一発逆転の鄧艾の戦略と日本陸軍のインパール作戦に相違点はあるのか

一発逆転の鄧艾の戦略と日本陸軍のインパール作戦に相違点はあるのか

不可能を可能にし、形勢を一気に変える険峻な山岳地帯を踏破しての侵攻。三国志では鄧艾の蜀侵攻が有名ですし、日本陸軍ではインパール作戦が有名です。相違点について見ていきましょう。


魏の蜀討伐軍

魏の蜀討伐軍

魏の蜀討伐軍

262年に魏はついに蜀を滅ぼすために大軍を送り込みます。このとき魏では、実権を握っていたのは司馬昭でした。
司馬昭は鎮西将軍・鍾会に10万の兵力で長安から漢中へ侵攻させ、征西将軍・鄧艾に3万の兵力で狄道から沓中に侵攻させました。沓中には蜀の主力・姜維が駐屯しています。さらに雍州刺史・諸葛緒に3万の兵力で祁山から武都に侵攻させ、姜維の背後を突く動きをとります。
魏の本隊はあくまでも鍾会の軍であり、鄧艾・諸葛緒の軍は囮です。

姜維はこの戦略を看破し、巧みに諸葛緒の軍との接触を避けて、南に退却します。そして漢中から成都に向かうための要衝である剣閣に籠城するのです。これにより鍾会率いる10万の兵は、計画通りに前進することができなくなります。

蜀の天然の要塞

蜀の天然の要塞

蜀の天然の要塞

蜀は四方を険しい山脈に囲まれた天然の要塞になっています。長安と漢中の間だけでも海抜2,000メートルを超える秦嶺山脈が東西に連なっているのです。剣閣を姜維が死守している限り魏軍は成都にたどり着けないはずでした。現に鍾会は撤退を検討したほどです。

ここで鄧艾が新しい作戦を提案します。
それは鄧艾の軍が「陰平より峻険な山岳地帯を突破し剣閣の背後に出る」というものでした。鄧艾は孫子の兵法にある「その備え無きを攻め、その思わざるに出る」を実行に移そうとしたのです。
しかしこれはまさに「言うは易く行うは難し」です。簡単に踏破できる山岳地帯であれば、当然のように蜀側も警戒します。踏破は不可能と考えていたからこそ手薄になっていました。つまり鄧艾はそれほど険しい道のりに挑戦したわけです。。

最大の問題は兵站

最大の問題は兵站

最大の問題は兵站

もっとも問題なのは兵站の確保でした。
進軍するのはいいですが、補給できなければ兵は戦うことなく皆餓死します。陰平から江油まではおよそ100km。高い山と深い谷が鄧艾を待ち受けていました。鄧艾は山には穴を掘って道を通したと伝わっています。簡易なトンネルのようなものを作ったのでしょう。谷には橋を架けて進みます。かなりの時間を要する作業です。
あまりの険しさで、当然のように兵糧の輸送は困難になります。鄧艾軍は餓死寸前の危機に陥りますが、奇跡的に江油にたどり着きます。
鄧艾はもともと地理や地形に精通しており、その知識や経験があってこそ踏破に成功したと思われます。鄧艾以外では成し遂げられない難行だったのではないでしょうか。
守兵をほとんど配置していない江油城は敵の来襲に驚いてすぐに落城します。もしもここで抵抗を受けていたら、補給を受けていない鄧艾軍は簡単に壊滅していたかもしれません。しかしこの地を守る守将の馬邈はあっさりと降伏してしまいました。

鄧艾の思惑は的中し、蜀軍の戦線はズタズタになります。迎撃してきた蜀の諸葛瞻の軍に苦しめられる場面はあったものの、反撃の末に諸葛瞻を討ち、鄧艾は成都に迫りました。成都の劉禅は籠城することなく、こちらもあっさりと無血開城して蜀は滅びたのです。

戦略の詳細によっては無謀なだけの作戦

戦略の詳細によっては無謀なだけの作戦

戦略の詳細によっては無謀なだけの作戦

果敢にチャレンジした勇気は立派ですが、一歩間違えたら自滅です。
あくまでも地理に精通している鄧艾が自ら兵を率い、鼓舞しながら進んだからこそ成功した作戦であり、他の将が実行していたら山中で力尽きていたことでしょう。戦うことすらできずに死んでいく兵は無念です。仮にこれで鄧艾軍が自滅して3万の兵を失っていたら、鄧艾は後世まで無能な指揮官として名を残すことになったに違いありません。

実はこれによく似た無謀な作戦が、第二次世界大戦の日本陸軍で実行に移されています。周囲の反対を押し切り作戦を強行したのは第15軍司令官・牟田口廉也。場所はインドで、敵勢力はイギリス軍でした。インド北東部の都市インパール攻略を目標にしたことから「インパール作戦」と呼ばれています。

インパール作戦の損害

インパール作戦の損害

インパール作戦の損害

もちろん3世紀の戦争と、20世紀の戦争は異なる点も多いです。銃装備ですし、戦車や爆撃機が活躍しているのが第二次世界大戦になります。
魏軍と日本陸軍では条件も違います。魏軍は圧倒的に兵力や戦力で有利な中での戦いですが、日本陸軍は逆です。厳しい戦況にあり、一発逆転のためには険峻な山岳地帯を踏破してインパールに到達し、ここを占拠して形勢を変えなければならない切迫した状況でした。
加えて司令官が鄧艾のように地理に精通しているわけでもなく、前線に出て兵を鼓舞することもありません。神がかり的な奇跡が起こることを信じて、後方から叱咤激励するのみです。
もっとも問題なのは兵站でした。鄧艾は「敵の備え無き」を攻めたわけですが、この時の日本陸軍はイギリス軍およそ15万の主力が守る拠点に向っています。短期決戦であれば兵站の問題も切り抜けられたのかもしれませんが、主力を相手にするわけですから長期化し、武器弾薬は尽きました。兵站もまったく機能せず、食料も補給されない状態です。
インパール作戦は失敗。およそ3万の戦死者を出して司令官の牟田口は撤退しています。亡くなった兵士のほとんどが餓死、マラリアなどによる病死でした。

まとめ・ハイリスク、ハイリターンな戦略

まとめ・ハイリスク、ハイリターンな戦略

まとめ・ハイリスク、ハイリターンな戦略

このような峻険な山岳地帯を踏破しなければならない長距離移動攻撃作戦は、非常にハイリスクだといえるでしょう。確かに成功すれば起死回生の一撃にはなりえますが、失敗する確率も高く、失敗した場合は壊滅的な自滅行為になってしまうからです。

鄧艾が蜀を滅亡させたことで有頂天になったのも無理のない話ではないでしょうか。鄧艾はリスクをできる限りマネイジメントし、その指揮によって奇跡を起こしたのです。
しかしそんな鄧艾に対し嫉妬を抱いた鍾会によって失脚させられ、処刑されてしまいます。鄧艾が生きていれば呉の征討ももっと早く実現できたかもしれません。

後世、中国史上もっとも優れた武将「六十四名将」に三国志から選ばれたのは鄧艾と張遼の二人だけになります。それだけの功績を残したわけです。
逆に日本陸軍の牟田口は終戦後もインパール作戦の敗戦の責任を追及されるなど、厳しい対応を受けています。
ハイリスクな作戦だからこそ、成功させるためには、兵の勇気と共に将の指揮力・分析力などが大きく問われることになるのでしょう。





この記事の三国志ライター

関連するキーワード


鄧艾

関連する投稿


司馬懿に見出されて蜀を滅ぼした魏の名将【鄧艾】

曹操(孟徳)が建国に大いなる貢献した魏にとって、晩年は裏切りが続出しました。中でも国家を裏切るわけではなく、味方に裏切られて捕えられた将軍といえば、鄧艾が悲運ともいえるでしょう。鄧艾は司馬懿によって才能を見出され、数々の武功を立てて蜀を降伏させるまでになった鄧艾とはどのような人物だったのでしょうか。


おさえておきたい三国志イケメン武将7人

三国志は熱い熱い男たちの戦い。そして熱い男たちが居るところには、必ずイケメンが居るものなのです。今回は、三国志の中でも容姿が整った人物だった7名をご紹介したいと思います。イケメン好きな方は、是非ご覧になってみて下さいね。


三国一のお酒好き!?画期的な酒造法を広めた曹操孟徳と日本酒の意外な関係

お酒に縁の深い三国武将と聞いて、真っ先に浮かぶのは誰ですか?『三国志演義』でお酒に関する失敗が多く描かれている張飛益徳?それとも宴会が大好きだったという呉の孫権仲謀?いえいえ、それより縁が深いのは、魏の君主・曹操孟徳なのです。今回は彼と日本酒の意外な関係や、お酒にまつわるエピソードなどをご紹介いたしますね!


曹家の系譜 ~中国統一の夢ならず~

曹操と5人の魏の皇帝をご紹介します。


覇道の魏、漢王朝再興の蜀。では呉は何を求めていたの?

魏・呉・蜀の物語。それが三国志ですが、魏と蜀と比べて存在感の薄い呉。呉は何を求めていたのでしょうか? ちなみに「 魏 呉 蜀 読み方 」は、「ギ、ゴ、ショク」 です。


最新の投稿


春秋戦国時代 伍子胥の人生について

伍子胥(ごししょ)は、中国の春秋時代に活躍した楚の武人です。彼の本名は員(うん)で、楚の平王によって父と兄が殺されたため、復讐を誓いました。彼は呉に亡命し、楚との戦いで、ついに復讐を果たしました。しかし、後に呉王夫差が越王勾践を破った際、降伏を許そうとする夫差に反対し、意見が受け入れられず、自害させられました。


孫氏の兵法の孫武(そんぶ)とは?

『孫氏の兵法』における「孫氏」とは、古代中国の軍事思想家である孫武です。兵法書『孫子』を著し、戦争や軍事戦略に関する理論を全13篇から構成。特に「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」が有名で、戦争を避けることが最も優れた戦略であると説いています。 参考:ドラマ 孫子兵法 ‧


『キングダム』における羌瘣とは?

羌瘣は、漫画『キングダム』に登場する架空のキャラクターです。彼女は羌族出身の少女で、精鋭の暗殺者集団「蚩尤(しゆう)」に属していました。彼女は、原作、映画においても非常に魅力的なキャラクターです。その環境や周辺を史実を参考に紐解いてみます。


赤兎馬とは? 三国志初心者必見 三国志における名馬の物語

赤兎馬とは、三国志演義などの創作に登場する伝説の名馬で、実際の存在については確証がなく、アハルテケ種がモデルとされています。体が大きく、董卓、関羽、呂布など、三国時代の最強の武将を乗せて戦場を駆け抜けました。


春秋戦国時代 年表 キングダム 秦の始皇帝の時代の始まり

キングダム 大将軍の帰還 始まりますね。楽しみにしていました。 今回は、秦の始皇帝「嬴政」が、中華統一を果たす流れについて記述しようと思います。映画、キングダムのキャストの性格とは若干違うかもしれませんが、参考程度に読んでみてください。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング