法正も亡くなっていました。呉では周瑜・太史慈・魯粛・呂蒙・凌統などを欠いています。

まとめ・人材不足の感じがある三国並立時代

まとめ・人材不足の感じがある三国並立時代

まとめ・人材不足の感じがある三国並立時代

229年、やっと本格的に三国状態が成立したことになります。しかしここまで三国志を彩ってきた魅力あふれる英雄たちはほとんど亡くなっています。全体的に人材不足の感が否めません。なんだか寂しいですね。
厳しいことをいうようで恐縮ですが、こうして急激に三国志は面白くなくなっていくのです。
晋の天下統一が280年ですから、まだ50年もあるのですが、ほとんど関心が向けられていません。三国志ファンでもここから先の展開はあやふやな方が多いのではないでしょうか。

一番わかりやすいのは、魏の皇帝に曹操が即位し、同時に蜀では劉備(玄徳)が、呉では孫権が皇帝に即位する形です。そうすれば五虎大将もいるし、張遼も魯粛もいる(周瑜や荀彧、龐統は無理でしょうが)。そんなベストメンバーに近い状況で覇を競いあう姿が見たかったですね。
どちらにせよ、やはり呉が蜀との同盟を切り、荊州の関羽の背後を襲うところから始まるのかもしれませんが・・・。





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